【名将言行録 (岡谷繁実) 1943 抜粋】


※旧字と新字がまざってたり、旧仮名遣いと現代仮名遣いがまざってたりします。正確な抜粋を望む人は、名将言行録を読んでください。


名将言行録巻之六十九

石谷貞清

五郎太夫清定の子、十蔵と称す、後左近将監に任ず。致仕して土入と号す。寛文十二年九月十一日卒、年七十九。


 貞清十八歳の時、辻忠兵衛異見に、其方は器量骨柄も能けれども、武辺することのならぬ生付きなりと言う。貞清憤りて、武辺すべき場に出ざれば、成不成は我も未だ知らず、然れば他人猶以て知るべきことにあらずと言う。忠兵衛、否々其儀にあらず、武辺を心掛ける者は、命を惜しむものなり。其方の交友を見るに、道具持、或は草履取抔の類にして、好むことは博奕、相撲等なれば埒もなきことにて、身命を軽く棄ること眼前なり。然らば大丈夫の志す大節に臨むまで命あるまじ、惜しきことにあらずやと言う。爰に於て、貞清行跡を改む。十九歳の時大阪冬陣に、舎兄石谷十郎、知行の百姓抔を雇い、彼是七十八人召連れ、騎兵となりて扈従す。夏役は土岐山城守定義組と共に、二組留守の筈なる故、貞清軍に従わんことを請えども許されず。貞清衣類の類まで沽却して、若黨一人、下人一人に具足櫃持たせ、自分は茶の紬の拾一衣着し、秀忠の駕の傍に扈従す。若し咎めもあらんやと恐懼浅からず。長途懈怠なく歩行せしに依て、足腫れ難儀なれども、堪忍して勤めたり。浜松において名を尋ねられ、頓て伏見に着けば銀子三枚を賜う。大阪にては旗本に在り、落城以後八日の夜雨甚だし。貞清は永井日向守が小屋に在りしが、心元なく思い、秀忠居所の縁の傍に伺候し、席を以て雨を防ぎ居る。秀忠障子を開かれ、夜中に両度まで尋ねらる。貞清両度ともに名を申す。帰陣後三百石を賜う。


 秀忠、東金への遊狩の時、貞清出過ぎたる事を爲して、大に旨に忤う。老中命じて引籠らしむ。貞清引籠居るべしとのことは、上意にて候やと問う。否やあれ程御機嫌を損じ候こと故我々の存寄りなりと言う。貞清、左候はば、引籠申間敷、私體の軽き者引籠り候はば、誰が見出し、呼出し申べくとて、終に引籠らず、翌日の供には遠く駕を離れて従たり。新宿にて、秀忠鉄砲にて池の白鳥を打たる時、貞清裸になりて飛入り之を捕う。秀忠近習に其名を尋ぬ。石谷十蔵と申す。後板橋に狩せし時、腰物を持てと言われて機嫌直りたり。秀忠代に五百石に成りたり。


 島原の役後、老中列座にて貞清を呼出し、今度板倉内膳正、其方餘りせき過ぎてすまじき働を爲し、多く人数を失いたる儀、如何の心得にやと尋ぬ。貞清聊せきて仕たる儀之なく候、松平伊豆守、戸田左門ことは、跡の御仕置の爲め遣わさるる旨、御奉書到来仕る上は、何卒年内に城を攻落し申べきことなれども、其甲斐なく、元日総攻仕り、内膳討死仕候、両人仕儀宣しからず候間、伊豆守、左門を遣わされ候とのことに候わば、せき候と申ことも之あるべく候へ共、右の通故少しもせきは仕らず候、内膳は冥加に叶い討死に仕り、御奉公の詮も立候、私は不冥加にて箇様に御詮議にも逢申候旨申す。重ねて何の尋ねなし。後与力同心を預けられ、其後町奉行と爲る。


 家光嘗て日光の廟に謁し、急に宇都宮より江戸へ帰らるる時、供に貞清及び書院番の某一人、馬の左右に付く。馬は勝れて駿足なれば、某は大手門前にて息切れ、是非なく下る。貞清は少しも下がらず、玄関まで陪従せり。家光大に感じて、二人に褒賞を賜りたり。


 正保二年十月、家光麻生の辺に放鷹せり。時に白銀の臺を駄馬に乗て通る者あり。家光見て、あの者を斬り捨てよと言わる。貞清走行き、即ち引き落とす。彼者理不尽なりと言いて、取って掛かる。貞清斬らば斬るべかりしを、助けばやと思い、彼者を捕え投げんとすれば、彼者も力ある者なれば、貞清と相撲となりぬ。家光床机に腰打掛けて見物せり。堀田正盛、側に在り、十蔵は力も強く相撲の上手なり、然るに彼者と未だ雌雄を決せざるは、したたか者と覚え候いぬと申す。家光笑って、十蔵容易く思い取て掛り、今は持久兼ねたるべしと言わる。貞清漸くのことにして、彼者を投倒し捕たり。家光見て、出来したりとの褒詞なりと。明日黄金五枚、小袖一襲賜りたり。時に正盛私に言いけるは、昨日乗打せし下郎を斬て捨よと上意の上は、誰とても斬るべき所に、下郎なり、殊に御成とも知らず乗打ちして通るを、あいなく斬る不便のことなり、然るに貴殿には、其旨を辨え、作意にて下郎をも助けらるるに依り、御機嫌御快然たること、珍重の由申渡せり。後に聞けば、彼男は小関源蔵とて、隠れなき相撲の上手にてありける。


 貞清、徒士頭たりし時、其組下の庭に鶴の下りしことあり、家奴戯に斧を投げければ、当りて死せり。組頭以下大に驚き措く所を知らず、先ず其奴と主人とを幽し、貞清方に来り、低語にて、今暮某の家に鶴空際より下りしを、奴誤て斧を投げければ当りて死せり、大禁を侵せしなれば、如何せんと言う。貞清大声にて、鶴天より落ちて死すと言わるるか、是暴死なり、犬馬すら猶暴死あり、鶴のみ何ぞ之なからんや、大方毒蟲を食て暴死せしならん、貴殿帰られ、此事を以て之を組中に傳へられよと言う。明日鶴を持って登城し、老中の前に出て、昨暮某組の者の庭に鶴天より落て死せり。大方毒蟲を食て死せしならんと申す。老中頷て、既に暴死せしことなれば、必しも糾問せらるるに及ぶまじと言う。貞清如何にも仰せの如くにて候と言い、偖毒に中りし鶴なれば、之を上に奉ることは能わず、願わくは拝受して帰んと言う。乃ち持帰り、組頭を呼び、昨日より一方ならぬ奔走にて嘸ぞ心身も労れたるべし、依て此鶴を以て、其労を慰められよと言て与えり。


 家綱、明暦の火災に懲り、城中火の元を厳敷改めさせける。時に貞清目付けたり。火の元改の役人、夜小姓部屋にて、小姓共寄合て多葉粉を吸い居たるを見付け、目付中へ申達すべき由申ければ、小姓大いに驚き、怖居たり。火の元改貞清に斯くと告ぐ。貞清聞き、大いに驚きたる気色にて、偖々難儀なること哉、其方も覚悟致されよ、能き仕合にて御改易ならん、我等も悪敷時分の当番にて、能き分にて御役儀を召上らるべし、抑抑其儀は誰が申渡したるや、我等は申渡さずと言ければ、火の元改、此挨拶に驚き、夫は如何なる故にやと問う。貞清去れば、其方は外様御臺所向抔の火の元計り改め申べきに、御小姓部屋へは、足踏もならざるに、気の毒なること哉と言いけらば、火の元改大に困却し、然らば如何様に致して宣しかるべきやと問う。貞清、左様ならば御小姓衆に逢て、御聴に達せられざる様にと詫て見られよと言うに依て、火の元改、又御小姓部屋へ至り、先程の儀御聴に達せられざる様に爲し賜れと、却って詫言しければ、小姓共聞て、何しに御聴に達し申しべくやと言う。左候はば、忝く存ずると言て罷立つ。貞清、廊下に鬚を抜き居ける所へ、火の元改来て、右の次第を申しければ、貞清聞て、夫にて胸が開きたると言いけるとぞ。


 貞清方へ、或人子息を同道し来りて、此頃具足着初致させしが、古実の儀も之ありなば承り度と言う。貞清、場所曾たる者は善きこと覚居る様に思わるべけれども、具足抔を着るに、何の替わりたることは之なし、諸人の存たる通にて、少しも違なし、色々早具足の着様仕掛様あれども、夜討の気遣之ある時分は、具足を着ながら寄掛かり休むが第一の早具足の着様、是より早きことはなしと言われけり。


 貞清、一日太田某を訪う。某貞清老人の尋ねしことを喜び、子息を連て座敷へ出づ。貞清歳を問う。十四歳なりと言う。具足は縅させられしやと問う。未だなりと言う。貞清、昔島原にて或大名の家来十三四計りの倅を召具し、戦場を勤めし武具の體見事なりし、武士たらん者は十三四にもなりなば、様子能く武具を縅すべきことなり、早々申付られよと言いしとぞ。


 或人曰く、昔人は生質達者にして長命なり、常世の人は生れ付弱き故に、皆々早世すと。貞清聞て、左様にはあるべからず、古今ともおなじかるべし、昔も強きものあれば、弱き者もありつらん、弱き者は早く死し、強き者は残れり、今の人にても、弱き生の人は先へ死すべし、達者なる者は長生すれば、又是より後の人、昔人は生れ付丈夫なれば、長命なりと言うべし、去れば古今替わることあるべからず、人生七十古来稀なりと言えり、古も左の如く後代にても九十百に至る人儘あるなり、是を以て考えれば、人生の長短は古今同じかるべしと言えり。


 一年大名の中に確執出来、既に鏃を磨ぎ、小路軍にも及ぶべき抔と、老中の人にも驚き、評定に及びしに、何れも御旗本の中、武勇ある者を御使に遣わされ、御宥め然るべきと言う。然らば久世広宣か、貞清の外は有間敷とありて、先ず貞清を召し、今度のこと聞も及ばれぬならん、捨置難きことなれば、御旗本の中にて器量ある者遣わされ鎮めらるべきと、何れも申ことなるが。誰を遣わされ然るべきや、其許存寄り之ありなば、申上られよとなり、貞清承り、箇様の事の取扱は久世広宣にて候はんやと申す。何れも左様に存寄りたり、広宣に誰ぞ一人指副られたし、是は何人にて然るべくやと問う。貞清、外には毛頭存寄り之なくと言う。何れも言葉を揃え、兎角其許思案あるべし、兄弟親戚の内にても、国家の爲なれば、是非申上られよとなり。貞清再三辞退に及ぶと雖も、達て言わるる故、左様に候はば憚多きことなれども、広宣に差添参るべき者は某にて之あるべくやと申ければ、何れも感じ能く存寄を申されたり、皆々にも広宣と貴方とを遣わさるべくと、兼ねて究め置いたり、御太儀ながら勤められよとて、二人使にて果たして事済みたり。


 貞清、平生倹約粗飯を以て、毎日来曾の浪人数十人席を同うして清談す。曾て島原の役に出て備に艱難を嘗めし故、士を愛撫して不慮の備に怠らず、貞清常に武士の心は常に清々たりべしと言いしとぞ。


 貞清、人と為り武技を好み、膂力絶倫なり。尤も騎射を善くせり。三代に歴任し、聞見する所多し。常々家康以来忠臣義士の事を談ずるを好めり。内兄弟に睦ましく、外朋友に厚し、善く士類を遇し、薦挙する所多し。性又学を好み、日に書生を延き、書を読ましめて、之を聞く。町奉行と為り、公正にして、私なく、訟あれば立どころに決せり。又規戒の語を壁間に掛け置、常に自ら警省せり。職を去るに及びて、民皆思慕せり。



戻る

最終更新:2012年05月20日 12:08