アンナプルナ(2回目)

2016年春 アンナプルナまとめ


前代未聞、5月半ばに講演会の予定を入れ、順応登山の標高にも達しないまま撤退




計画発表

3月7日にブログで突如アンナプルナ南壁の挑戦を発表した。

4月9日から、アンナプルナ南壁(8091m)に向かいます。
(中略)
このリズムを確かなものするために、来月からアンナプルナ南壁(左中央のリッジから登るルート)に向かいます。
(中略)
このリズムをアンナプルナ南壁で完璧に仕上げて、秋のエベレストに向かいます。

アンナプルナ南壁は、とても美しい山です。

ベースキャンプから山頂までは標高差4000m近くありますが、前回挑戦した北側のアンナプルナに比べると、雪崩が少なく短期間に長時間行動で登るには適しています。
今回はベースキャンプから望遠レンズによる冒険の共有もやります。
(ベースカメラマン1名、現地カメラアシスタント2名、コック1名の少人数で頑張ります。)


アンナプルナは8000m峰としては屈指の難易度で、南壁はその中でも最も困難なバリエーションルートで精鋭中の精鋭が開拓してきたルートである。


レフトピラー中央は1のルート。後にエベレスト南西壁ルートも初登頂したドゥーガル・ハストン(英)らが初めて登頂に成功したが、下山時に1人が雪崩により死亡している。 日本では1987~88年にかけて群馬県岳連隊(山田昇ら4人)が冬季登頂したが下山時に2人が墜落死しているなど超危険なルート。
参考:群馬県岳連の会報『嶺呂』36号(pdf)

これだけ危険なルートを選択している一方で、5月22日に講演会の予定を入れている。遠征中に5月15日に予定を入れていたことが判明(→おもな講演会一覧を参照)*1。帰りにヘリを使用するのが前提でなければ10日頃には下山してBCを撤収する必要があり、厳しいリミットが切られていることになる。

なお、GW直前まで講演会行脚をしていたこれまでのシシャパンマ遠征に比べれば4月9日の出発はだいぶ早めたように見えるが、これとて特別に早いわけではない。 栗城と違う北面一般ルートではあるが、スペインとニュージーランド、ブルガリア、ルーマニアの登山家が3月中旬にBC入りしており、3月のうちにC2までのルート工作と順応を行っている。


なお、ペトロフとギャバンは2014年のブロードピークに遠征しており、厳しいラッセルでルートを切り開きシーズン最初に登頂した実力者である。バークはブロードピークを断念したもののK2に、ペトロフはブロードピーク登頂後にK2にも無酸素登頂している。


順応登山

前回のエベレストからようやく行うようになった6000m峰での事前順応を行うが、アンナプルナ南BC周辺には難易度の低い6000m峰がないため、トレッキングピークとしては高難度*2のシングチュリ(6501m)に向かう。が、なんとこの時点でサーダー(シェルパ頭)を随伴させた。

シングチュリの今いる場所は、クレバス(氷河の割け目)がとても多い地帯のため、安全を優先して今回シングチュリは初めてサーダーと一緒に登っています。


ところがクレバス帯を抜けた後にサーダーの高山病発症を理由に下山してしまう。実際に高山病を発症したのか、登攀の難易度が思いのほか高く、栗城の技量が及ばなかったのをサーダーのせいにしているのかは定かではない。

このため急遽ヘリでアンナプルナサーキット(外院)に移動しチュル・ウェスト(6419m)に向かう。こちらは登頂できたようだが、頂上で2泊の予定が天候悪化のため1泊で下山、しかもSPOTが電池切れで登頂時と下山時のマーカーが表示できないという手際の悪さであった。
結局この一回で順応登山は終了し再度ヘリで南BCに移動。 そのまま南壁へのアタック体制に入る。


1回目のアタック失敗

この後、BCで待機に入る。 悪天候が続いたのが理由だが、この間に北面ルートでは数少ない晴れ間を狙って一斉にアタックが開始され、30日にブルガリア隊のペトロフが先んじて登頂、翌日にはスペインの77歳の男性が登頂するなど少ないチャンスをものにした。
一方栗城は何の動きも見せず、SPOTのマーカーは最終受信日から1週間が経過したため消滅してしまう。
予定した出発も延期になり、BCを出たのは南BCに戻ってから9日も経過した5月1日の事だった。
加えてこのとき軽量化を優先してSPOTを携行しないことを宣言した。動画や音声の中継がない状況ではリアルタイム位置情報を表示するSPOTは重要な共有ツールとなるはずだが、120g足らず*3の軽量化のために共有の建前すらかなぐり捨てたことになる。

しかも出発前に予定していたABC*4の標高5500mが出発時には5300mと変わり、さらに一日では到着せず途中でビバークを余儀なくされ、翌日に「到着」したABCの高度は最終的には5010mまで下がってしまう。事前にサーダーが一旦上部に設営していたABCを栗城が遅すぎるため再び荷降ろしして5010mまで下げたものか、予定していた高度だと1日の行動時間に無理があることが分かったため行き当たりばったりでこの高度にABCを設営することにしたのかは不明である。

なお、翌日のブログのエントリーで明らかになるが、このABCまでサーダーとコックが帯同。シシャパンマでもそうだったが、ABCまでサポートが付くことには何の疚しさも咎めも感じていないようだ。

今、アドバンス・ベースキャンプ(ABC)で静かに休憩しています。
コックのダンさんとサーダーが、あったかいスープを作ってくれています。

この後さらに1日停滞し、翌4日午前4時に出発。8時間余りの行動で6290mまで高度を上げるが、霧が出てきて視界が無くなったことを理由に行動を終了、ここをキャンプ地とする。しかし翌日、霧が晴れないことに加え前線が近づいたことを理由に下山を決定。 ABCでチャンスを待つことなく一気にBCまで下山してしまった。

現地時間8:40(日本11:55)に標高6290m地点から一旦下山することを決めた栗城は、現地時間13:00(日本16:15)にアドバンス・ベースキャンプ(5010m)まで無事に下山しました。
そこから現在は、ベースキャンプ(4100m)に向かっています。

現地時間17:40(日本20:55)に、無事にベースキャンプ(標高4100m)まで戻りました。

2回目のアタック失敗

BCで2日の休養を挟んだのち出発するが、BC出発の報告はなく、ブログに情報が投下されたのはABC到着翌日の夕方であった。これまでの遠征と異なり短い回復期間しかとらずに出発した背景には、直後に講演会が控えており、形ばかりのアタックを取るにしても時間の猶予がほとんどないことが影響していると思われる。

そしてABCではこれまで後退に後退を重ねていた共有を完全に投げ出したようなコメントを残している。

今回は動画配信や生中継はありませんが、今という時間を共有していきたいです。

3/7の時点で『今回はベースキャンプから望遠レンズによる冒険の共有もやります』、4/15の『前回のように毎日の動画配信はありませんが、最後の中継(ベースキャンプからの望遠カメラ)はなんとか…やってみたいと思っています。』といった宣言を完全に反故にする敗北宣言に等しいものだった。

 そしてこの後前回のキャンプ地に向け出発するものの、BCからの写真は相変わらず胡麻粒程度の点が見えるのみで、誰が登っているのかの判別がつかない写真であった。 この登高も濃霧のため前回と同じく6290mで停止。ここでキャンプを張るものの翌11日にこのようなエントリを上げて周囲を唖然とさせた。

今日は「ロックバンド」と呼ばれる場所を越えて標高7000mに上がる予定でしたが、昨日大きな氷が落ちてきて左ひざに当たり、行動可能な範囲の軽傷ですが足が曲がりにくく万全のコンディションではなく、予報では今日も午前9-10時頃からまた雲が出てきて、12日午前の登頂アタックの時には晴れても午後から天気が崩れて風も強まるということでした。
この核心部分の「ロックバンド」は目視できないと進めず、このまま続行して雲の中に入ってしまうと下山が難しくなると考えたので、ここで下山したいと思います。

前日のキャンプ地到着時にはこのようなことは億尾にも出しておらず、真偽は不明であるが「共有」を謳っている人間の情報提供としてはお粗末の一言であろう。

結局その日のうちにABCに戻り、翌12日にBCまで下山するわけだが、仮に負傷がなく好天に恵まれていたとしても、15日までに日本に帰国するには標高差1800mの岩壁を2日で往復しBCに帰還するという超人的な行動を完遂する必要があり、これまでの実績を加味した実現可能性で言えば限りなくゼロに近いことは言うまでもない。 シシャパンマの時同様、アタックする姿を見せるだけのアリバイ作りの可能性も高い。

結局13日にヘリでカトマンズに飛ぶと14日には日本にとんぼ返りし、15日には予定されていた講演会をこなしたのであるが、ブログやtwitterでは帰国予定を一週間延長しギリギリまで粘ったといわんばかりの自己弁護に終始した。

本来の帰国予定は1週間前でしたが、予備日を全て使い果たし、ギリギリまで好天気のアタックを待ちましたが、最後の最後まで条件の整った好天の周期はありませんでした。


考えすぎです。。14日に帰国し15日に講演がありましたが、そもそも帰国の予定が14日帰国した「1週間前」です。@NJDL00pTho0KDCf: 最初から講演会の日にちが決まっていたということは、それに合わせて山に行ったわけで最初から昇る気持ちがないという事になります、、

登る気がなければとっくにもっと早く帰国しています。その方が費用も安くなるからです。好天を待ち続け12日朝に登頂しその日の夜にはABCに戻り、翌日にヘリでピックアップしてもらいカトマンズに向かえば充分15日の講演日の間に合います。


一週間延長したということは、当初の予定通りなら5月6日にはBCを撤収、登山活動に使える日数は一ヶ月にも満たないことになる。
北面では3月に入山していた各隊がルート工作で協力し、一ヶ月半かけてようやく登頂にこぎつけたことを顧みれば、屈指の難関でに挑みながら予備日を含め一ヶ月にも満たない日程しかとっていなかった栗城の見通しがいかに甘く虫がいいものか、または本気を疑られるものであったかは言を俟たない*5

12日朝登頂、その日のうちにABC帰還という目論見にしても、仮に登頂できるスキルがある人間だったにしても雪や氷の状態によって予想外に時間を取られるとか、天候の急変によって行動停止やビバーク、上部キャンプでの停滞を余儀なくされる可能性を考えたら甘い見通しというよりほかにないだろう。ましてやこれまで時間を取られて順調に進まなかった主たる理由を「悪天候」に帰しているのだから…。



また、こんなことも言っているが…

軽量化のためにシュラフ(寝袋)無しでも寝ることができ、自分の中にある課題を一つ一つ越えてきました。

翌日に降りてしまう予定で6290mでのビバークに一晩だけ耐えるのと、これからさらに高度を上げ気温も下がり、酸素が薄くなる(当然、代謝も落ちて余計に寒く感じる)のに、さらに一晩二晩とビバークを重ねて体力を削られたうえで登頂できるかといえば、全く別のはなしである。

後日談

その負傷した左膝だが…

今、左膝大丈夫です。 ありがとうございます。

今日の名古屋講演はネパールの震災支援に協力してくれた中学生の皆さんが来てくれました。嬉しかったですね。…>_<…

10日ほどで無意識に曲げたり膝をついたりできる程度のようである


スケジュール

出発時の発表スケジュール

4月9日 最初に発表した出発日
4月10日 3/31にブログに記述した出発日

これ以外の予定・タクティクスは(事前の順応登山も含めて)出発前には全く発表していない。
アンナプルナBC到着後にシングチュリで順応登山をすることを明らかにしたが、それも頓挫している。


実際の行程

順応ステージ

4月10日 日本出発
4月11日 カトマンズ
4月12日 カトマンズ 「明日ヘリでBCに向かう」「2~3日順応のあと6500mの山に登る」
4月13日 カトマンズ→BC ヘリでBC入り
4月14日 BC
4月15日 BC 有資格者(チベット仏教僧侶や僧籍を持つシェルパ)を呼ばずにプジャ
「明日から慎重にゆっくりと、シングチュリでも高所順応登山してきます」
ブルガリア隊が最初のアタック、失敗
4月16日 BC→シングチュリHC
(5100m地点)
SPOTの軌跡は日本時間PM4:07に4960m地点で停止
4月17日 シングチュリHC→5470m地点
→BC
「クレバスが多く山頂まで進むのが難しそうなことと、同行していた
サーダーが体調不良になり」南西の支尾根5470m地点で引き返す
4月18日 BC→
チュル・ウェストBC
ヘリでチュル・ウェストBCに移動
「急遽チュリ(原文ママ)・ウェスト(6419m)のBCに向かうことにしました」
4月19日 チュル・ウェストBC
4月20日 チュル・ウェストBC
→チュル・ウェスト
4月21日 チュル・ウェスト→
チュル・ウェストBC
強風のため二連泊の予定を一泊で切り上げ
4月22日 チュル・ウェストBC
→BC
5月15日の講演会が決まったことを主催者が発表

アタックステージ

4月23日 BC
4月24日 BC
4月25日 BC
4月26日 BC
4月27日 BC 北面ノーマルルートの登山隊が一斉にアタック開始
4月28日 BC 最終更新から1週間経過したためSPOTの表示が消滅
4月29日 BC 「明日出発しようと思いましたが、前線の通過の予報のため
5500mのABCに向け明後日出発します」とブログにUP
4月30日 BC この日北面ルートからブルガリア隊が今シーズン最初の登頂
5月1日 BC→ABCの手前 5200mのABCに向け出発しました」
この日のうちにABC予定地には到着せず
スペイン隊(77歳の男性)、ニュージーランド隊が登頂
5月2日 ABCの手前→ABC 「今日11:15(日本14:30)に、標高5010mのABCに着きました(*)」
「明日はレストして明後日にアタック」
5月3日 ABC コックのダンさんとサーダーが、あったかいスープを作ってくれています。」
5月4日 ABC→6290m地点 「現地時間12:20(日本15:35)頃に6290m地点まで進みました。」
5月5日 6290m地点→BC 悪天候のため下山
5月6日 BC
5月7日 BC 「明日から再びアドバンス・ベースキャンプ(ABC)に向かい、明後日
ABCから再度登り始める予定です。」
5月8日 BC→ABC? 報告なし
5月9日 ABC? 「今夜午前3時(日本時間6時15分)にABCを出発します」
5月10日 ABC→6290m地点 日本時間6:55出発、同13:30着
5月11日 6290m地点→ABC 「昨日大きな氷が膝に当たって万全ではないため下山します」
5月12日 ABC→BC
5月13日 BC→カトマンズ ヘリで移動
5月14日 カトマンズ→日本(**)
5月15日 東京 秋葉原で講演会
講演会の予定が入っている
5月16日 北海道 札幌で講演会
(*)設営しました、ではないことに注意
(**)15日の講演主催者のFBに「昨日帰国したばかりの…」との記載
(特に表記のない場合はBCはアンナプルナ南BCのこと)

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最終更新:2016年10月16日 21:43

*1 その翌16日にも札幌でスポンサーになっている会社で講演を行ったことが判明した。

*2 NMA(ネパール山岳協会)のグレーディングではシングチュリはED-(Extremely Difficult)で上から二番目の難易度。

*3 SPOT GEN3の電池込み重量114g

*4 なお、栗城はABCと言っているが、第一登のイギリス隊の遠征では普通に「C1」である。一回目の失敗の後結局BCまで戻ってしまっているので、ABCとしての意味合いは薄い。

*5 まして、登頂者の一部はその後ダウラギリやマカルーに転戦し未だ登山活動継続中だったのである。 なお、ペトロフは5月23日にマカルーの無酸素登頂にも成功した