来歴

栗城 史多(くりき のぶかず、1982年6月9日 - 2018年5月21日)は日本の企業家、登山家。北海道瀬棚郡今金町出身。 北海道檜山北高等学校、札幌国際大学人文社会学部社会学科卒業。株式会社たお代表取締役社長。よしもとクリエイティブ・エージェンシー(吉本興業株式会社の子会社)に2011年9月頃から死去時まで所属していた(業務提携と発表されている。よしもと公式サイト*1)。講演活動を中心にして年に1、2回ほど登山を行いその様子をコンテンツクリエイターとして撮影・販売していた。
2009年頃に拓殖大学大学院地方政治行政研究科に在学していた(中退した模様)*2

2001年4月、地元の高校卒業後に上京し、吉本興業が運営する芸人・タレント養成所の「NSC東京校」に入学する。このことは北海道放送で栗城を取材していたテレビディレクターが栗城の死後に明らかにしている*3。(以前から証言があったが、確たるソースは死後になって出てきた)。
ディレクターが取材した栗城の高校時代の担任教師は「お笑い芸人になりたいって言ってましたよ」と証言している。同じくディレクターがNSCへの取材で見せてもらった栗城の入学願書には「演劇っぽくもある新しいスタイルのお笑いを追求したいです」と書かれている。
栗城本人はNSCに入ったことを公にせず、演劇学校に入った、脚本家を目指していた、など語っていた。著書では1年間フリーター生活をしていたと書いている*4。後のプロフィールではこの時期ニート生活をしていたと強調している。NSCの同期が栗城を記憶していることから、実際にはそれなりの期間在籍していたものと思われる*5

本人発表の経歴

  • 1982年6月9日に、北海道瀬棚郡今金町に生まれる。
  • 2001年4月、地元の高校卒業後上京し、役者目指して(別ソースでは脚本家を目指していたという話もある)演劇学校に入学するも退学。以後フリーター生活。プロフィールではこの時期ニート生活をしていたと強調している。(芸人志望でよしもとNSCに入っていたことが後に判明)。
  • 2002年4月、北海道に戻り札幌の大学に入学(大学名は非公表)。失恋し一時引きこもる。他大学の山岳部に入る。
  • 2002年年末に、中山峠から小樽市の銭函まで、1週間程度の雪山(標高1,000m前後)の年越し縦走を行った。
  • 2004年5月21日に、マッキンリー登頂に向けて日本から出発。初の海外旅行。
  • 2004年6月12日17時10分に、マッキンリー(北米最高峰 標高6,194m)単独登頂。
  • 2005年1月に、アコンカグア(南米最高峰 6,959m)単独登頂。
  • 2005年6月に、エルブルース(ヨーロッパ最高峰 5,642m)単独登頂。
  • 2005年10月に、キリマンジャロ(アフリカ最高峰 5,895m)単独登頂。
  • 2006年10月に、カルステンツ・ピラミッド(オセアニア最高峰 4,884m)単独登頂。
  • 2007年5月に、チョ・オユー(世界第6位高峰 8,201m)無酸素単独登頂。7,700m地点からスキー滑降した。
  • 2007年12月に、ビンソンマシフ(南極大陸最高峰 4,892m)単独登頂。
  • 2008年10月に、マナスル(世界第7位高峰 8,163m)の日本人として初となる無酸素単独登頂と、山頂からのスキー滑降に成功。
  • 2009年5月に、ダウラギリ(世界第8位高峰 8,167m)無酸素単独登頂。インターネット生中継を行う。
  • 2009年9月に、チョモランマ・北稜北壁メスナールート(世界最高峰 8,848m)無酸素単独登頂を目指したが体力の限界に達し、7,950mで撤退。
  • 2010年5月に、アンナプルナ(世界第10位高峰 8,091m)無酸素単独登頂を目指したが、山頂400m手前で撤退。
  • 2010年8月末から、二度目の挑戦となるエベレスト・南東稜ノーマルルート無酸素単独登頂を目指したが、C4サウスコル8,000mに達することができず7,750mで撤退。9月29日にはC3 標高7,200mからのインターネット生中継を行い、酸素を吸うというパフォーマンスを演じる。日本人として初となる登頂には至らなかった。
  • 2011年5月に、シシャパンマ(世界第14位高峰 8,013m)南西壁の無酸素単独登頂を目指したが体調不良により7600m地点で敗退。
  • 2011年8月末から、三度目の挑戦となるエベレスト・南東稜のノーマルルートを少し逸れたサンス・クロワール(本人談)からサウスコルを通過するルートより無酸素単独登頂を目指したが、デポした装備をカラスに荒らされたことを理由に、今回もC4サウスコル8,000mに達することができず7,800m地点で敗退。
  • 2012年5月に、二度目のシシャパンマに挑戦するも、7000m地点到達前に進行が不可能になり敗退。下山中に滑落して負傷し、救助に向かったシェルパと共に下山した。
  • 2012年8月末から、四度目の挑戦となるエベレスト・西稜ルートで登頂を目指したが敗退。凍傷のため自力下降できずシェルパに救助され下山。手指や鼻に重い凍傷を負う。
  • 2013年11月、2014年1月 2012年に負った凍傷のため両手指9本を切断
  • 2014年7月 ブロードピーク8047m単独・無酸素登頂。K2に向かうと発表するが取りやめる。
  • 2015年10月 エベレスト 8150m地点まで
  • 2016年5月 アンナプルナ南壁 6200m付近で「膝に氷が当たった」として下山。(公式サイトではこの登山について一切触れられおらず、無かったことになっている。)
  • 2016年10月 エベレスト 7400m地点まで
  • 2017年5月 エベレスト 中国側から北壁を登るとしていたが、チベット側ノーマルルートを7400m付近まで登った後に北壁には取りつかずにネパール側に移動し、西稜7200m付近まで。その後ネパール側ノーマルルート方面6850m付近で断念。
  • 2018年5月 エベレストで死去

デビューまでのまとめ

「元ニート」「元引きこもり」を自称しているが
実際にはそのどちらの経験も無く、高校卒業後に短期間フリーターをしていたのみ。
「引きこもり」は彼女にふられて部屋で数日間落ち込んでいたことを大げさに誇張しただけ。

眼鏡(時計宝飾)店を経営し、後にホテル経営者となる裕福な両親の元に2人兄弟の次男として生まれる
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小学5年生のころ、父親が一人で温泉を掘りはじめる(5年後、実際に温泉を掘り当てた、とされる)*6
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1999年(高校2年)、母親が癌で他界
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2001年春、高校卒業後、都会に憧れ、よしもとNSCに入所するために上京するも途中で辞め、以後数か月フリーター生活*7
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彼女*8に「車を持っている大卒の公務員がいい」と言われ、2002年4月に北海道に戻り「名前を書けば入れる大学(本人談)」に入学 *9
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車を買い公務員試験の勉強を始めるが、大学1年の夏、彼女に「2年間付き合っていたけどあんまり好きじゃなかった」と言われふられる
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ふられたショックで無気力になりアパートの部屋に1週間引きこもる。布団に人の形の黒カビが生えた、と話す*10
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2002年9月2日(大学1年)、栗城が代表となり今金の仲間達と地元今金町の特産品を札幌三越前で売るイベントを行う。大学3年まで開催した。*11
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元彼女が山を登っていたので、自分も登山をしてみたくなり、他の大学の登山部に入部
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2002年(大学1年)年末、山岳部の先輩と2人で中山峠から小樽市の銭函まで1週間程度の雪山(標高1,000m前後)の年越し縦走を行う
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2004年(大学3年)6月、いきなり初海外一人旅でマッキンリー登頂
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マッキンリー登頂後、帰国時に「7大陸最高峰単独登頂」の夢を宣言する
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2005年(大学4年)のときにスポンサーをつけて、アコンカグアとエルブルスに登頂。
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2005年9月、北海道の札幌の経済人らが栗城応援団を発足 *12
このころから地元で講演会やトークショーに呼ばれるようになる
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2005年10月にキリマンジャロ登頂、12月に南極ビンソンマシフ敗退
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2006年3月、大学卒業。卒業式に練習なしで100kmマラソンを実行するも、途中で断念しタクシーを使用する。
(大学時代のエピソードはほかにも学園祭のステージで全裸になり実行委員会につかまったことなどを武勇伝として語っている)
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2006年10月にカルステンツ・ピラミッド登頂
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2007年、日テレ土屋敏男のプロデュースで「ニート登山家」としてデビュー*13チョ・オユー登山を動画配信し、その後DVDを発売
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2007年8月、「株式会社たお」を設立
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2007年12月、南極大陸ビンソンマシフ登頂
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「世界初・前人未踏・単独無酸素で世界七大陸最高峰に挑戦する元ニート登山家」としてメディアに登場するようになる*14
(その後はトーンダウンして「日本人初」となり、2011年頃からこの文言を使っていない)
 ↓
現在に至る

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最終更新:2018年10月18日 23:11

*1 吉本公式サイト 栗城史多 所属:よしもとクリエイティブ・エージェンシー(死後も見れたため、生前ずっと所属していたと分かる)https://web.archive.org/web/20161219104611/http://search.yoshimoto.co.jp/culture_prf/details.html?id=3460(キャッシュ)

*2 拓殖大学のサイト(キャッシュ) https://web.archive.org/web/20150924112937/http://www.takushoku-u.ac.jp/news/2009/100122kuriki.html

*3 2009年前後に北海道放送で栗城を取材していたテレビディレクターのブログ「お笑いタレントを目指していた登山家」2018年06月10日 https://ameblo.jp/chekitara/entry-12382663907.html (→WebArhiveによるキャッシュ)

*4 『一歩を越える勇気』 高校卒業から大学入学まで1年間のブランクがあり、川崎市に住んで牛丼屋と警備員のバイトをやっていた、とある。

*5 https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1527057692/851

*6 温泉を掘り当てたのは誰?参照

*7 よしもとNSCにどのくらいの期間所属していたかは定かではない。また社会通念上はフリーターではなく大学受験浪人になるだろう。

*8 この彼女は2歳年上で、栗城が高校3年(今金在住)の時から高卒後のフリーター時代(川崎在住)を経て、大学1年の夏(札幌在住)まで2年間付き合ったと語っている

*9 AERA記事参照

*10 通常、1週間程度ではカビは生えないし、万年布団でカビが生えるときも人型にはならないので、ただの法螺話と思われる

*11 2002年08月29日北海道新聞朝刊、広報いまかね2002年10月号。なお、この今金町の特産品販売イベントで地元北海道でのマスコミにコネクションが出来たと語っている(VIVA ASOBISTのインタビュー記事魚拓)。このインタビュー記事では大学3年まで物産市をやったとあるが、同記事内で大学3年のときには開催していないとも語っており、矛盾している。大学2年の2003年8月29,30日に開催したことは広報いまかね2003年10月号で確認できる。

*12 札幌の経済人ら、世界7大陸最高峰単独登頂チャレンジの大学生の応援団を発足 (オリジナルサイトはリンク切れ)

*13 ファウストでのインタビュー記事

*14 AERA記事参照