マナスル問題

マナスルの山頂には到達していない



2008年10月
マナスル8163mに日本人として初となる単独・無酸素登頂
山頂からスキー滑降

とあるが、これは登山歴詐称である可能性が高い。世界で最も権威がある認定機関「ヒマラヤン・データベース」に登頂を認められていないからである。
そのヒマラヤン・データベースの記録にあるように頂上手前にあるコブの地点(8133m地点と思われる)までの到達としか認められていないにも関わらず、本人は堂々と「マナスル8163m単独・無酸素登頂」としている。
世界的にはマナスル登頂を認められていないが、本人は登頂したと言い続けている状態である。
マナスルの登頂を目指し、そのコブが頂上の手前であるにも関わらず下山したということは、頂上手前で敗退したということなのである。もしくはそのコブをマナスル山頂と勘違いし、下山してしまったということなのだから。

(※)ヒマラヤンデータベース(Himalayan Database)はヒマラヤ登山史の権威であるエリザベス・ホーリーが編纂しているデータベース
(※)その後、公式サイトの「日本人初」という表現は削除され、「山頂からスキー滑降」が「山頂直下から」に変更されたが、本人の存命中は「単独無酸素登頂」という表現のままだった。
(※)栗城の死後、2019年1月に放送されたNHKの番組「“冒険の共有”栗城史多の見果てぬ夢」の中で、栗城がマナスル山頂に達していないことが放送され、それを機に栗城公式サイトでも「マナスル8163m頂上直下まで」に変更された。
(※)本人が「山頂から滑り降りた」と本に書いているので、最高到達地点からそのままスキーで滑降したと考えるのが自然である。
(※)英語版wikipediaでは8133m地点からのスキー滑降とされている (出典はヒマラヤン・データベース)
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_ski_descents_of_Eight-Thousanders#cite_ref-Hawley_8-50
(※)著書の「NO LIMIT 自分を超える方法」にも日本人初のマナスル単独無酸素登頂という記載があり、重版でも修正されていない*1

ソース

Ascents - Autumn 2008
Manaslu (continued)
Oct 12 09:45 Nobukazu Kuriki** (Japan)

「**」の注釈部分 Manaslu (** indicates fore-summit only)
http://www.himalayandatabase.com/2008%20Season%20Lists/2008%20Autumn%20A7.html

マナスルの無酸素登頂について

頂上手前のコブで下山している訳だから登頂さえしていないのだが、それを省いて考えてみると、単独・無酸素登頂という言葉は、「単独」でさらに「無酸素」で(本人の認定に拠る)登頂を果たしたいう意味である。しかしいわゆる厳密な意味で「単独」とは考えにくい。この時点で日本人初の単独登頂という言葉が消える。さらに単独と無酸素を切り離して考えたら日本人初の無酸素登頂も成立しない。栗城は無酸素登頂に対しても「日本人初」という言葉を使用しているが、驚くべき事に彼が無酸素登頂したとしている30年近く前に、日本の先駆者たちによって既に成し遂げられている。

1981年10月12日 マナスルにて尾崎隆日本人初となる無酸素登頂
2日後の14日には加藤保男富田雅昭が同じく無酸素で登頂。

そしてさらにこの記録から4年後には、12月に無酸素登頂が成し遂げられている。

1985年12月14日 山田昇斎藤安平がマナスルに無酸素アルパインスタイルで登頂を果たす

このように偉大な記録が何十年も前に達成されているのにも関わらず、抵抗なく「日本人初」という言葉を安易に使う姿勢こそ、この登山家の姿勢を見事に表しているのである。

ヒマラヤン・データベースに認定されていない

258 名前:底名無し沼さん[] 投稿日:2010/11/07(日) 23:59:25
himalayandatabaseの2008年秋、マナスルを見ると、計91人が登頂。
そのうち、22人に**マークがつき、(頂上の手前まで)の注釈つき。 
栗城はその1人。日本人登頂者7人の中でも、真の登頂を果たしていないのは栗城1人。 
10月12日登頂の8人でも、登頂していないのは栗城のみ。 

259 名前:底名無し沼さん[sage] 投稿日:2010/11/08(月) 00:08:17
>>258 
同じ日に真のピークまで行ってないのも栗城だけだね。 
最初に登ってるし時間的余裕はあったろうに。 
これでは技術がないと思われても仕方がない。 

Oct 12 09:45 Nobukazu Kuriki** (Japan) 
Oct 12 11:23 Ms. Eun-Sun Oh (S Korea) 
Oct 12 11:23 Dawa Wangchuk (Dawa Ongchu) Sherpa (Mathilow, Nepal) 
Oct 12 11:23 Pasang Tenzing (Pasang Tenji) Sherpa (Upper Walung, Nepal) 
** indicates fore-summit only

ソース

Ascents - Autumn 2008
Manaslu (continued)
Oct 12 09:45 Nobukazu Kuriki** (Japan)

「**」の注釈部分 Manaslu (** indicates fore-summit only)
http://www.himalayandatabase.com/2008%20Season%20Lists/2008%20Autumn%20A7.html


日本山岳会でも登頂認定はされていない

日本山岳会が認定した日本人の8000m峰登頂リスト
http://jac.or.jp/info/shiryou/8000japan08feb.pdf (該当部分を抜粋した画像
チョ・オユーとダウラギリは登頂したと認定されているが、マナスルは認定されていない。

山岳ジャーナリストによる解説

池田常道氏(山岳ジャーナリスト/「岩と雪」元編集長)による解説
偽りの登頂が目立つようになったのは、やはり公募隊に代表される8000m峰大衆化時代になってからである。
マナスル登頂者のなかには、手前のコブを「認定ピーク」と呼んではばからない人物がいる。
頂上ではなく認定ピークに登ったということは、頂上手前のコブで敗退したのと同義なのだが、
そういったレベルの登山者が無酸素・単独登頂の成功者としてメディアに登場するご時勢なのだ。
出典 国立登山研修所「登山研修」 池田常道「頂上とは何を指すのか?」 Vol.25 2010 P.40
https://www.jpnsport.go.jp/tozanken/Portals/0/images/contents/chousa/kensyu/vol-25.pdf

マナスル女性初登頂者の森美枝子氏

栗城を2009年前後に取材していた北海道放送のディレクターのブログによると、マナスル女性初登頂者の森美枝子氏は、2009年1月に栗城に直接「あなたはマナスルに登頂していません」と指摘していた。
「あなたは、マナスルには登頂していない。あなたが登ったのは手前のコブ。本当の頂上は、その先にある。わかってるわよね?」
口調は穏やかだが、強い目だった。栗城さんは、渋い顔になった。
2018年06月13日 https://ameblo.jp/chekitara/entry-12383466037.html (→WebArhiveによるキャッシュ)
https://ameblo.jp/chekitara/entry-12385300931.html (→WebArhiveによるキャッシュ)
(出典ではマナスル女性初登頂者のMさんと表記されているが、マナスル女性初登頂者のイニシャルでMは1人しかおらず、隠す意味もないため記す。)
この件について、ディレクターの河野啓氏は2020年に出版した「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」にも詳しく記している。


他の登山隊の残置テントを使っている

C3ではロシア隊のテント、C4ではフランス隊のテントを使っている。

無事に今、C3に着きました。
(中略)
今、ロシア隊のテントの中にいます。
ロシア隊はもう登山終了らしく、ロシア隊のシェルパが使っていいよと言ってくれていたので、使わせてもらいました。おかげで広いテントの中、一人でいます。

キャンプ4に着くと黄色いテントがぽつんと立っていた。フランス隊が捨てていったテントだ。中には靴下や使用済みの酸素ボンベが転がっていた。少し異臭がするが、自分のテントを立てるより、ここで少し休み時間を稼いだ方がいいだろう。

午後0時。山岳カメラマンが待つ標高6900m地点にまで降りる。
ロシア隊が捨てていったテントの中に入り、体を横にする。

他の隊が作ったルートをお金を払って使わせてもらっている

ベースキャンプマネージャーを務めた藤川健氏の記録
2008.09.29 http://telemark.fujiken.boy.jp/?eid=916491
マナスルベースキャンプには多くの隊が滞在していますが、その中でも最大の規模を誇るのがNZのラッセル・ブライス隊です。
このラッセル隊はもっとも早くからマナスルに乗り込んで、現在C3までのルート工作はすべてラッセル隊が行っています。
BCにいる20以上の登山隊と10人以上のソロ・クライマーたちは、それぞれにルート工作を行うわけではなく、
使用料を支払って、ラッセル隊が作ったルートを使っています。その代り、雪などでルートが埋まった時などは、
ラッセル隊のシェルパ達が掘り出してくれるのです。

スキー滑降

著書「一歩を越える勇気」p82
2008年秋にマナスルの山頂から滑り降りた。しかしマナスルでは4回ターンしたところで気絶し、
雪の塊に突っ込んだところで目を覚ました。スキーは有酸素運動なので、8000メートルで滑ると、
酸欠状態になり、頭が真っ白になってしまうのだ。
4回ターンで意識を失うような状態で、どうやって滑り降りたのか

参考データ

標高(ブログより)
BC:4800m、C1:5700m、C2:6400m、C3:6900m、C4:7400m

  • 撮影隊はC3まで登っている。
午後0時。山岳カメラマンが待つ標高6900m地点にまで降りる。

  • 山頂の様子
2007年5月に登頂した竹内洋岳氏の登頂写真 (バックアップ)
http://weblog.hochi.co.jp/photos/uncategorized/2007/05/21/summit_hirotaka_takeuchi.jpg
2011年10月に登頂した青空山岳会の登頂写真
http://aozorasangakukai.namaste.jp/11100430.jpg

  • ベースキャンプマネージャーを務めた藤川健氏の記録

藤川氏の記録で特に印象的な部分の抜粋 (2008.10.11のブログ)
http://telemark.fujiken.boy.jp/?page=2&cid=50457 (現在該当部分が消されている 魚拓とそのキャプチャ画像
今日は、栗城君はC3からC4へ移動。
徐々に標高が高くなるため、なかなか思うように体が動かない様子でした。
通常、シェルパで3時間、平均して4~5時間かけて移動するのですが、栗城君
は8時間かかってしまいました・・・・。
昨晩、出発時間を決める際、シェルパが4時間あれば着く(シェルパがね)と言ったら、

栗城君、「じゃあ、早く着いてもやることないからお昼すぎにでればいいですね」
一同「。。。。」
これまでの栗城君のペースをみても、シェルパと同じ時間で行動するのはありえない。

BCから必死でもっと早く、6時か7時に出てもいいと説得するも、
なかなか言うことをきかず、結局出発予定時刻は9時になった。
しかし、今日出発したのは10時・・・。
BCでは僕とサーダーの、溜息がもれたのでした。
案の定、シェルパが30分で移動した距離を2時間もかかる出だし。
このままではC4まで12時間、着くのは真夜中でピークアタックどころではない・・
「あと何時間でつくんですか!」
と半分キレながら無線を送ってくるが、それを決めるのは栗城君の足次第。
僕には見守る以外できることはない。
あまりにペースが遅くなったら、引き返すよう説得するくらいだろう。
しかし栗城君、後半はがんばった。
午後2時を過ぎたくらいから突然ペースが上がり、なんとかC4到着の目途がたちました。

  • 動画
サンマーク出版の特設ページの動画
http://www.sunmark.co.jp/topics/kuriki_ippo/

クレバスにはラダーやロープが設置、中間キャンプ地にも多数のテントがあることがわかる。
ストックをクレバスの向こうに放り投げたり、脱いだグローブを仕舞わずブラブラさせながら歩いたりと不用意な行動も多い。

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最終更新:2020年11月28日 14:17

*1 第8刷 2013年7月発行で修正されていないことを確認