まとめる余裕は無いので、下記サイト内検索で松浦と入れてください。

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イ 倉真城主の松浦氏

 つぎに、倉真城の松浦氏であるが、国人領主としてのランクは、川井氏よりもう一段下である。それは川井氏の居城である松葉城と松浦氏の居城である倉真城を比べれば一目瞭然である。国人領主と土豪の中間と表現した方がよいかもしれない。
 ただ、野辺一雲斎の有名な川僧慧済の弟子以翼長祐を招いて永江院を開いているところをみると、単なる土豪ではなく、やはり国人領主の範疇に入るものと思われる。ちなみに、永江院を開いたのは、文明十七年(一四八五)のことであった。
 どういうわけか、この松浦氏のルーツについては全くわかっていない。苗字の地も不明であり、室町末期の松浦兵庫助の名前が知られているだけで、彼の名乗りも伝わっていない状況である。『掛川誌稿』では、「松浦氏古城」という項目をたて、つぎのように述べている。

 里在家と云所に長さ二丁許の孤山あり、松浦兵庫助の古墟なりと云、東北の低所に大手の路、御泉水、甲石、持仏堂など云ふ地名遺れり、兵庫助の事蹟伝ふる所なし、明応六年十一月十三日卒せしと云により考えば、今川家の士にや、当村世楽院、飛鳥村永江院は共に松浦氏の剏立なるよし、又永江院の後山に兵庫助が墳墓なりとて古松樹あり、開基松と呼ぶ、是に據れば永江院に葬りしと見ゆ、五明村松浦五兵衛、領家村松浦惣大夫と云百姓は、共に兵庫助が後なりとて、今両寺の旦那頭たり、古く民家となりしとみゆれば、或は兵庫助が一族の後なるべし、

 『掛川誌稿』の編者も「兵庫助の事蹟伝ふる所なし」とお手上げの態である。しかし、松浦兵庫助が今川氏の家臣だったというとらえ方はどうであろう。
 仮に、今川氏の家臣としての戦死であったならば、その子孫は今川氏に取り立てられたはずである。ところが、今川氏の家臣でのちに松浦氏の名がみえるのは、駿河国志太郡鵜綱村(島田市)出身の松浦氏で、この松浦兵庫助の系統ではない。そのことを考えると、松浦兵庫助は今川氏親の遠江侵攻に抗して戦い、戦死したとみえるのが自然であろう。この点についても、つぎの第八章でみることにする。

【掛川市史 上巻】



参考資料

ふるさと探訪 掛川の古城址 (林隆平) 昭和54年10月1日  倉真城の項



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最終更新:2016年10月02日 12:59