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著書名:遠江国を本貫とする石谷氏の私的調査
著者名:松浦図書助
※本ホームページの題名が変なのは、デスクトップマスコット"伺か"その他を置いたのが先だった為です。
※2022年12月24日より、Amazonにて下記の書籍を発行します。内容的にはほぼこのホームページと同じなので、必要な場合には本稿の公式参考出典としてISBN番号や書名をお使いください。
『遠江国を本貫とする石谷氏(石ヶ谷氏)の調査報告』
ISBN-13 : 978-4815036119
目次
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1.本稿について
本稿は、系図上、
石谷政清の5男である
石谷清重の末裔を称する一族を母方に持つ筆者が、その趣味において私的に先祖及びその眷族の
石谷氏の歴史を調査した結果に基づき、斯くの如く作成しているものである。これを公開する意図は、同じく遠江国を本貫とする石谷氏、石ヶ谷氏、石貝氏等の名字を名乗る者の先祖探しや、石谷氏関連の調査を行う者がいた場合の参考情報になれば良いと思った事に拠る。基本的に重要な事項は本ページにおいて引用及び出典を併記して記載し、それについて論述する形式を取ってはいるが、筆者が旧字を新字に置換えている部分や、誤記、古語から現代文へ変換する際の翻訳の間違い等の存在が考えられる。従って、正式に内容を調査するに当たっては、参考文献本紙を御確認願いたい。また、どのような参考文献があるかという確認のため、本文中に
使用していない参考文献についても本稿末に一覧記載する。なお、本稿の作成に当たって資料調査の効率化及びその保管を目的として、資料そのものを抜粋し転記して本稿とは別ページに保存しているが、これらは基本的に筆者が本稿を作成するための都合で用意しているものであるので、その資料を閲覧する場合には、基本的に図書館等を当たって参考文献本紙の確認を御願いするものである。
Wikipediaの遠江石谷氏関連のページについては、主に筆者が編集しているため、類似の表現が散見されると思われるが御承知置き願いたい。本稿の取扱いについては、金銭のやり取りが発生する家系図調査等の商業目的での使用は禁止するが、私的及び学術的側面から石谷氏の調査資料とする場合や、筆者と同じく石谷氏末裔の方等が、御自身で家系調査を行う為の資料として使用するような非営利目的の場合においては、印刷、編集等、自由に使用して頂いて構わない。
2.石谷政清とその先祖
遠江国
佐野郡西郷石谷村(現在の静岡県西部)を本貫とする石谷(イシガヤ)氏は、同地に存在していた土豪と思われる
石谷政清(文亀3年(1503年)~天正2年(1574年))を家祖とし、その名字の由来とする。石ヶ谷、石貝(イシガヤ、イシガイ)という名字も静岡県内に多く分布するが、基本的にこれらは石谷の異字体の名字と考えて良い。発音については『
寛永諸家系図伝』等の公式資料に置いては『イシガヤ』ではあるが、通例として『イシガイ』と発音する場合もある。
『寛永諸家系図伝』
石谷(いしがや)
家伝にいはく、もとは二階堂と号す、大織冠(藤原鎌足)十一代遠江守爲憲の後胤なり、政清遠江国石谷村に住す、村の西南に大岩石あり、其岩側に八幡の庿あり、是村の氏神なり、政清氏神のましますところを崇、このゆへに二階堂をあらためて石谷と称す。
『新訂寛政重修諸家譜』
藤原氏 爲憲流
石谷(いしがや)
寛永系図家伝を引いていはく、もと二階堂を称し、行清がとき外祖父西郷が家号を用い、其子清長がときまた二階堂を称し、その子政清遠江国石谷村に居住す。村の西南におほいなる岩石あり。その岩の頭に八幡の廟あり、これ村の氏神なり。政清氏神のまします所を尊崇す。この故に二階堂をあらためて石谷と称す。今の呈譜に代々遠江国佐野郡西鄕の庄に居住せしにより、行清がときあらためて西鄕と称し、政清めされて東照宮に奉仕するにをよび、西鄕の局の称呼を諱て石谷にあらたむといふ。
上記のように、『
寛永諸家系図伝』や『
新訂寛政重修諸家譜』に拠れば、石谷政清は石谷氏を称する以前において、
二階堂氏、
西郷氏、いずれの名字を使用していたかは明白ではない。記載から見るとどちらかというと二階堂氏を称していたようにも取れるが、呈譜において、
西郷局の呼称に憚って西郷氏から石谷氏に改めた、と加えているため、恐らくは西郷氏を称していたのであろう。また、子息である太平山龍淵寺十二世住職の呑雪に関しても『
新編武蔵風土記稿』において西郷氏を称していたとの記録があるため、この点からも概ね西郷氏を称していたのだろうと推測される。なお、二階堂氏であるか西郷氏であるかについては、後述の推論にて検討する。
『
新訂寛政重修諸家譜』に記載される呈譜については、重大な疑義が存在している。西郷局の呼称に憚って石谷政清が西郷氏から石谷氏に名字を改めたと記載されるが、西郷局が
徳川家康に仕えたのは天正6年(1578年)である。一方で石谷政清が死没した年は天正2年(1574年)であるため、石谷政清が西郷局に憚る事は不可能なのである。また、下記抜粋の通り、
正月二十六日、徳川家康、遠江国飛鳥内一色の内を、石谷政清に与える。
三五九九 徳川家康判物写 記録御用所本古文書一○内閣文庫所蔵
今度被行知行事
(遠江国佐野郡)
右、五石半之飛鳥内一色百弐拾俵弐斗俵也、井前々屋敷分有由緒、令訴訟候間、為新給恩出置畢、永不可有相違、守此旨弥於令奉公者、重而可加扶助者也、仍如件、
永禄十二年己巳 (徳川家康)
正月廿六日 御名乗御書判
(政清)
石谷十郎右衛門殿
永禄12年(1569年)に、徳川家康から石谷十郎右衛門(政清)に宛てた書状が残されており、この永禄12年(1569年)の段階で既に石谷政清が石谷氏を称している事が明らかであるため、『
新訂寛政重修諸家譜』の呈譜の記載については、石谷氏が西郷氏を称したくない、或いは同一視されたくない何らかの理由によって創作した逸話だと思われる。この辺りの事情ついても後述の推論にて再度検討する。
いずれにしても、文亀3年(1503年)生まれの石谷政清がいつの頃か遠江国佐野郡西郷石谷村に移り住んだ事で名字を石谷氏に改めた事が、遠江石谷(イシガヤ)氏の名字の発祥であり由来である。
なお、室町幕府奉公衆を勤めた土岐石谷氏も遠江石谷氏同様『イシガイ』と読むが、土岐石谷氏と遠江石谷氏との関連性は特には見当たらない。また、石谷政清が西郷氏を称していた事から、三河西郷氏の支族であるとも考えられてきたが、これも肯定する資料は無い。これらの説は石谷政清に至るまでの石谷氏の来歴が不明瞭であるため、『
掛川誌稿』や俗説において、遠江石谷氏を土岐石谷氏や三河西郷氏に関連付けようとしたのであろう。これらについては後述の推論で改めて述べるが、寛永18年(1641年)~寛永20年(1643年)頃に編纂されたという『
寛永諸家系図伝』の時点で遠江石谷氏は自ら
藤原為憲流
二階堂氏を称しているため、清和源氏頼光流土岐氏の土岐石谷氏や、藤原北家隆家流菊池氏支族の三河西郷氏と無理に関連付けること自体が間違いであろう。
遠江石谷氏の家系については、石谷政清に至るまでに、二階堂氏、西郷氏を複雑に称している上に、その詳細は不明となっている。『
寛永諸家系図伝』等に拠れば、石谷氏は二階堂因幡守行秋(法名:行欽)の末裔を称している。この二階堂行秋は現在一般的に推測される諸説において、二階堂義賢の子であると推測されているようではあるが、そもそも年代が合わない上に、根拠として充分な出典を見つけることができない。現状において明白に言える事は、あくまでも藤原南家為憲流二階堂支族の二階堂因幡守行秋(法名:行欽)の家督を相続した、その妹婿である西郷庄居住の西郷民部少輔の子孫という事である。この西郷庄の西郷氏についても、『
掛川誌稿』等においては戦国時代に遠江国に所領を得た三河西郷氏に結びつけて考えられているが、これも然るべき根拠は存在していない。三河西郷氏との同一視の原因は、三河西郷氏の支族で西郷正勝の子である西郷局の母が、この西郷庄地域に居住していた戸塚忠春に嫁いだという事実からの誘因と考えられるが、石谷氏自体がわざわざ『
新訂寛政重修諸家譜』において、西郷局に憚って名字を変えたと残す記録から、同族というには疑問が残る。その一方で、
『山科家禮記』を基にした『ふるさと探訪』内の記事
三河の西郷氏と違って土着と推考される西郷氏について『山科家禮記』に次のようにある。
昨夕智阿ゝ一貫持来候、西郷年貢無沙汰御奉書飯賀州被下候也、其案文也、山科家雑掌申遠江國西郷年貢事、
去應仁元年以来一向無沙汰云々太不可然所詮於年々未進分者、如先ゝ不日悉令究済、可被執進請取、尚以及
難渋者、可有異沙汰由、被仰出候也、仍執達如件。
文明三 為信 判
十二月廿七日 之種 判
西郷殿
文書の西郷氏は翌四年二月五日の文書には西郷八郎と録されている。このように山科家から年貢の遅延に関する文書が再々西郷氏宛に発注されていることは、この西郷氏が上西郷にあった山科家の所領地を管理する立場の地頭代の存在であったことを示すものであろう。
と、その詳細は不明ではあるが、
遠江国佐野郡上西郷の
山科家地頭代の西郷氏が、前述の資料に拠れば文明3年(1471年)には存在している。年代的には石谷政清の曽祖父である二階堂行晴(応永25年(1418年)~文明16年(1484年))、祖父である西郷行清(文安3年(1446年)~永正元年(1504年))が生存していた時代には当たるが、石谷氏の先祖の記録には八郎を称する者は見当たらないため、西郷八郎と石谷氏との関係性については判断がつかないところである。また、年代は不明ではあるが、明応6年(1497年)に戦没した倉真城城主松浦兵庫助とともに、西郷荘の西郷氏が下記の通り遠江三十六人衆に数えられている。
『柳園雑記』に関する『掛川市誌』内の記事
室町時代遠江国は今川氏に依って支配され各地の豪族、武将はこれに従った。遠江三十六人衆がそれで、
柳園雑記に、
初馬 河合宗忠 本郷 原氏 平川 赤堀至膳
西郷 西郷殿 原谷 孕石 小山 増田周防守
倉真 松浦兵庫助 増田 松浦治郎右衛門
掛川 鶴見因幡 袋井 堀越殿
いずれの史料においても判然とはしないが、西郷荘地域にて西郷を称していた一族として石谷氏が挙げられ、同地の美人谷城跡もまた石谷氏に由来すると伝えられる以上、この西郷氏と石谷氏は何らかの繋がりがあると考えるほうが自然であろう。またそれ以前の二階堂氏との結び付き等複雑に絡む過程で複雑な家系になったのであろうか。このあたりは推論にて後述する。なお、周辺地域にて今川氏真の配下で西郷監物丞信房という人物が永禄12年(1569年)頃に天王小路での戦功を記録されている(『
静岡県史 資料編7』)が、石谷氏の一族には記載は無く関係は不明である。
戦国時代の大阪の陣に至る以前における遠江石谷氏の活動や勢力については、史料をほとんど見つける事が出来ない。永禄12年(1569)の御黒印を賜った記録、元亀2年(1571年)に徳川家に仕えた記録の後は、文禄の役に伴う文禄元年(1593年)の名護屋滞陣に石谷清平が徳川家康に同行した記録、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦に石谷清重が徳川秀忠に同行した記録こそあるが、しかしその程度の活動記録にも関わらず、一族が数家それぞれに独立して取立てられる程の理由は不明である。徳川家に仕える以前の勢力を推定するものとしては、掛川城北部4km程度の場所(山本神社、掛川市上西郷3918)に、現在では美人谷城(別名:石谷城)と俗称される山城跡があり、伝承では石谷氏の居城跡と伝えられている。掛川城は、大名としての駿河今川氏最期の当主今川氏真が、重臣である朝比奈泰朝を城代として配置し、大名としての今川氏滅亡の時(永禄12年5月17日(1569年))まで戦った城である。しかし、そういった重要な立地に拠点がある割に、遠江石谷氏の活動が史料からは見られないのが疑問ではある。『
干城録』には石谷政清が西郷十八士の長であったとも記載されるが、今一つ内容が不明である。他に伝承として残されるのは、遠江石谷氏の同族とされる駿河国安倍郡足久保村の石谷重郎左衛門が、安倍七騎として今川方、武田方として活動をした伝承である。この石谷氏は旗本になったと伝えられている事や、石谷政清の5男とされる石谷清重の子石谷清春が足久保に居住した記録(『
名古屋叢書続編 士林泝洄』)がある事から、遠江石谷氏の一族である事は明白であろう。石谷重郎左衛門については、石谷十郎右衛門政清(泉龍寺の開基としては石谷十郎左衛門正清の記載あり、また『
袖師町誌』には石ヶ谷十郎左衛門政清の記載あり)の誤伝か、その息子の内の誰かであろうか。なお、石谷清春については海野又十郎を称した記録が『
石ヶ谷家家系図』に記載されており、またこの系図を基に記載されているであろう『
袖師町誌』においては石谷清重が海野又太夫を称したとも記載されており、安倍七騎に関係する駿河海野氏との姻戚関係が推測される。従って、いつの頃か遠江石谷氏は駿河国安倍郡足久保にも勢力を持っていた(或いは今川家臣時代に遠江国から領地替えがあった)と考えられる。また、これ以外に石谷政清の勢力規模を考える内容としては、長男である入澤五左衛門行重が入澤氏を称して武田家に仕えている事や、6男の桑原政重が桑原氏を称して紀州徳川家に仕えている事、井伊氏の重臣となったと思われる小野田小一郎へ娘を嫁がせていた事などからも、かなりの広範囲における婚姻関係や他家に養子を送り込める力関係が伺える。また、2男の呑説(呑雪)については徳川家康の御乎習の相手を務めたとの記録もあるから、子を出家させて一定の学識を積ます事が可能な勢力であったのであろうと推測し得る。これらについては推論にて後述するが、いずれにしても、美人谷城跡周辺を中心として『
干城録』に記されるように西郷十八士の長になれる程度の影響下の領地や家柄、広範囲の婚姻関係を築けるだけの勢力と外交力を持ち、今川義元や今川氏真に仕えたが、今川氏滅亡の直前に徳川家康に仕えた事で家運が開けたと言う事しか判然としない。
なお前述の通り、石谷政清は今川氏に仕えていたとされ、今川家滅亡の直前である徳川家康の掛川城攻略(永禄11年12月27日(1568年))がはじまって後(永禄12年1月26日(1569年))に、徳川家康より知行の安堵状を受け取っている。この時期、遠江国の周辺土豪が多数徳川側に降伏しているので、彼らと示し合わせた上での内応であろうか。時期は不明ではあるが、井伊氏の重臣となった小野田小一郎に娘が嫁いでいる事もあり、そういった筋からの諜略も考え得るだろう。ただ、「井前々屋敷分有由緒(『
静岡県史 資料編7』)」と記載のある事から、何らかの理由でその地を離れており徳川家属下に加わっていた石谷政清に対し、敵側の所領を取り上げ旧領を与えたとも考えられなくは無い。
【石谷政清前後略系図】
(※疑問点:入澤行重は石谷五右衛門?(安倍七騎?)か入沢五右衛門?(武田水軍土屋(岡部)氏配下?)、呑説は呑雪(龍淵寺住職、子供の頃に徳川家康の手習いを務めた古馴染み)、石谷清重は駿河海野氏(安倍七騎)の系統?、乗松彌次右衛門は井伊谷三人衆の鈴木氏家臣の系統?、小野田小一郎は彦根藩小野田彦右衛門為盛)
3.石谷政信系
『新訂寛政重修諸家譜』
政信(まさのぶ)
十右衛門 母は某氏
元亀二年三月十日父とおなじくめされて東照宮に奉仕し、天正十八年関東にいらせたまふの時、武蔵国多摩郡の内にをいて采地二百石をたまひ、慶長十年二月より台徳院(秀忠)殿につかへたてまつる。元和五年六月五日(今の呈譜十月八日)死す。法名良完。(今の呈譜良石) 多摩郡泉村の泉竜寺に葬る。のち代々葬地とす。
石谷政信は石谷政清の3男として生まれ、元亀2年3月10日(1571年)、26歳の頃に、父の石谷政清と弟の石谷清定と供に徳川家康に仕えたとされる。なお、長兄の行重は入澤氏を称し武田家に仕えた後の動向が不明であり、次兄の呑説(呑雪)は出家をしているため年齢順に言えば惣領格となるのであろうが、石谷政信をはじめとして、弟である石谷清定、石谷清重、桑原政重のいずれもが徳川家家臣として各々家を興しているので、その位置付けは不明である。
石谷政信の父である石谷政清は永禄12年1月26日(1569年)の時点で
徳川家康に安堵状を貰っているため、この時点で徳川方であったと推測はされるが、この時期の掛川周辺は政情不安定なままであった。永禄12年5月17日(1569年)に、大名の
今川氏最後の当主である
今川氏真の篭る
掛川城は開城しているが、元亀2年(1571年)頃に
遠江国の大勢が決するまで、
今川氏の旧領をめぐって
徳川氏、
武田氏、
北条氏(
今川氏)が熾烈な領土紛争を繰り返している。この時期における石谷氏の動向も不明であり、『
新訂寛政重修諸家譜』に拠れば、石谷政信の兄である入澤五右衛門行重は武田氏に仕えたとされているし、弟の石谷清重(海野又大夫を称し足久保に隠居した伝承があるため、足久保の
安倍七騎の石谷氏や駿河海野氏との関係が推測される)や、桑原政重などの動向も掴めない。当時にありがちではあるが、どの勢力が台頭しても一族を残すために、婚姻関係を利用して各勢力を天秤にかけてどちらに転んでも良いように手を打っていたのかもしれない。
徳川家康にしてもこのタイミングで石谷氏など召出したというのは、不穏な情勢の中で彼らが敵側に付かないように手を回したと言う事だろう。いずれにしても、この元亀2年3月10日(1571年)を以って、石谷政信は
徳川氏における旗本、石谷氏(政信系)一族の祖となった。
石谷政信の戦場などでの活躍は不明であるが、天正18年(1590年)には
徳川家康の関東移封に従い武蔵国多摩郡に200石を知行したとされる。同様に弟の石谷清定は250石を与えられ、また弟の石谷清重、桑原政重もそれぞれ
徳川氏に仕官している。戦功不明ながら兄弟がそれぞれ独立して充分な所領を賜わっている事から、
遠江国時代の所領がそれなりにあった事が推測される。或いはその
遠江国時代の勢力規模が戦功に不釣合い(石谷政清が18人の郷士を従えた記述から、1,000石規模の勢力を持っていたとしてもおかしくは無い。出典不明の『
袖師町誌』には石谷政清の祖父西郷行清の代に1600貫の所領の記載(『
遠江国風土記伝』の上西鄕 高千六百七拾七石九斗貮升が出典で誤記か?)がある。兄弟で分割相続させて周囲の妬み等を回避し分家によるリスク分散を図ったものであろうか。石谷政信はその後、慶長10年2月(1605年)より
徳川秀忠に仕え、元和5年6月5日(1619年)に没したとされる。死後は多摩郡泉村の
泉竜寺に葬られ、
泉竜寺が石谷政信一族代々の墓所となった。
石谷政信の子孫は、子の石谷政勝の代に500石(次男は彦根藩足軽大将小野田小一郎為躬1000石)、曾孫の石谷清長の代には700石となった。大身旗本とまでは言えないが、700石という石高は旗本衆の内上位20%程度に入る程ではあり、戦国時代では1村支配はする程度の土豪級、江戸時代の諸藩においては重臣クラスの石高であり、立場としては比較的上位に位置するものと考えられよう。また、養子縁組関係などから見て、旗本遠江石谷氏4家合計5200石の一角を担っていたと推察される。目付などを務めた石谷肥前守清茂を除けば、布衣以上は石谷成勝、石谷清夤程度で石谷清夤については、妻が正徳の治を主導した幕臣として高名な新井白石の娘である。近年では、田沼意次が新井白石の経済政策の一部を応用したと評価されているが、この系統の遠江石谷氏と新井白石との婚姻関係により、遠江石谷氏を称する石谷清昌が新井白石の政策を献策したのではないかと推測されている。
【石谷政信以降略系図(太字が後継者)】
4.1.石谷清定系
『新訂寛政重修諸家譜』
清定(きよさだ)
五郎大夫 石谷十郎右衛門政清が四男。母は某氏。
元亀二年三月十日父兄と同じくめされて東照宮につかへたてまつり、大番に列し、天正十八年関東にいらせたまふのとき、武蔵国多摩郡の内にをいて采地二百五十石をたまふ。慶長六年五月二日死す。年五十五。法名道無。多摩郡泉村の泉龍寺に葬る。代々葬地とす。妻は今川義元の家臣久嶋与平が女。
石谷清定(五郎大夫)は石谷政清の4男として生まれ、元亀2年3月10日(1571年)24歳の頃に、父の石谷政清と兄の石谷政信と伴に
徳川家康に仕え
大番となったとされる。石谷清定の戦場などでの活躍は不明であるが、天正18年(1590年)には
徳川家康の関東移封に従い武蔵国多摩郡に250石を知行し狛江付近に
陣屋を構えた。(周辺の経緯については前述の
石谷政信系と重複するので、前述を参照の事。)死後は兄の石谷政信と同様に多摩郡泉村の
泉竜寺に葬られ、
泉竜寺が石谷清定一族代々の墓所となった。
石谷清定(五郎大夫)の子孫は、子の石谷清正の代に合計1,100石を与えられて家の基礎を築いた。大身旗本とまでは言えないが、1100石を越える規模の知行は旗本の中では上位10%近くの立場である。この系統では、石谷清職が、元禄赤穂事件の直後に吉良家を継承し、同事件の不始末を咎められて蟄居した吉良義周(吉良義央の孫)の検死を行い、また後年布衣を許されている。特に高名な人物は出てはいないが、養子縁組等で他の遠江石谷氏との連動が推察される。
石谷清定(五郎大夫)について考察すると、その妻が今川家家臣久嶋與平の娘となっているが、久嶋與平が誰なのかは不明である。ただ、今川家臣の久嶋氏と言えば、後北条家の重臣北条綱成の父で今川氏の家臣であった福島正成(遠江国高天神城城主)と同族であったのではないかと考えられる。遠江国福島氏(久島、九島などの記載もあり)は、高天神城周辺にその勢力を広げていたが、天文5年(1536年)の花倉の乱においては娘婿である玄広恵探側に付き乱を主導し、今川義元側に敗れて衰退した一族である。遠江国石谷氏の本貫地である遠江国佐野郡西郷周辺はやはり高天神城に近く、戦国時代末期に唐突に出てきたかのような石谷氏の戦国時代における立場を推察するべき1つの重要な要素であろう。
【石谷清定以降略系図(太字が後継者)】
4.2.石谷貞清系
『新訂寛政重修諸家譜』
貞清(さだきよ)
十蔵 左近将監 従五位下 致仕号土入 石谷五郎大夫清定が三男。母は今川義元の家臣久嶋与平某が女。
慶長十四年めされて台徳院(秀忠)殿につかへたてまつり、大番に列す。(時に十六歳) 元和元年大阪再陣のとき土岐山城守定義が麾下にありて江戸城の御留守をうけたまはるのところ、貞清頻に供奉せむ事をこふ。執事これをゆるさず。しかれどもなを戦場にのぞまむとのこヽろざしやまず。御出馬の期にをよび歩行にて御あとしたひたてまつりしかば、京師に着御のとき御感ありて黄金三枚をたまふ。すでに合戦にをよぶの時御馬の左右にありて斥候をつとむ。二年正月九日上総国金剛寺村をよひ山邊郡の内にをいて采地三百石を賜ひ、そのヽち御腰物持をつとむ。四年五月相模国愛甲郡の内にして新恩二百石を賜ひ、八年四月台徳院殿日光山にまうでさせたまひ、還御にをよびて宇都宮より御駕をいそがせたまふの時歩行にて供奉す。寛永二年七月二十七日采地の御朱印を賜ふ。九年七月五日御徒の頭となり、十年四月十六日御目付にすヽみ、八月二十六日先に洪水により仰を奉はり、畿内に至り堤の破損を検す。十二月二十六日甲斐国山梨八代二郡のうちにをいて千石を加増あり、すべて千五百石を知行す。十一年大猷院(家光)殿御上洛のとき供奉し、十三年二月二十五日東福門院(秀忠女和子)御不例により京師におもむき、御使をつとむ。六月二十六日あらたに寛永銭を鋳らるヽるにより、仰をうけたまはりて東海道に赴き、近江国坂本にいたる。十四年肥前国嶋原にをいて耶蘇の徒蜂起せるにより十一月九日仰をうけたまはりて、上使板倉内膳正重昌に副てかの地に赴く。十五年正月朔日城攻のとき、賊徒火炮を飛してこれを防ぐがゆへに、諸手討死手負の者多くしてすでに敗走せむとす。これにより重昌とヽもに馬をめぐらして諸卒を指揮すといへども、進みえざりしかばたヾちに驅て塀をのらむとす。この時重昌は銕炮にあたりて死す。貞清よく戦ふといへども、既に槍をきりおられ、甲冑指物も亦破られ其身も創を被りしかば力なく引退く。この日貞清が従士三人討死し、諸手にをいても討死手負ものおほし。これにより其弊に乗じて夜襲あらむもはかりがたしとて貞清創をたへて諸陣を巡見し、不慮を警しめ、細川越中守忠利、松平(黒田)右衛門佐忠之、松平(嶋津)大隅守家久等に、速にその人数をいだして加勢すべきむねこれを達し、かつこの事をよび合戦の次第を江戸に注進す。二月二十七日諸将賊城にせめいり、二十八日貞清板倉主水佑重矩とヽもに城に乗入。この日賊徒盡く平ぎしかば、三月五日彼地を発して歸府しかの甲冑指物等を御覧に備ふ。その後貞清が嶋原表に於てのはからひ御気色違へることあるにより、逼塞せしめらる。十二月晦日ゆるさる。十八年十二月十五日与力十騎、同心五十人をあづけらる。正保二年九月二十三日仰によりて近江国に赴き、水口城を守る。慶安三年閏十月十日さきに洪水により畿内及び近江伊勢等の国々を巡見す。四年六月十八日町奉行に転じ、八月十六日従五位下左近将監に叙任す。萬冶二年正月二十八日職を辞し、七月二十七日致仕す。このとき養老の料廩米六百俵を賜ふ。寛文十二年九月十二日死す。年七十九.法名土入。武蔵国多摩郡泉村の泉龍寺に葬る。後代々葬地とす。妻は板倉内膳正重昌が養女。
石谷貞清は石谷清定(五郎大夫)の3男として生まれ、兄の石谷清正とは別に家を興した。石谷貞清は最終的に江戸北町奉行を務め、従五位下左近将監に任じられ、1,500石もの領地を与えられたのは、戦国動乱の時代から太平の江戸時代にかけて、武官から文官に移り変わる世情の中で、命令違反をしてでも戦地に赴くだけの気概、黎明期の江戸の行政を務める官吏としての能力、浪人達の世話をするような人柄、これらが合わさり、そして血縁関係の幸運に恵まれたからだろう。
戦国末期から江戸初期の石谷氏一族自体には、特に目立った武功の記録は存在しない。しかしながら、血縁関係から江戸幕府譜代大名にして要職を務めた井伊氏の家臣団(小野田小一郎家等)との関連性が垣間見え、また、江戸初期に京都所司代等を務めた板倉氏とは、石谷貞清自身が板倉重昌の養女を妻としている。本貫の地も徳川秀忠の母である西郷局と同郷の遠江国佐野郡西郷であり、従姉妹に当たる石谷政信の娘が西郷局の父方の一族であろう戸塚忠之に嫁いでいたり、前任の江戸北町奉行であった朝倉石見守在重とも安倍七騎での石谷氏との繋がりも見え、実力以外の要素としても、石谷貞清には出世の糸口を掴みやすいであろう幸運が見て取れる。そして、石谷貞清は、元和元年(1615年)の大阪夏の陣では徳川秀忠の側にあって斥候を務め、寛永14年(1637年)の島原の乱では幕府正使である板倉重昌を補佐し、副使としてではあるが大規模な戦闘指揮も経験している。その後も官吏として江戸幕府に仕え、慶安4年(1651年)の由比正雪の乱(慶安の変)や、慶安5年(1652年)の承応の変などでは叛徒の鎮圧に尽力し、明暦3年(1657年)の明暦の大火の後の復興事業においても、江戸北町奉行として行政を担うなど、太平の世に切り替わる時代の重要な舵取りをこなした。
石谷貞清はマイナー武将とは言え、名将言行録などにもその事績が収録されている。子の石谷武清は従五位下長門守に任じられ2,500石を与えられた。孫で喜多見氏に養子に出した喜多見重政は、すぐに取り潰しになったものの喜多見藩主となっている。子孫は石谷澄清が布衣を許されているものの、幕末の石谷穆清に至るまで著名な人物は輩出していない。石谷穆清は因幡守、長門守に任じられ多くの奉行職を歴任した。井伊直弼とは昵懇の間であったと言われ、安政の大獄でも五手掛として罪人の処断に関与している。一方で、文久2年5月(1862年)に一橋家の徳川慶喜が将軍後見職になった後の、文久2年6月5日(1862年)に一橋家家老を務めており、安政の大獄で生じた井伊直弼と一橋家との対立とはまた違う立場に身を置いていたものと推測される。裏付けるように石谷穆清の子である石谷鉄之丞は、一悶着あったようには見えるものの知行をそのまま継承し、安芸守を称して御小姓頭取衆などに名を連ねている。
【石谷貞清以降略系図(太字が後継者)】
5.1.石谷清重系尾張藩士
石谷清重は石谷政清の5男として生まれ、『
名古屋叢書続編 士林泝洄』によれば
徳川秀忠に従い慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに従軍したが、子の石谷清春の代には浪人し、駿河国安倍郡足久保村に在住していたようである。石谷清春の子である石谷清宣は同族であった
石谷貞清に属して寛永14年(1637年)の島原の乱に参戦し、武功があったという。後に
尾張藩藩主
徳川光友に召出され200石を賜り、尾張藩
附家老の
成瀬氏の同心として配された。この系統は石谷清章の代に2家に分かれ、『
藩士名寄』に見える限りでは、一家が250石、一家が最大で切米140俵を賜っていたようである。また、武勇に優れたところがあったのか常心流馬術や指矢前などで褒賞を賜った記載が『
藩士名寄』にある。
後述するが、この石谷清重の系統は駿河国の伝承に残る『安倍七騎』の石谷氏と強い関係性が推測される。『安倍七騎』の石谷氏は駿河国安倍郡足久保村を拠点としており、資料の拠っては『石谷弥兵衛』の名前が安倍七騎の1つに挙げられているが、この2点を『
藩士名寄』と言う尾張藩の公文書によって満たしており、且つ石谷清重自体が徳川秀忠に仕えて幕臣になっていた記載もまた『
名古屋叢書続編 士林泝洄』 に拠って満たすのである。本稿において、この点は後述の推論他で特記するべき掲題と言えよう。
【石谷清重以降略系図(太字が後継者)】
(尾張藩士250石)
石谷政清
↓
石谷清重
↓
石谷清春
↓
石谷清宣
↓
石谷清紹 ,石谷清光
↓
石谷清章 ,加藤貞四郎の妻
↓
石谷清行 ,石谷清生 ,清賀(西郷又吉) ,元政(石谷鍋四郎)
↓
石谷又十郎
↓
石谷庄五郎 ,石谷孫三郎
↓
石谷又三郎
↓
(尾張藩士300石)
石谷弥兵衛
↓
石谷十左衛門(石ヶ谷家系図に石谷弥兵衛清勝の子、十左衛門清房が存在する。但し士林泝洄に拠れば清勝の父清春も弥兵衛を名乗っており、石ヶ谷家系図では清春の子が清勝(弥兵衛)、清宜(清宣の事か)、清時(又兵衛)、清村(金五郎)とあるため、その誰かである可能性もある。)
↓
(以下不明)
(尾張藩士140俵)
石谷政清
↓
石谷清重
↓
石谷清春
↓
石谷清宣
↓
石谷清紹 ,石谷清光
↓
石谷清章 ,加藤貞四郎の妻
↓
石谷清行 ,石谷清生 ,清賀(西郷又吉) ,元政(石谷鍋四郎)
↓
石谷繁八
↓
石谷喜太郎
↓
5.2.石谷清重系石ヶ谷氏
『袖師町誌』の記述
石ヶ谷家家系図(石ヶ谷五郎造蔵)
嶺の石ヶ谷五郎造家に石ヶ谷一族の系図がある。近世に古い系図から書き写したものと思われる。天児屋根命から藤原不比等を経て遠江権介為憲に至り、その子孫にあたる西郷太郎太夫行清が、遠州佐野郡西郷、五谷、五明にて千六百貫の知行を領し、その孫石ヶ谷十郎左衛門政清より代々石ヶ谷を姓とした。その長男は石ヶ谷十助清道と言い、幕府御書院御番をつとめ七百石を領した。政清の三男清重は海野又太夫と称し五百石御書院御番をつとめたが、病身の故をもって駿州足久保に退去した。その孫弥兵衛清勝は正徳六年二月八日没し(法名禅得現清信士)、清勝の次男清升は朽木周防守(六千石旗本)の家臣となり百石を領したが、病を得て駿州に退去し、その子孫が現在の石ヶ谷五郎造であり、当町の石ヶ谷一族はみなその血統であると誌されている。
『
袖師町誌』に拠ると、石谷清重は石谷政清の3男として生まれ、いつの頃からか海野又太夫と称して御書院番を勤め500石を賜ったとされている。但し、この『袖師町誌』というのは、聊か記載の間違い、疑問、混乱が散見される『
石ヶ谷家家系図』の記載等を元に作成されたであろう事を考慮しなければならないだろう。石谷清重の兄、石谷政信が200石、石谷清定が250石を賜っていた『
新訂寛政重修諸家譜』の記載と比べると、石谷清重の賜った所領に差が大きい事や、尾張藩の記録である『
名古屋叢書続編 士林泝洄』や『
藩士名寄』には海野氏を称していたと言う記載は無い事などが疑問点として残る。ただ、この『
石ヶ谷家家系図』は、幕府の記録を元に作成したのかというと、旗本家の記載部分において明らかに間違い(人物名や石高、役職など)が多過ぎてその可能性は低く、尾張藩の記録を基にしたかと考えてもまた、石谷清宜(石谷清宣)までしか記載が無くその可能性は低い。『
石ヶ谷家家系図』を有する石ヶ谷五郎造の一族については、寛文7年10月7日(1667年) 死没の人物として、石谷清重から4代目に当たる石谷清升(松室桂岩居士)が系図に記載されており、過去帳、立地、経緯等から考えても1600年代から同地に居住し続ける一族である事には間違いが無い。従って、『
袖師町誌』に記載される石ヶ谷五郎造の一族は、恐らく1600年代に分岐した遠江石谷氏一族の1つであり、駿河国安倍郡足久保村に残った石谷清重の一族の系譜を引いているものと推定される。
先に述べた尾張藩の石谷氏、安倍郡足久保村の石谷氏、袖師町の石ヶ谷氏については、駿河国地方で伝承される安倍七騎に関する石谷氏との関連性が見受けられる。安倍七騎とは駿河国安倍川周辺において勢力を持ち、戦国時代には今川氏、徳川氏、武田氏などの勢力争いの中で活躍した武士団と伝承されるが、この中には安倍郡足久保村の石谷氏が数えられている。安倍七騎の石谷氏は『
駿河国風土記』や『
駿河国安倍七騎姓名覚』に拠れば石谷重郎左衛門や石谷弥兵衛と記録されており、『
袖師町誌』の石ヶ谷十郎左衛門政清や、弥兵衛清勝、『
名古屋叢書続編 士林泝洄』の駿州足久保邑浪人石谷弥兵衛清春などの記載と共通点が見て取れる。遠江国の石谷氏がいつの頃から駿河国の足久保村に拠点を持ったかは定かで無いが、駿河今川氏の家臣時代に得た飛地か替地、同じく安倍七騎に数えられる駿河海野氏の支族と姻戚関係にでもなった時の海野氏支族の所領であろうか。
元亀2年3月10日(1571年)に石谷氏が徳川氏に仕えた時点で父の石谷政清(文亀3年(1503年)生誕)は68歳であり、判明している兄の石谷清定(天文16年(1547年)生誕)の年齢を考えると、石谷清重は当時24歳未満である。年齢面から考えると、元亀2年2月(1571年)の武田信玄による遠江国侵攻に際して、石谷政清を中心として安倍七騎の伝承の通りに遠江石谷氏が戦った事も考えられ年齢ではあるが、石谷政清は天正2年4月15日(1574年)に死没しているため、以降は息子のいずれかが引継いだのであろうか。後に旗本になった石谷政信や石谷清定については、幕府史料の『
新訂寛政重修諸家譜』等にも安倍七騎などで活躍したような記載は無く、遠江国の本貫地に残っていたようにも思われるが、長男の入澤五右衛門行重(安倍七騎に数えられる石谷五左衛門か?)については武田方に付いており、石谷清重の子孫が石谷弥兵衛を称している事から、この両名辺りの行動がその伝承に伝えられているのでは無いだろうか。
石ヶ谷五郎造の家系は五郎造の子の代に家紋を九曜紋から土佐柏(別に持っていた紋らしい)に変えており、墓所を瑞祥山龍雲院として系図も現存したため、それを元にして下記に略系図を記載した。しかし、袖師の石ヶ谷氏については、系図上は石谷清重の子孫になっているが、過去帳と系図、伝承の年代がいまいち符合しない。過去帳や『
石ヶ谷家家系図』、『
名古屋叢書続編 士林泝洄』、に拠れば、寛文7年(1667年)に石谷清升(五郎兵衛の父 、松室桂岩居士)死没の記載があるが、一方で、その父とされる石谷弥兵衛清勝(禅得現清信士)の死没は正徳6年(1716年)となっており、祖父である石谷弥兵衛清春の死没も万冶3年(1660年)となっており、よほど若死にしたのであれば無い事も無いが、という内容である。ただそうなってくると、『
石ヶ谷家家系図』における『依為嫡孫養子 名字相続為』という記載の後、不詳と続いて西郷左衛門、五郎兵衛、源八の添書きがある点、果たして孫がいる年齢であったのか、と言う疑問が存在する。その後も女子と続いている点などから複合して類推するに、この一族は元々が富農(聞いている戦前の規模から)であったのか、分家であったのかはわからないが、安倍郡足久保村の石谷氏の一族から石谷清升を養子とし、その前後で断絶の危機があったため系図に混乱が発生しているのであろう。武田家の拠点である江尻城に比較的近い東海道沿いに屋敷がある事や、『五』が通字であった事から、或いは武田に仕えた入澤五右衛門の系統であったのかもしれない。入沢五右衛門については推論にて後述する。
【石谷清重以降略系図(太字が後継者)】
石谷政清
↓
石谷政信 ,石谷清定 ,
石谷清重 ,清吉(紀州徳川家書院番) ,高天神城城主小笠原与八郎の妻 ,清宗(入沢五右ェ門) ,呑説
↓
石谷清春 ,女子
↓
石谷清勝 ,石谷清宜 ,清時 ,清村
↓
石谷清升(松室桂岩居士・五郎兵衛の父)?
↓
詳細不明(西郷左衛門、五郎兵衛、源八)?
↓
女子(五良兵衛)
↓
石ヶ谷五郎八
↓
石ヶ谷五郎七
↓
石ヶ谷五郎作
↓
石ヶ谷五郎造
↓
6.桑原政重系
『新訂寛政重修諸家譜』
石谷
政重紀伊家に仕へし時より、故ありて桑原を称し、清全にいたりて石谷に復す。
政重(まさしげ)
權左衛門 次郎左衛門 石谷十郎右衛門政清が六男。
越後少将忠輝朝臣につかへ、其のち紀伊大納言頼宜卿に仕へ、長清にいたるまで代々紀伊家につかふ。
桑原政重は、石谷政清の6男として生まれたと推定されるが、生没年を含めて詳細は不明である。『新訂寛政重修諸家譜』に拠れば、桑原政重は松平忠輝に仕えた後、徳川頼宣に仕えたとされる。また、子孫は桑原長清に至るまで代々紀州徳川家に仕えたとされるが、やはり詳細は不明である。
5代目の清全(紀州徳川家家臣岡本作之丞の息子)は、桑原家の娘を妻にし桑原家に養子に入り、後の徳川吉宗に仕えた。徳川吉宗が将軍になるとこれに従い旗本となり、後に石谷氏に名字を改めている。清全とその息子である清昌は、徳川吉宗に旗本に引上げられ、500石を与えられ従五位の官位を与えられる程、破格とも抜擢を受け重用されている。石谷氏に復姓した事については、江戸北町奉行の石谷左近将監貞清などを輩出し、2500石の大身級の一族も居る遠江石谷氏一族として、その系譜を飾る目的があったのではないかと推測される。紀州家出身の徳川吉宗としても、実力はあっても無名の旧紀州藩士重用で政治的軋轢を生むよりは、既に著名であった旗本一族の重用の形を取る方が好ましかったのかも知れない。石谷氏側としても、徳川吉宗と縁のあった桑原政重系の一族と繋がる事で立場上、充分な利益があったと推測される。
此の桑原系石谷氏については紀州藩士時代の経歴が不明であり、石谷清昌などの寛政譜の記載を見ると、祖とする石谷政清以来の血が絶えている可能性がある。石谷清昌の父である清全は石谷氏(桑原氏)の娘を妻にしているが、後に紀州徳川家家臣海野治部右衛門の娘を後妻としている。そして、寛政譜での石谷清昌の母の欄は、海野治部右衛門の娘とされている。義母を母として記載しただけなのかも知れないが、記載通りに読むならば実母が海野治部右衛門の娘となる。この海野氏は、紀州徳川家に仕えた安倍七騎の一つ、駿河国安倍郡井川村の駿河海野氏の一族である可能性がある。駿河海野氏も石谷氏も駿河国安倍郡内勢力を持ち安倍七騎の1つに数えられた一党である事に加えて、遠江石谷氏の祖である石谷政清の息子の石谷清重や子の石谷清春は海野氏を称したとの伝承が袖師石ヶ谷家の系図に残っている。此れ等から考えれば、海野治部右衛門の娘に遠江石谷氏の血が何らかの形で混じっている可能性はあるが、実際に血が繋がっているか否かの事実確認ができる資料を筆者は持っていない。
繰り返すが、石谷政清の子、桑原政重の子孫である桑原長清の娘婿である桑原清全は紀州徳川家で徳川吉宗に仕えていたが、徳川吉宗が将軍となった際に御家人としてこれに従った。相当の才能があったのであろうが、500石を与えられて重用を受け、元文4年に従五位下豊前守を与えられ、この際に石谷氏に復姓している。石谷氏に復姓した理由は、遠江石谷氏との繋がりを強調し既存の旗本家と融合する事で、紀州藩出身者と既存旗本衆との摩擦を避けるためであろうか。その子である石谷清昌は石谷氏の中でも有名である。母が紀州藩の海野氏であるため駿河海野氏との関連も考えられるが、石谷氏の血を引いているか不明である。石谷清昌は、若くして抜擢され、元文5年に僅か27歳で従五位下備前守に叙任されている。前年に父の清全が叙任を受けたばかりであり且つ現役のままであるから、異例とも言える人事であろうか。田沼時代には勘定奉行、佐渡奉行、長崎奉行などを歴任し、田沼意次の経済政策の中で非常に重要な役割を果たしている。後、加増を受けて800石を領有したという。その子である石谷清定 (豊前守)は従五位下豊前守に任じられ、娘を上総国佐貫藩藩主の阿部正簡に嫁がせている。石谷清定 (豊前守)の跡は田沼意次の弟である田沼意誠の子、石谷清豊が娘婿となり継いだ。なお、石谷清豊も従五位下周防守に任じられている。以降は正式な任官か不明であるが、子である石谷清香が淡路守、石谷左内が讃岐守を称している様子である。この桑原政重の系統は閨閥を巧く利用し、破格とも言える出世を果たした事が特徴と言えるであろう。
【桑原政重以降略系図(太字が後継者)】
7.石谷氏傍系石田氏
『掛川市誌』
八、西郷地区
西郷の石ヶ谷 掛川北在二十町程隔て西郷村と言う村の内に石ヶ谷と云処有り。小高き所に御紋石と云亦名字石とも云名あり。石数九ッ有り何れも一々名目有て其の村の土民言ひはやす事なり。所謂兜石、烏帽子石、目付石、碁盤石、御先石、御供石 此両石二ッ宛有 丸石 此の石一ッ一ッ一町程離れ西の人の屋敷の裏に有 都合九ッ有り。九曜の紋所に擬したり。此の石の今存在せし其の由来を尋ぬるに由緒あり住古此処に郷士住けり。其の名を石ヶ谷将監と号す。其の子孫断絶せずして今に西郷村に代々村の庄屋となりて住す。名を石田平八と云ふ、先祖石ヶ谷将監の霊を祭り霊永大明神と号し屋敷の入口の左の方に宮を建て前に華表有り。抑も此石ヶ谷殿の系図は八幡太郎義家の末葉にして今に江戸表に旗本に有り。名を石谷重蔵と言う(二千五百石)。則石谷重蔵より平八二人扶持貰うて住居す代々九曜の紋を付る故に御紋と云所を石ヶ谷と云。此の先祖石谷将監は神君御存在の時軍功有りし人也。天正二年四月十五日卒す。右石ヶ谷の御紋石の有土地は陰地にして古木生茂り誠に古跡と見ゆる也。前に沢川有て小流有。此処屋敷にて庭の居石を堀出して積置く物ならんと俚人の談に言ひならはす。石田平八の云、此所に住古平八先祖の屋敷ありけるを今の屋敷へ引越し住す由と云。将監殿より拝領の石と云ふ。此の石の脇に桜の大木有て満花の躰至って気色好有之よし。今は其の桜枯てなし。杉の木柿の木二本前に掩ひて生茂り極日蔭の陰地なれば石も苔むして滑かなり。人の住還する道側に有。昔は石ヶ谷平八と申しけれども今は石田平八と云古き家柄の百姓也、石の姓は活石に非ず。子持石にして黒石也。丸石は半分埋れたり。(遠江古跡図絵)
『ふるさと探訪 掛川の古城址』
霊栄大明神
中島の平八と云ものの居る所は石谷十蔵の故宅にして、其の先營(せんえい)に七基の碑ありしが正徳三年にあつめて一丘となし、祠を建て霊栄大明神と云、爾来石谷氏より年々扶持米などを贈りて其の祠を守らしむ。
西郷地区にあり、石谷政清、清定、貞清などの霊を奉る霊栄大明神を管理している石田家は、遠江石谷家の傍流と伝えられる。石田家に伝わる伝承によると、石谷政清の叔父に石田左衛門尉行俊が存在する。この行俊が中島に居住し、その子孫が後に中島の石田平八として続いたとの事である。但し、同家は菩提寺が焼失したことに加えて、過去帳には当時の事が記載されておらず戒名没年記載のみであるとの事で、その詳細は不明である。また、同家は旗本石谷家との関係が深く、後年には武清、榮清、眞清、澄清の霊も祀られており、榮清、眞清、澄清については石田家の墓地に埋葬されていると伝えられる。
この系統の通字は『八』であるが、西郷荘の山科家地頭代であったと思われる石谷氏の一族と推定される者もまた、西郷八郎と『八』の字を称している。しかし西郷八郎の名を称する石谷氏は幕府資料等に存在しないため、その存在が不明瞭であったが、この西郷地域に存在する石田平八の家系こそが本来の西郷八郎の家系であり、血縁によって石谷家に吸収されたか、または分派されて今に至るのではないだろうか。あくまでも状況に基づく推測の域を得ないが、武士をやめて本貫を維持するために残った家系が地頭代であった西郷八郎系の石田家、徳川家について転封に従った家系が旗本石谷家と考えれば、前述のような可能性も推測し得るであろう。
【石田氏略系図(傍系省略)】
西郷行清
↓
石田左衛門尉行俊
↓
数代不詳
↓
心清宗無居士
↓
縄安宗規居士
↓
尽安源空居士
↓
提節好全居士
↓
平八(無限大頂居士)
↓
普相陽天居士
↓
良山自休居士
↓
平八(浙江廬山居士)
↓
平八郎(古心本達居士)
↓
平八(南岳栄寺居士)
↓
平八郎勝富(真操義観居士)
↓
幸八郎(浄心軒真實義観居士)
↓
嘉源次(永昌軒真光明観居士)
↓
重蔵(普照軒大観重心居士)
↓
平八朗(広照軒禅應平観居士)
↓
8.美人ヶ谷城&滝ノ谷城
美人谷城について考察する時、筆者は縄張に関する知識が無いためこの面から論考する事が出来ない。また、此の城は石谷氏に関連するであろうと、口伝などを元にした推定がされているが、現時点で遠江石谷氏が此の城を有していたと確定し得る1次資料も2次資料も筆者は知らない。今の所、此の城が記録される当時の史料は無いようである。
此の城の規模について考えた時に、一介の土豪の屋敷と言うには立地に優れ規模も小さくはないと考えられるが、西郷荘の地頭代の屋敷跡と考えれば、さほどおかしい規模でも無いだろうか。
此の城跡の位置は、現在の山本神社(静岡県掛川市上西郷3918)の背後の山の部分である。この場所は、現在の掛川城から北に約4km程、現在の静岡県道39号線掛川川根線に沿って真っすぐ北上して平野部と山間部の境界付近に存在している。この静岡県道39号線が当時どうだったのかは不明であるが、掛川から川根方面に向かって山裾を縫っていくような道であるから、かつても何らかの通路があった可能性が考えられる。また、此の城跡から静岡県道39号線を500m弱下った所では静岡県道81号線と交差し、この道をしばらく西側に行くと秋葉街道と公差して行く。また、掛川城周辺では東海道と交差する道である。此の城の位置というのは掛川城周辺の平野部を北から抑える位置に存在し、此の平野部を掛川城を含めて一望できる場所に存在している。加えて、此の城の平野側には、現在、まるで水堀かのように倉真川が流れている。即ち、この城の位置は、地形的にも物流的にも掛川を抑えるための要衝に当ると考えられよう。
次に当時の村落状況であるが、この西郷地域は西郷荘が置かれただけあり、後年の石高を見た場合豊かな農作地帯であったと考えられる。『掛川誌稿』より古く、1789年頃に成立したと考えられる『遠江国風土記伝』に拠れば、西郷には村が3つあり、南西郷463石7斗5升2合、北西郷453石6斗、上西郷1677石9斗2升との記載がある。また、『掛川誌稿』の時代には、上西郷だけで2115石6斗3升2合、人口1618人を有していたようである。当時の遠江国は戦乱が続いており、平和な時代の生産量より当然劣ってくるとしても、美人谷城の存在する上西郷においては、相応の穀物生産と人口を有していたと考えられよう。
また、この城の位置の戦略的意味を考えた場合、現在の掛川城を遠望できる、と言う問題がある。当時の掛川城と現在の掛川城は異なるが、場所的にはほぼ同じである。今川時代の掛川城は重臣の朝比奈氏を配置し、今川氏真が武田氏に攻め込まれた際に、本拠の駿府館を捨てて入城した城である。掛川城と美人谷城を相対的に考えた場合、掛川城を北部で守るための衛星的な城砦であるか、掛川城を抑えるための城砦であるか、掛川城を攻略する為の城砦として機能するものである。
以上のように、この城が石谷氏の有していた城かは定かではないが、位置的には非常に重要な場所である事は確かであろう。尚、此の城に非常に近接して滝ノ谷城跡が存在している。位置的には美人谷城に何らかの関係のある城と考えられるが、美人谷城以上にその内容は不明である。
9.推論
『掛川誌稿』内の記事
西郷村石谷氏古墟 按ニ天文五年、義輝将軍御元服ノ時、御供衆ニ石谷兵部大輔光政ト云人アリ、又永祿六年諸役人附ニハ、外様衆石谷孫九郎頼辰、御小袖御番衆石谷兵部大輔光政トアリ、此二人ハ父子ナルカ、共ニ遠江國ノ人ト見エタリ、石谷氏西郷ノ石谷ニ住シテ、数世傅ヘタリト見ユレハ、其古墟モ一所ニテハアルヘカラス、
『
掛川誌稿』内にはこのような記載はあるが然るべき論拠は一切無く、単に『石谷』という名字から関連付けただけの内容と思われる。そもそも遠江石谷氏は藤原南家為憲流二階堂氏を自ら称しており、土岐石谷氏は清和源氏頼光流土岐氏を称している為、関連性は見当たらない。また、伝承が確かであれば、
『寛永諸家系図伝』
石谷(いしがや)
家伝にいはく、もとは二階堂と号す、大織冠(藤原鎌足)十一代遠江守爲憲の後胤なり、政清遠江国石谷村に住す、村の西南に大岩石あり、其岩側に八幡の庿あり、是村の氏神なり、政清氏神のましますところを崇、このゆへに二階堂をあらためて石谷と称す。
上記の通り、幕府の公文書とも言える『
寛永諸家系図伝』中において、遠江石谷氏は文亀3年(1503年)生まれの石谷政清の居住地に由来する改姓を苗字の始まりとしているため、土岐石谷氏の発生よりはるかに後代になって発生した氏族である事が明白になっている。従って、遠江石谷氏と土岐石谷氏は無関係であると考える方が妥当であろう。
『[掛川市誌』内の記事
二階堂美啓 鎌倉将軍頼朝より五代源頼嗣の落城の節三家の侍、二階堂民部大夫美啓は御用側人戸塚平内左衛門辰信と同道流浪致した。この時正嘉元年三月十日遠江国遠江国佐野郡掛川在上西郷村に落着き、美啓は六十一才老年に及び仏法に帰依し、持合せの金子もあったから、庄屋右京の取持により堂を建立、出家剃髪して庵主となり二階堂と名付けた。
石谷氏の先祖とも言われる人物に、正嘉元年3月10日(1257年)に遠江国佐野郡西郷荘に土着したとされる二階堂美啓が居る。しかしながら、俗に言われる石谷氏の直接の先祖とするには懐疑的である。少なくとも『寛永諸家系図伝』には二階堂美啓に関する記載は一切無く、直接的な繋がりは見受けられない。ただし、二階堂氏の祖である二階堂行政以前にも二階堂氏の祖、藤原南家為憲流の一族が累代遠江守等に任じられてその支族が遠江国に広く分布している事や、二階堂氏自体も遠江国榛原郡相良荘を有して遠江国周辺に縁があるため、この頃に二階堂氏の支族の誰かが遠江の地盤を固めるため、或いは隠棲するために遠江国佐野郡掛川在上西郷村に土着する事は充分あり得る事だろう。ちなみに奥州の須賀川二階堂氏の祖とされる二階堂為氏(嘉吉3年(1443年)頃、家督相続?)は遠江守を称したととも言われ、その須賀川二階堂氏の家臣である遠藤氏や相良氏などは遠江国に由来する氏族であると言われる。そしてその奥州には泉田氏があり、泉田氏の先祖は二階堂貞宗の嫡男で二階堂因幡守行秋(法名:道欽、応永元年(1394年)死没)と伝えられる。石谷氏の先祖で、応永25年(1418年)生まれの二階堂行晴の養父にするには些か年代が合わないが、二階堂因幡守行秋について類似している内容があり、何らかの繋がりを推測させるものである。
石谷氏は二階堂氏の支族であると伝承がある中で、西郷氏の血脈も引いていると伝えられるが、近年ではこの遠江西郷氏は三河西郷氏とは出自を別とするとも言われている。遠江西郷氏は三河西郷氏の支族であるとの説が『掛川誌稿』などの記述を元に唱えられてはいる場合もあるが、これらは三河西郷氏の血を引く西郷局が石谷氏と同じ地域の生まれであるという事や、三河西郷氏が遠江国に近い三河国に存在したという以外に、拠るべき論拠が無い。『
ふるさと探訪』に拠れば、西郷荘の成立時期と、三河の西郷氏が遠江国(榛原郡)に所領を得たとされる時期は以下の通りである。
『ふるさと探訪』内の記事
西郷の地名については次の文書によって、三河西郷氏の来住説も否定されるであろう。
足利尊氏下文冩
下 富樫介高家
可令早領知・加賀國守護職
竝遠江國西郷庄・小櫟孫四郎・同弥次郎
中原弥次郎跡
信濃源志介跡
事
右人為勲功之賞 所充行也 者、守
先例可致沙汰状 如件
建武二年九月二十七日
右の文章によって西郷庄が建武の頃すでに成立していたことが立証される。
『ふるさと探訪』内の記事
三河の西郷氏が遠江に所領地を持って関係するのは榛原郡に替地を賜ったことを知る次の文書に確認される永禄末期である。
替地宛行状
為河邊替地遠州之内七百貫文遣置上者、永不可有相違者也、仍如件
永禄十二年(巳己)年
三月二日 家康 (花押)
西郷左衛門佐殿
以上によって三河の西郷氏の中世における上西郷土着説は極めて信憑性も乏しく、戸塚忠春の女とする西郷局に関する事跡が『山科家禮記』に見る西郷氏を、三河の西郷氏に結び付けて異なった所伝に育成されたとみるべきである。
そして、そもそも石谷氏自体が以下の内容により三河西郷氏との関連性を否定している。1つ目に『
寛永諸家系図伝』に関する記述である。この『
寛永諸家系図伝』は江戸時代初期のものであり、その信憑性はともかくとして、『
寛政重修諸家譜』よりは誇張が少なく古い家伝における系譜を伝えていると言われている。この中では石谷政清が西郷氏を称したかどうかも明確ではなく、この一族は元来二階堂氏を称していたと記載されている。三河西郷氏と自ら関連付けているのであれば、敢えて藤原南家為憲流二階堂氏を称する必要性は無く、藤原北家隆家流西郷氏を称するべきであろう。しかも、遠江国に藤原南家為憲流の支族は多いと言っても、二階堂氏を称する武家はほとんど見ない。2つ目に、『
寛政重修諸家譜』における伝承であるが、西郷氏支族であった西郷局の呼称に憚って、その名字を西郷から石谷に変えたとある。この説自体は石谷政清が石谷氏を称した時期と西郷局が徳川家康に仕えた年代が合わないので、後世の追従表現か何かだと思われるが、同族であれば敢えて三河西郷氏との関連を否定する意味が無い。
『
寛永諸家系図伝』
石谷(いしがや)
家伝にいはく、もとは二階堂と号す、大織冠(藤原鎌足)十一代遠江守爲憲の後胤なり、政清遠江国石谷村に住す、村の西南に大岩石あり、其岩側に八幡の庿あり、是村の氏神なり、政清氏神のましますところを崇、このゆへに二階堂をあらためて石谷と称す。
『
新訂寛政重修諸家譜』内の記事
今の呈譜に代々遠江国佐野郡西鄕の庄に居住せしにより、行清がときあらためて西鄕と称し、政清めされて東照宮に奉仕するにをよび、西鄕の局の称呼を諱て石谷にあらたむといふ。
三河西郷氏の血族である西郷局は、二代将軍徳川秀忠の生母であり、加えて、西郷局の生まれ故郷は石谷氏の本貫である遠江国佐野郡西郷地域で、石谷氏の館跡と西郷局の生家跡は徒歩でいくらもしない場所にある。その状況にありながら、敢えて同族ではないことを強調しているかのようなこの一文を考えれば、後世の第三者が遠江西郷氏と三河西郷氏を結びつける事は非常に疑問であると言わざるを得ないだろう。
一方で、三河西郷氏の支族かどうかは別として肥前西郷氏支族として検討するとする場合、西郷行清が西郷氏の祖である西郷太郎政隆の名を想像し得る西郷太郎太夫を称している点や、石谷氏(西郷氏)の居城跡とも言われる美人谷城の東隣にある倉真城の松浦氏が九州探題の今川了俊に付き従って来たと思われる氏族である点、遠江国佐野郡西郷の地名は別としても考慮するべきであろうか。
石谷政清の先祖となる西郷民部少輔という人物が何者であるか、肯定し得る資料は残っておらず、推測の域を出ない。少なくともこの遠江国佐野郡西郷地域には西郷庄があり、山科家の地頭代と思われる西郷八郎の名前や、遠江三十六人衆に数えられた西郷氏、またあるいは伊勢長氏の侵攻に従った西郷氏などの名前が見受けられる、という程度である。従って、この西郷氏が二階堂氏支族であるかどうかは判別の付かないところである。
しかしながら、1点考えるべきであろう事がある。遠江西郷氏における西郷の呼称が氏族を表すものではなく、『西郷庄の』という、便宜的に用いる『家号』の場合である。付近で言えば、倉真村の松浦氏のように元々の氏族名を呼称する事もあるが、堀越郷の堀越氏が今川氏支族であったり、孕石村の孕石氏が原氏の支族であるように、西郷という地名を以って西郷を称している場合、二階堂氏支族であったとしてもなんらおかしい事は無いであろう。そう考えれば、石谷氏の祖が二階堂を称したり西郷を称したりしたところで、二階堂氏のまま西郷という家号を便宜上用いたか用いていないかの問題でしかない。
9.5.石谷氏の祖が二階堂と西郷を複雑に称した理由の推測
石谷氏が二階堂と西郷を複雑に称した理由について、状況証拠的に考えられる事が何点かある。
1つ目は永享乱(1438年~1439年)である。永享乱において二階堂氏族の多くが足利持氏側に付き、当時の遠江国守護の斯波氏や、駿河国守護の今川氏と敵対関係に合った時期、関東の戦乱に駿河国・遠江国周辺の国人が多く参戦している。この時期に、仮にも二階堂氏の支族の伝承を持つ石谷氏の先祖が、何もせず巻き込まれなかったとは考え難い。石谷政清の先祖が、二階堂から西郷にその名乗りを変えていた時期はちょうどこの戦乱の後(二階堂行晴:1418年生誕 ⇒ 西郷行清:1446年生誕)である。敗戦した二階堂氏を称することに抵抗があったのだろうか。
2つ目には駿河今川氏との関係である。石谷政清が生まれる少し以前(1497年頃)には、掛川周辺の諸城が伊勢長氏率いる今川勢に落とされて平定されている。そしてその一族は、この戦乱以後に生まれた石谷政清からまた名字を変更している(二階堂清長:1473年生誕 ⇒ 石谷政清:1503年生誕)点から、当初、遠江西郷氏と駿河今川氏とは敵対関係にあったのではないかという事が考えられるのではないだろうか。元来遠江は斯波氏の勢力圏であったし、加えて佐野郡西郷の周辺は勝間田氏、戸塚氏など、同時代において今川氏に対抗した勢力の勢力圏内である。この時代(1494年~1497年)の遠江西郷氏・二階堂氏がどれ程の勢力を有していたかは定かではないが、彼らだけ親駿河今川派と言う事は考えがたい。また地形的に見ても、掛川城北部4km程の掛川城を見下ろせる場所という要衝付近に存在しながら、石谷政清(1503年生誕)に至るまでこの一党に関してほとんど記述がないどころか、既に掛川周辺が駿河今川氏に平定されてからずいぶん経った後であろう石谷政清の代になってから、今川氏に西郷十八士の長(
干城録)として仕えたという伝承が非常に疑問である。当時の掛川城が現在の改修を受けた掛川城とは異なるとは言っても、重臣の朝比奈氏を配置して、また駿河今川氏が大名として最後の戦いを受けた城の周辺である。最初から駿河今川派であったとすれば、仕官時期が遅過ぎると言えるだろう。それらを考慮すれば、少なくとも石谷政清以前はある程度の勢力を持っていたとしても、駿河今川氏に与する勢力ではなかったのであろう。そうなれば、今川氏に従属した頃、それ以前に敵対していた西郷から石谷に名乗りを変更していてもさほどおかしなことでは無いだろう。
前述2項を仮に考慮すれば、元々、独立した荘園を管理する在地領主、或いは土豪、斯波氏に与する勢力、横地氏・勝間田氏等に属する勢力、堀越氏(遠江今川氏)等に与する勢力、いずれであったとしても、遠江国における同時代に発生した多くの戦乱で、勢力をすり減らす事はあり得ても勢力を誇る事はあり得ない。そして衰退する中で時の権力者に歯向かった名字を捨て、或いは本家が壊滅して違う名乗りをしていた分家筋のものが跡を継いだ、或いは元の名乗りを続けるには不都合な事実等、それなりの理由があったと考えるのが妥当であろう。無論前項の記載の通り、仮に二階堂姓の西郷氏であった場合でも、である。
9.6.安倍七騎に数えられる足久保の石谷氏に関して
駿河国安倍郡足久保の安倍七騎に数えられる石谷氏の名前は、石谷重郎左衛門(駿河国安倍七騎姓名覚)、石谷弥兵衛(駿河国風土記)と記録され、その伝承から遠江石谷氏の同族と考えられる。
『史話と伝説 静岡中部』内の記事
駿河国安倍七騎姓名覚
御神君御紋付頂戴 落合村 狩野 九郎兵衛
柿島村の内、上落合に塚あり 大村五郎左衛門
腰越村の内、菅沼と云所に塚有 長島甚太右衛門
平野村の向村、岡村に塚有 季(末)高石見守
俵峰村 杉山 仁左衛門
郷島村 海野 惣右衛門
足久保村 石谷重郎左衛門
『史話と伝説 静岡中部』内の記事
「俵峯 杉山小太郎右衛門、望月四郎右衛門。足久保 石谷弥兵衛。落合 狩野弥八郎朝久。村岡村 末高某。柿島 朝倉六兵衛在重。中野村 海野弥兵衛本定等の七人なりと云う。此海野、朝倉は七騎より大家にて、家格七騎の上にありて、上落合の大石、牛妻村の森谷沢に一人(姓名不詳)この七人なりしとも云う。今川、武田の頃の諺の残れるなり。この七騎と云える者の内、石谷、末高はお旗本の士となり、狩野は紀州(徳川)の御家人となり、朝倉、海野は郷士にて今に存す。杉山のみは百姓にて此村に住す」と記してある。
理由はいくつかあるが、先ず1つ目が安倍七騎の石谷氏が旗本になったという伝承である。この点に関していえば、旗本になったという石谷氏は石谷政清の子孫のみであるから、遠江石谷氏の一族である事が推察される。2つ目に、安倍七騎に数えられる石谷重郎左衛門という名前である。駿河国・遠江国において今川、徳川、武田が争乱を繰り広げていた時代の遠江石谷氏の主要な人物は、年代的に石谷政清とその子供である。この石谷政清については通称を十郎右衛門とされているが、『新編武蔵国風土記稿 』や『袖師町誌』などの一部資料においては、石谷十郎左衛門の記載が確認される。最も、この右衛門、左衛門の記載については従来間違えられ易いもので、加えて十と重もまた代用される文字である。3つ目に、石谷弥兵衛という名前である。この名前は石谷政清の孫にあたる石谷弥兵衛清春等、『士林泝洄』や『藩士名寄』、『袖師町誌』など、石谷政清の子である石谷清重の子孫に散見される名前である。この系統の子孫を称する袖師石ヶ谷家の『
石ヶ谷家家系図』にも別人物で幾人か記録されている。そして4つ目に、先にも述べた石谷弥兵衛清春が駿河国安倍郡足久保に居住していた事である。
『士林泝洄』記載の石谷政清の孫
清春
弥兵衛
浪人。寓駿州足久保邑。万冶三年子正月廿九日卒。
この石谷弥兵衛清春は戦国時代の人物ではないが、そもそも安倍七騎に数えられた人物達の年代が不詳である事から、子孫としてこの系統の人物が数えられたものと推測される。これら状況証拠からすれば、概ね安倍七騎の石谷氏がこれら人物であろうと類推されるであろう。
では何故遠江石谷氏が駿河国安倍郡足久保村に居住していたか、考えられる事が1つある。先述の通り、遠江石谷氏の元々の所領が遠江国佐野郡西郷石谷村であった場合、そこは掛川城という要衝を見通せる場所であり、元々今川氏にとって味方であったかどうか怪しい一党をそのままその要衝に置いておく事は考えにくいであろう、という事である。
そう考えると、下記の御黒判(五石半)は、石谷氏にとって実家ともいうべき屋敷の由緒分として訴訟を受けているが、飛鳥内一色120俵2斗の領地を新たに与えるので、今後良く徳川家に仕えて働くように。という意味であろう。
正月二十六日、徳川家康、遠江国飛鳥内一色の内を、石谷政清に与える。
三五九九 徳川家康判物写 記録御用所本古文書一○内閣文庫所蔵
今度被行知行事
(遠江国佐野郡)
右、五石半之飛鳥内一色百弐拾俵弐斗俵也、井前々屋敷分有由緒、令訴訟候間、為新給恩出置畢、永不可有相違、守此旨弥於令奉公者、重而可加扶助者也、仍如件、
永禄十二年己巳 (徳川家康)
正月廿六日 御名乗御書判
(政清)
石谷十郎右衛門殿
この120表の領地について考える時、仮に当時の税率が五公五民程度として、総石高120石として考えるか税収と考え240石と考えるか筆者の知識では判断がつかないところではあるが、『掛川誌稿』の記録された文化2年(1805年)頃の時点で飛鳥村が
『掛川誌稿』内の記事
寛永十五年免状ニ、高四百五十八石六斗六升トアリテ、十六年ニハ三百七十五石五斗六升ト記ス、證トスヘシ、
とある事から、飛鳥内一色というのが飛鳥村全域の事だったとしても、此処のみが石谷氏の領地であったとは考え難い。入澤行重が武田家に仕えてその後不明。天正18年(1590年)の関東移封時に石谷政信が200石、石谷清定が250石を賜る。石谷清重が徳川秀忠に仕え関ヶ原の戦いに従軍。桑原政重が紀州徳川家に仕えている。時代も下るし関東移封のあたりで加増は受けているのかもしれないが、石谷氏の元々の所領が120石~240石程度だったと仮定するには、石谷政清の子らが分家し過ぎている。加えて次男の呑雪和尚が、徳川家康の三河時代に御乎習の相手を務め、後に武蔵国成田龍淵寺住職になっている事からも、学も無く財力も無い少禄の地侍であったと仮定するには疑問である。
従って、石谷氏は永禄12年1月26日(1569年)に遠江国飛鳥内一色の新恩地を賜ったが、それとは別に、所領を持っていたのではあるまいか。その内の一つが、石谷清重の一族が住み着いた経緯を持つ、駿河国安倍郡の足久保村であったのではあるまいかと推測する次第である。
前項で何度か名前を挙げたが、石谷政清には入澤五右衛門行重という一子が居る。
この入澤行重については、『
新訂寛政重修諸家譜』では子の中では一番最初に挙げられており、通常考えれば長男となる。『
寛永諸家系図伝』 には名前が無いが、これは徳川家と敵対した武田家家臣であり、且つ、旗本になっていないことから記載が省かれたものと考えられる。また、『
石ヶ谷家家系図』においては、清宗(入沢五右エ門)の名前で記載されている。この入澤五右衛門の来歴については不明であるが、石谷政清の3男である石谷政信(天文14年(1545年)生誕)は石谷政清が42歳の頃に出来た子供であるから、普通に考えれば政信の生誕より相当以前に誕生したものと思われる。
ところで、『
新訂寛政重修諸家譜』については考慮するべき点がある。この書は幕臣になった家の事を中心に記載されているため、それ以外の事については補足的にしか書いていない場合や、幕臣になった家を惣領家のように記載している場合がある点である。前述の幾つかの項で述べたように、遠江石谷氏はいつの頃か駿河国安倍郡足久保に勢力を持っていたと推測される。だが、その本貫地は遠江国佐野郡西郷石谷であり、少なくともそこには石谷政信や石谷清定などが残っており、彼らが旗本になった事は事実である。では、足久保の石谷氏とは何なのであろうか、という疑問が残っているのである。
足久保の石谷氏という観点から見た場合、この入澤五右衛門という名前について、あくまでも推測の範疇を出ないが、別の資料から関連しそうな名前を引き出すことが出来る。
『武田氏の研究』内の記事
(1)海賊衆
一間宮武兵衛 船十艘 一間宮造酒丞 船五艘 一小浜あたけ一艘小舟十五艘
一向井伊兵衛 船五艘
一伊丹大隅守 船五艘
一岡部忠兵衛 船十二艘同心五十騎
右、岡部忠兵衛、駿府にて忠節人之故、土屋忠兵衛になされ候。(永禄十二年)巳の極月駿河治てより、土屋備前になされ候。
此内覚の者、
一大石四方介 一沢江左衛門
一入沢五右衛門 一保科(小塩)六右衛門
武田氏配下の入沢氏と言えば、信州の入沢氏などが考えられるが、同著において、
『武田氏の研究』内の記事
(3)(駿河蒲原攻の時)本城へはやく乗衆、小塩市右衛門・入沢五右衛門・常磐万右門・大石右衛門介(四方之介)・沢江(郷)左衛門、此五人は岡部忠兵衛衆、するが先方なり、(永禄十二年十二月六日)
とあることから、この入沢五右衛門は信濃衆ではなく岡部忠兵衛配下の駿河先方衆の一人であると考えられる。
では、名前が同じであるからといって、入澤五右衛門行重が海賊衆の入沢五右衛門になりえるか、という点で考える場合、海賊衆の入沢五右衛門の寄親となる岡部忠兵衛がどういった人物かという視点で考察してみる必要があるだろう。この岡部忠兵衛は今川家旧臣の駿河国岡部氏の一族であり、一般には土屋貞綱という名前で知られ、駿河国清水城(静岡市清水区本町)で武田水軍を編成した人物の一人である。そして、土屋貞綱の養子は片手千人斬りで知られる土屋昌恒であり、土屋昌恒の兄が土屋昌続であったとされる。土屋貞綱自体が今川家旧臣で駿河の今川家旧臣をまとめる存在の1人であった事は当然考えられる事ではあるが、問題はこの土屋右衛門尉昌続である。入澤五右衛門行重の一族であり安倍七騎に数えられるであろう足久保の石谷氏は、『本川根町史』収録の『了無先祖書』に拠れば、天正4年(1576年)に徳川方の安部元真に攻められているため、武田方であった事が推測される。(なお、この時点で石谷政清は死去しており、幕臣となった石谷政信、石谷清定には武田家に仕えた履歴は残されていない。)ところで、安倍七騎の朝倉在重や狩野氏に対し、先の土屋右衛門尉から幾つかの書簡が与えられている。状況的に考えれば、足久保の石谷氏が武田氏の配下に入っていた場合、駿河先方衆に加えられる事は不自然ではなく、且つ、やり取りのある土屋氏の影響下に入ることもまた不自然とは言えない。加えて言うならば、旗本になった石谷政信や石谷清定は石谷政清が40歳を超えてからの子供であり、入沢五右衛門が長男であったことを踏まえれば、入澤を称して武田家に仕えたという『新訂寛政重修諸家譜』の記載に疑問が残る。要は、単純に嫡子以外を養子に出した、と言う風には些か考えにくく、この駿河の岡部氏が武田家に縁のある土屋氏を与えられたように、石谷氏もまた武田家影響下の信州に縁のある入沢氏の名乗り、もしくは入沢氏との縁組を与えられたのではないか?という事である。次男の呑雪も出家しており、三男の政信、四男の清定ではむしろ清定の方が徳川家に与えられた知行が多い事もまた疑問の点である。もし入澤を称した由来がそういった内容であれば、此処に「覚の者」として挙げられてもおかしくない程度の実績や勢力があったと考えられるであろう。
また別の視点から見てみると、また状況的な可能性が考慮されるであろう。それは『
袖師町誌』に記載される石ヶ谷家である。この袖師町というのは現在の清水港内の袖師埠頭に近接する地域であり、かつては袖師ヶ浦と呼ばれ、また周辺を埋め立てて埠頭が築かれる以前は、海水浴場などがあった地形であった。この地域は武田家が水軍を管理するために設けた駿河国江尻城まで2km圏内にあり、駿河国清水城も江尻城周辺に設けられていた。またいずれも東海道沿いであり、往来はかなり迅速に行える地域にある。この一族は系図上では足久保の石谷氏の分家に当たり、少なくとも1600年代から居住する一族であるが、どうして此処に足久保の石谷氏の分家があるのか、という疑問である。またこの家の系図においては、石谷政清の一子に高天神城主小笠原与八郎の妻の記載がある。『
新訂寛政重修諸家譜』においても石谷清定の妻も久嶋與平の娘とあるが、久嶋といえば高天神城の福島氏の異字体であろう。高天神城は『海運』を抑えるための拠点の1つである事はよく知られている事実である。
これらから推測すると、この『甲陽軍監』における入沢五右衛門について然るべき他の来歴が見つからないのだと仮定すれば、一つの可能性として、石谷政清の一子である入澤五右衛門行重が同一人物であるという推測を検討し得るのではないかと、疑問を呈するものである。
『
侍中由緒帳』
一曽祖父小野田彦右衛門(為盛)儀、前者小次郎与申候、代ゝ今川家ニ罷在候処、氏真ニ故有、飯尾豊前守旗下ニ罷ニ罷在候処、引馬城(静岡県浜松市)内乱之儀有之、其節彦右衛門働キニ依而
権現様(徳川家康)御入城被遊、引馬城御手ニ入、依之御旗本(下)ニ被召加、直ニ引馬城ニ被指置、其後岡崎江被召寄相勤罷在候処、天正十二年(一五八四)長久手御出馬前
権現様上意ニ而
直政様(初代藩主)江御附ヶ被遊、長久手・小田原・九戸(岩手県二戸市)
御陣御供仕、文禄年中(一五九二~九六)於箕輪(群馬県群馬郡)御足軽大将被仰付、関ヶ原御陣御供仕候、御知行七百石被下置候、其以後実子無之ニ付、祖父小一郎為躬儀
御旗本(下)ニ被居候石谷市右衛門(政勝)次男ニ御座候「而」旧縁茂有之ニ付、養子ニ仕候、祖父小一郎年若之時分ゟ御足軽大将被仰付、大坂冬・夏両御陣
直孝様(二代藩主)御供仕、御着陣後弐百石御加増被下置、引続キ百石御加増被下置、都合千石ニ罷成候、都而御陣参節ゝ働之儀者御触無之ニ付書出シ不申候、家来とも并御預ヶ同心働之儀茂右同様書出シ不申候
※『寛政重修諸家譜』には為一(ためかづ)とある。
『新訂寛政重修諸家譜』 には石谷政清の子に関して、下記の内容が記載されている。
『新訂寛政重修諸家譜』
女子
井伊掃部頭家臣小野田小一郎某が妻。
また、石谷政信の次男、すなわち石谷政清の孫に関して、下記の内容も記載されている。
『新訂寛政重修諸家譜』
為一(ためかづ)
小一郎 小野田を称す。
この文章における井伊掃部頭家臣小野田小一郎とは、彦根藩小野田小一郎家のことであるが、彦根藩の史料である『侍中由緒帳』と『新訂寛政重修諸家譜』 を照合すると以下の事が判る。石谷政清の娘が嫁いだ小野田小一郎とは、年代的に小野田彦右衛門為盛と推定される。小野田為盛は今川家の飯尾連竜の配下であったとされる。後に徳川家康に仕え、井伊直政の足軽大将となり知行700石を与えられた。跡継ぎが居なかったために、縁のある旗本石谷市右衛門の次男を養子に迎えたとあるが、これは年代的に石谷十右衛門政信の次男で小野田氏を称した為一の事であろう。石谷市右衛門政勝は小野田為一の兄である。この小野田為一については、侍中由緒帳から見ると名前は為躬とある。小野田小一郎為躬は大坂冬の陣、夏の陣に参加し井伊勢の足軽大将を務め、後に加増を受けて1000石となっている。小野田為躬は跡継ぎが居なかったため、大久保新右衛門の次男である為定を養子とした。
この小野田氏との縁戚関係についてはいつの時代の事かは良く判らないが、飯尾連竜が殺害された永禄8年(1565年)の頃に石谷政信が20歳であるから、その妹が小野田為盛に嫁いだのはその前後であろう。また、この小野田為盛は井伊直政の足軽大将として重用されている事から、石谷氏の戦国期から江戸時代初期の去就に関しては、この血縁関係が考慮するべき重要な1つの要素であると考えられる。
なお、『侍中由緒帳』において、小野田為盛は小野田彦右衛門、小野田小次郎を名乗って居たとされる。合わせて曳馬城戦で活躍したとの記載があるが、遠州錯乱において飯尾連竜が殺害された後行われた、永禄11年12月(1568年)曳馬城での合戦の前に、城将であった江間安芸守泰顕が小野田彦右衛門(小次郎)という江間加賀守時成の家臣に殺害されるという事件が起きている。これは江間泰顕が武田方、江間時成が徳川方に付こうとした事を発端とする事件である。この小野田彦右衛門とは小野田為盛の事であろう。
石谷氏の系図については、そもそも二階堂行秋(因幡守、法名行欽)以前は不明である。『
寛永諸家系図伝』にも『
新訂寛政重修諸家譜』にも記載はなく、
二階堂行政~二階堂行秋(因幡守、法名行欽)の間がどうなっているか明示する公式の系図や家伝は存在しない。現在は『二階堂行政-二階堂行村-二階堂行義-二階堂義賢-二階堂行秋』の流れであったと一般に推測されてはいるが、この推測に関しては根拠となる出典は明示されていない。恐らく、『
ふるさと探訪 掛川の古城址 (著:林隆平)』に記載の地元に残ると言われる系図からの推測であろうが、この系図の所有者も明記されていないものである。周辺状況から、この写蔵系図にしても行秋の下が「略」となっており、石谷氏の記載はない。『二階堂行秋』という人名のみから強引に繋げた推測と推量される。また、前述の系譜だと全く年代が一致しない旨は、
播磨屋.com殿の石谷氏の記事でも指摘されている。一方で、
播磨屋.com殿の泉田氏の記事において、泉田氏の先祖と推定している二階堂行秋(二階堂光貞の子)がおり、この人物は前述の二階堂行秋(二階堂義賢の子)とは同姓同名の別人である。二階堂行秋(二階堂光貞)の子について播磨屋.com殿の記事を参照し、挙げられている『
続群書類従 工藤二階堂氏系図』を参照した所、同著内容の通り、二階堂光貞(下総守)の子に、二階堂行秋(因幡守、法名行欽)の記載があった。同系図上では、この二階堂行秋は
頓阿(二階堂貞宗)の弟で、二階堂行豊の兄に当たる。この二階堂行秋の妹の子供の子孫を称する石谷氏の伝承と参照した場合、1世代程度の空白が生じる年代的疑問は残るものの、年代的には比較的近い。妹の記載が娘の誤伝であるとか、二階堂行秋の遺領がしばらく何らかの理由で放置され、その後血族であろう石谷氏の祖となる二階堂行晴が養子を称して継承したのならば、年代的矛盾はそれほど大きくは無い。
『続群書類従 工藤二階堂氏系図』
爲憲(遠江守 讃岐守維幾一男)―時理―維遠(遠江守)―維光(同)―維行(同)―行遠(同)―二階堂行政(山城守 政所)―行光(政所)―行盛(民部大夫 政所 法名行然)―行泰(筑前守)―行實(信濃守)―宗實(因幡守)―光貞(下総守)―行秋(因幡守 法名行欽)
『寛永諸家系図伝』
石谷(いしがや)
家伝にいはく、もとは二階堂と号す、大織冠(藤原鎌足)十一代遠江守爲憲の後胤なり、政清遠江国石谷村に住す、村の西南に大岩石あり、其岩側に八幡の庿あり、是村の氏神なり、政清氏神のましますところを崇、このゆへに二階堂をあらためて石谷と称す。
行秋(ゆきあき)
二階堂因幡守 法名行欽。
両書の関連性や正確性に関する疑問は残るが、少なくともこの名前、官位名乗り、法名、3つの内容が完全一致している点において、伝承や系図が正確であったか、または意図的に参照されているものと思われる。従って、論拠不明の『二階堂行政-二階堂行村-二階堂行義-二階堂義賢-二階堂行秋』から続くという石谷氏の推定系譜には大いに疑問が発生し、『二階堂行政-二階堂行光-二階堂行盛-二階堂行泰-二階堂行実-二階堂宗実-二階堂光貞-二階堂行秋』という『
続群書類従』に拠る系譜こそが、遠江石谷氏本来の系譜ではないだろうかと推測する次第である。無論、この系譜の形が本来だとしても、二階堂行秋の妹の夫であるとされる西郷民部少輔という人物の素性が不明であるため、石谷氏の祖が
二階堂氏を僭称した可能性を捨てる事は出来ない。また、可能性は低いとしても年代的に考えて、『
続群書類従 工藤二階堂氏系図』側が『
寛永諸家系図伝』の記載に合わせた可能性もゼロではない。従って推論でしかないが、恐らく、二階堂氏支族または二階堂氏と縁戚となった遠江西郷氏が、二階堂因幡守行秋(法名行欽)に関連する領地か血脈を(あるいは強引に)継承したものの、
永享乱や遠江の戦乱においてそれ以前の家譜を亡失し、二階堂因幡守行秋(法名行欽)後裔を称した事実及び、残った一族の直系先祖しか情報が残らなかった、或いは残さなかったのではないだろうか。遠江国には
工藤氏支族は多いものの、敢えて二階堂氏を称し、また
三河西郷氏との関連を否定している以上、おそらくは二階堂氏の血脈を継承する事自体は確かだったのではないだろうか。もし『
寛永諸家系図伝』の記載が明白な詐称であれば、わざわざ、それ以前が不明の二階堂行秋(因幡守、法名行欽)に繋げる必要も無く、遠江国にありがちな工藤氏の傍系や西郷氏の眷属を称すればいいだけの話であろう。
従って、本稿においては通説と異なり、
二階堂行政-二階堂行光-二階堂行盛-二階堂行泰-二階堂行実-二階堂宗実-二階堂光貞-二階堂行秋-二階堂行晴-西郷行清-二階堂清長-石谷政清……
が、より正しい系図であると推測する。ただし、二階堂行秋から二階堂行晴に到る間に、系図上何らかの操作または誤伝がありそうな事について、年代的な観点から疑問点を残す。
播磨屋.com殿の泉田氏の記事において、泉田氏の伝承では二階堂行秋(因幡守、法名道欽)が1394年に死去とあるため、これが事実で且つ同一人物であれば1418年誕生の二階堂行晴がこの二階堂行秋に養育されることは不可能である。二階堂行秋の父、二階堂光貞の生没は不明であるが、二階堂行秋の兄、頓阿(二階堂貞宗)は1289年に誕生している。例え、二階堂光貞が若年で頓阿(二階堂貞宗)を産み高齢で娘(二階堂行秋の妹)を産んだとしても、二階堂行秋の妹が二階堂行晴を産むには出産不可能な高齢である。少なくとも1世代以上の年次矛盾が存在する。
また、筆者の親族である袖師石ヶ谷家の系図及び、西郷地区残る石田家資料からは、さらにこれらとは異なり、
二階堂行政-二階堂行光-二階堂行盛-二階堂行泰-二階堂行頼-二階堂行継-二階堂行兼-二階堂行朝(左衛門尉)-二階堂行秋(従五位下因幡守)-二階堂行晴-西郷行清-二階堂行長-石谷政清……
という記載が見て取れる。袖師石ヶ谷家の系図は石谷政清の玄孫、石谷清升付近で別れた一族であり、西郷行清以下、『
寛永諸家系図伝』、『
新訂寛政重修諸家譜』、『士林泝洄』等と、一致する部分や不一致の部分が散見され、現在の静岡市周辺に残った石谷清重以降の子孫を中心に親族で聞き知った人物を書き加えたような内容であり、何れかの史料を引き写したものとは異なると考えられる。しかしながら、行秋以前については二階堂支族を中心に幅広く記載されており、何かの史料を写したのではないかと考えられる内容である。代数から言えばこの系図の流れは不自然ではなく、或いは二階堂行秋が二階堂行朝の養子になった等考えられるものではある。また、二階堂行朝(左衛門尉)自体が、二階堂貞綱の子である二階堂行朝((信濃守、左衛門尉、信濃入道)生年不詳~文和2年/正平8年(1353年)9月25日)を年代的にも連想させる部分があり、此れは従来の二階堂氏系図にも言える事であるが、判断が付かない部分であろう。また、石田家は西郷地区残り霊栄大明神を管理する一族であるが、二階堂行政~行秋にかけての流れは同様となっている。ただいずれにしても、優先するべきはある程度公式に流布されている系図を元にするべきと考えるため、本稿においてはこの袖師石ヶ谷家及び石田家の二階堂行秋以前の系図は採用しない。
10.終わりに
遠江国を本貫とする石谷氏について考えると、石谷政清とその子達に関して久嶋氏(遠江福島氏か?)、後の彦根藩小野田小一郎家、高天神小笠原氏、駿河海野氏等との血縁関係が考えられ、一介の土豪の流れと言うには面白い血縁関係を有している。また、江戸時代おいては板倉氏、新井白石、田沼氏など、文官系の要人と血縁関係を持っている事が多く、外部からの血が濃いとはいえ一族からも石谷貞清、石谷清昌、石谷穆清など、多くの文官を輩出している。石谷政清が徳川家康に仕え、その孫の石谷貞清から飛躍したと考えられていた一族ではあるが、その素地はその血縁関係を考慮するべきであろう。また、旗本家、紀州藩士、尾張藩士、在地に残った一族など、その分流がいくつも枝分かれしている事が見て取れる。先述の通り遠江国石谷氏は二階堂氏を称しているが、鎌倉幕府の文官として要職を歴任し、分家が多数枝分かれし、複雑な血縁関係を持つ二階堂氏の血を引くというのも、頷ける部分があるだろう。本稿は、今までに明らかになっていた遠江石谷氏に関する事歴、それとは異なる見解、明らかになっていなかった遠江石谷氏に関連するであろう事歴等を指摘し記載しつつ、筆を置くものとする。
11.参考資料一覧
※下記参考文献のリンク先文書については、本稿作成の為の情報ストックであり、著作権上の問題があるため直リンク禁止です。必要に応じてご自身で原紙をご確認ください。
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調べていない資料、リンク
狛江市 維新戦争の置きみやげ 「 薩摩・長州を主力とする新政府軍に、江戸城を明け渡した後も、幕府の旧臣たちの多くが、謹慎中の徳川慶喜を守るといって上野の山に頑張った。新政府軍が、これを打ち破ったのが上野戦争(明治元年五月)である。狛江を通り抜ける鎌倉道を落ちのびていった武者は少なくなかった。和泉村を知行する旗本石谷清倚らの一行も夜陰にまぎれて、入間村(調布市)の御用商人油屋清兵衛をたたき起こし、いささか態勢をととのえて菩提所の泉龍寺まで送らせたという。」
- 突然ですが申し訳ありません 先祖探しで石谷清成さん 明治21年10月15日に東京市麹町区飯田町5丁目に存在いていたようです 何かお心当たりありませんでしょうか 千代田区役所の除籍謄本も請求しましたが 戦災で焼けており回答不能の通知が来ました お手数をお掛け致しますがお願い致します -- 石谷 清成 (2012-03-04 14:50:55)
- 石谷清成様直接の資料はありませんが、時代を少し遡るとちょっとその地域の石谷氏(1700年代-1800年代)が多すぎる感じです(名前の重複や混同)みたいです。麹町貝坂、元飯田町九段坂下、元飯田町上人参製法所跡、周辺に、石谷政清の子の政信、清定系、政重系の3種類の系譜を持つ旗本がいたようです。(参考:江戸幕府旗本人名事典第1巻,寛政譜以降旗本家百科事典第6巻) また、焼失となると、『袖師町誌』に『石谷鉄之丞(三百俵)、石谷帯刀(千百石)はその子孫であろう。この系図の本紙は東京で焼失した由である。』とあるので、どちらかの系譜でしょうか・・・? また、早くに分家するなどして、旗本以外の身分の場合は、地誌等に載っていなければ調べるのは困難だと思います。 -- 図書助 (2012-03-11 02:00:18)
- 屋敷の場所→ 麹町貝坂1100坪(石谷因幡守※石谷左近将監貞清の系譜) 元飯田町九段坂下578坪(石谷金之丞※桑原政重の系譜?) 元飯田町上人参製法所跡,飯田町中坂上(石谷三蔵清順※石谷政信の系譜)菩提寺が泉竜寺なら政信か貞清の系譜、浄心寺なら政重の系譜かもしれませんね。 -- 図書助 (2012-03-11 05:49:16)
- あと、家紋はあてにならない(変更可能のため私と縁のある家は土佐柏に変えたし)ですが、普通石谷氏は九曜星ですが、政重系は石餅九曜(替紋で追沢瀉)が公式紋だったらしいです。 -- 図書助 (2012-03-12 00:29:37)
- ご丁寧なお返事有難うございました まさか頂けると思わなかったので感激しております 清成は曽祖父の兄のようですがそれ以上分かりません 東京は震災と空襲で戸籍が失われたので先祖をたどるのは難しいですね -- 石谷清成 (2012-03-21 14:18:50)
- 図書助様は立派な系図研究をされています 大切なことだと思います これからも読ませて頂きます -- 石谷清成 (2012-03-21 14:27:08)
- 石谷清成様へ 参考になるかはわかりませんが、「江戸城下武家屋敷名鑑」に1800年代までの旗本屋敷の住所、「江戸城下変遷絵図集(原書房刊)」にそれらの地図が載っているようです。地図が読めない子なので後者は良くわかりませんでしたが。。。なお、掲載の「袖師町誌」で東京の石谷氏族の系図焼失のくだりは、五郎造の所へ東京の方が話を聴きに来た逸話を私の一族のものから聞いております。もし静岡に聞きにいった逸話をそちらの一族の方がお持ちであれば、該当の石谷鉄之丞(三百俵)、石谷帯刀(千百石)が先祖の可能性が高いかもしれません。 -- 図書助 (2012-05-18 01:37:13)
- 石谷清昌の母である紀州徳川家家臣海野治部右衛門の娘とは、駿河海野氏では無いか?駿河海野氏と石谷氏との関連。 -- 図書助 (2013-07-12 00:46:17)
- 侍中由緒帳 -- 図書助 (2013-09-20 18:16:37)
- メモ:史籍集覧 〔12〕 慶元古文書-一名・諸家感状録、石谷主水、隼人。石谷主水が丹羽氏福の息子なら、石合清敦??? -- 図書助 (2014-01-03 20:06:05)
- 石谷庄之助先祖書、石谷友之助ttp://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/28,839,138,52,html -- 図書助 (2014-01-03 21:00:20)
- 石谷氏の詳細なサイト、初めて知りました。 -- fjsmn (2014-02-09 21:43:33)
- 本日Wikipediaを追加しましたが、ソース不明な「石谷氏系図」写しがあり、紀州家家臣を経て旗本に至った家以外の3家についてはその系図が明治維新に至っております。寛政譜では宗家は政信の系統になっていますが、この3家系図によると清定の系統とされており、調布市布田にご子孫が存在していました。していましたというのも、私が20年前に調布在住の折に調べたもので、手元にある「3家系図」「3家過去帳」のコポー -- fjsmn (2014-02-09 21:50:49)
- 途中でエンターを押してしまい、申し訳ありません。 -- fjsmn (2014-02-09 22:26:10)
- 更に途中でエンターを押してしまい、申し訳ありません。…(続き)コピーにソースを記入するのを忘れましたので、出典がわかりませんが、手元の史料で調べました。20年経っていますので、どうなっているかわかりません。もともと、石谷氏3家の菩提寺は武蔵国多摩郡和泉村の龍泉寺。いまは狛江市元和泉1-6-1であり、少なくとも調布の石谷氏(系図ではこの家が石谷の宗家)は今も檀家の筈です。ですから墓所もあるかと思います。上記の石谷清成は明治時代に2人おり、1人は貞清系の11代目。通称は鉄太郎で明治31年9月2日没。浅草北清島の聞成寺に葬ったとのことです。尚、息子は石谷清一。2人目は件の宗家14代。通称は鉄之助で、麹町平河町住まいとあり、明治31年8月2日没。妻は重田ショウ。次代は15代民次郎正雄。過去帳では「13代、明治31年8月2日石谷清成といふ。東京浅草松清聞成寺に葬す。初め鉄之助と云へり」とあって、もしかしたら1人目の清成と記述がダブっているのでは…と思わせる節がありますが、いずれも墓所などのウラはとっておりませんので悪しからず。何か参考になればと思い記しました。長々すみません。 -- fjsmn (2014-02-09 22:27:32)
- fjsmn様、ご教示頂きありがとうございます。wikiの方は出典の明記が必要ですので、元の記載に戻しました。申し訳ありません。参照可能なソースがあれば好ましいのですが・・・。私の方は母方が石谷清重の後裔を称しており系図もありますが、『袖師町誌』までしか2次資料が無いので、wikiには記載をしていません。近世部分、ご教示いただきありがとうございました。先ずはお礼申し上げます。 -- 松浦図書助 (2014-02-11 16:00:29)
- 石ヶ谷系図よる記載。疑問点①石谷政清(若宮八幡宮)▼何処の若宮八幡宮?墓所?②石谷政清の娘(高天神城城主小笠原与八郎妻)③二階堂行盛-行泰-行頼-行継-行兼-行朝-行秋(従五位下因幡守)-行晴-行清-行長-石谷政清▼行秋は群書類従の下総守光貞の子とされるのと異なり行朝の子になるの?でもたぶん年代官職から同一人物。そもそも二階堂氏系図意味不・・・。 -- 図書助 (2014-05-02 23:58:05)
- fismn様 図書助様驚くほどの情報ありがとうございます fismn様 浅草北清島に眠る清成は曽祖父の兄かもしれません 曽祖父兼吉は事情があり養子縁組に出され明治28年に無くなりました その際の届け人が兄清成です息子の名前は清吉です 複雑な事情の中で兄は戸籍を作り 弟は息子の名前に石谷家の 清 の -- 石谷 清成 (2014-05-24 16:17:02)
- 続です 清の字を入れたのでは等と遠い過去を推理してました ちなみに兼吉の孫 私の父 の名前は謙一です 清成の息子が清一 兼吉の息子は 清吉 その子供は謙一 不思議な因縁を感じました 祖父は浅草に何かの縁があったようだと母から聞きました 祖父は事情を知っていたのでしょうか それにしても石谷家の系図はすごいです ここまで明らかにされた図書助様にも感謝致します 歴史好きの父が生きていたらばこの話をし伝えたかったです 有難うございました -- 石谷清成 (2014-05-24 16:41:26)
- 追伸 fjsmn -- 石谷 清成 (2014-05-24 17:38:01)
- 追伸 fjsmn様 お名読み違えてすみませんでした そちらの系図でおわかりならば 清成さまの父上 御祖父さま の 名前をお教え下さいませ 私の持つ改正原戸籍では父は石谷 兄石谷清成です 二男兼吉は嘉永3年四月八日生まれです そちらの清成様と兄弟の関係になりますか?ドキドキします お手数ですが宜しくご教授下さいませ -- 石谷清成 (2014-05-24 17:50:18)
- 石谷清成様、ありがとうございます。明言は避けますが、wikiノートに、fjsmn様の御情報を転記しておりますので、ご参照ください。(※2次資料(参照可能な出版物)ではないため)石谷清成様の没年に関しては上記御記載頂いておるようです。 -- 図書助 (2014-05-26 18:24:44)
- 図書助早速ありがとうございました 真相は謎ですが 確かに幕末明治に清成さんが存在したようで感慨深いです 詳細な系図に感動しています 近世系図で又新たな附則があると楽しみです いつもご親切に有難うございます それから兼吉の死亡は明治38年でした 戸籍には曾祖父も祖父も退隠の文字があります 父は早くに祖父に隠居され苦労したと怒ってましたがこれは習慣だったのかと思いました 又楽しみに読ませて頂きます -- 石谷清成 (2014-05-29 14:44:40)
- メモ:文久元紀士鑑 乾・坤/和歌山県立図書館 -- 図書助 (2014-11-22 20:04:49)
- 荻原重秀とか新井白石とか田沼意次とか -- 図書助 (2015-01-02 01:30:58)
- メモ:石谷主水蔵、石谷隼人 史籍集覧. 〔12〕 慶元古文書−一名・諸家感状録 -- 図書助 (2015-01-02 11:55:56)
- 石谷穆清の子である石谷鉄之丞は、石谷公清(安芸守)の様子→将軍の御刀をどう持つか。「錦絵などには、将軍の御刀を持つ者は、服紗を「くるみ」て持ちたる図あり、然れどもその実、決して服紗などを掛け ず、素手にて直ちに(ママ)御刀の鞘を握り持つなり。(元御小姓頭取石谷[安芸守]公清談)」『史料徳川幕府の制度』(『徳川制度史料』) -- 図書助 (2015-01-05 01:07:48)
- 従って、fjsmn様に御記載いただいた『公清』が誰か判明しました。ありがとうございます。上記はツイッターで書かれていたので現物参照していないため、おって資料を自分で確認するつもりです。 -- 図書助 (2015-01-05 01:16:45)
- メモ:新編覆醤集 拾遺 への書き入れ?(石谷清成(石谷貞清の孫)、宗淳、埜直子方?) 石川丈山と仲が良くて?慶應義塾図書館に本がある? -- 図書助 (2015-01-05 02:22:56)
- 私、野村と申します。遠江石谷氏の分家筋で石谷氏居館跡に住み霊栄神社を祭祀する石田氏を縁戚に持つ者です。現在、石谷氏石田氏について調べており、こちらのホームページを見つけてとてもありがたく思っております。 これからよろしくお願いいたします。 石田氏から頂いた資料もありますので共有できたらとも思っております。しかしながら、石田氏が分家筋というのも資料が乏しいのと欠落部分があるため曖昧なところがあります。石田氏家紋は石谷氏と同じ九曜紋です。因みに、この石田氏の墓地には貞清系の榮清、眞清、澄清の石谷氏当主が隠居後に西郷の地へ来て亡くなっているそうで石田氏の墓地へ埋葬されているそうです。 -- 野村庄右衞門 (2017-06-08 14:23:13)
- 先にはFBのフレ申請ありがとうございました。先にいただいた資料だと、石田平八様の家系は西郷庄地頭代の西郷八郎(石谷本家筋)の系統ではないかと推察しています。 -- 図書助 (2017-08-15 16:58:23)
- そういう見方もありますね!なるほど!西郷八郎と平八のハの数字が何かを語っているように見えてきました。 -- 野村庄右衞門 (2017-08-17 01:00:22)
- 石谷政清は来歴的に本家の人間には見えませんし、石谷貞清系は一族中石高TOPでも、政清の4男の3男の家系なので、本家???なので、戻ってきたり霊廟を管理する所が本家筋なのかと。その上で江戸期の縁組や養子等の関係もあると思いますが。 -- 図書助 (2017-08-18 12:41:16)
最終更新:2022年11月27日 19:36