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                                         since 2017.2.4~逐次加筆訂正

著書名:安倍七騎に関する資料調査

著者名:松浦図書助

 ※出典・参照の記載が必要な場合は、上記を引用文書及び著者名としてください。必要なければ不要です。本ホームページの題名が変なのは、デスクトップマスコット"伺か"その他を置いたのが先だった為です。



目次

1.本稿について

2.狩野氏

3.末高氏

4.石谷氏

5.朝倉氏

6.海野氏

7.杉山氏

10.資料置場


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1.本稿について


 駿河国安倍郡の伝承には、安倍七騎と言われる武士の集団がある。この武士団については幕府編纂の『寛永伝』『寛政譜』などには記述が見当たらず、また伝承において人名などに異同が多いため、地域に居たと伝わる英雄の物語を、土地の古老などが言い伝えてきたようなものであったのだろう。そして、これらの言い伝えの残渣を『駿河記』などが記録し、今に伝わったと考えられる。筆者は遠江石谷氏の履歴をあたる上で遭遇した、この『安倍七騎』という集団について、石谷氏の周辺事情を考慮するために本稿を記録するものである。従って、その視点には大きな偏りがある事を注意点としてあげつつ、かくの如く後述するものである。



2.狩野氏(狩野九郎兵衛、狩野弥八郎朝久)


 狩野氏は藤原南家工藤氏を祖とし、八介に数えられた狩野介を称する伊豆の大族である。駿河国安倍郡には狩野貞長という人物が居たと見られ、その子孫の活動が幾つか見られる。

 引用できる資料を現時点では見つけられていないため、下記のリンクを記載し、後日資料を発見した場合にはそれを使用する。

貞長の曾祖父にあたる「時光」の時代に駿河安倍郡に移り住んだ狩野氏の一族があり、勢力を拡げ、貞長の代に安倍城を築いたと言われます。
安倍の狩野氏と徳川家康のかかわりは、特筆すべきものがあります。徳川家康は、小山城の戦いで、狩野軍の活躍に目をつけていました。家康は、天下統一後、31代狩野景信の家にやってきて、自分の家臣にならないか、と勧めました。しかし、狩野家は、代々武田に仕えてきたので、今更徳川家に仕えるわけにはまいりませんと、せっかくの機会を断りました。家康は、その心構えがたいそう気に入り、自分の着ていた裃(かみしも)をその場で脱いで景信に与えました。その後、狩野景信は、家康から百石を与えられ、家臣になります。

狩野九郎兵衛(史話と伝説 静岡中部)

 落合村。御神君御紋付頂戴 。嘉永7年(1854年)10月 駿府浅間流鏑馬役の狩野九郎兵衛嫡男が石谷氏へ進上した『駿河国安倍七騎姓名覚』に記載される人物。永禄・天正年間に武田信玄の家臣となり、遠州小山籠城戦、甲斐、信州川中島の戦い、高遠城の戦いなどに従軍し、数度の軍功によって武田家より御朱印を頂戴したという。
 (補記)前述の記載と組み合わせると、狩野景信の事と考えられる。


狩野弥八郎朝久(史話と伝説 静岡中部)

 落合 。今川・武田の頃に活躍したという。後に紀州徳川家に仕えた。


狩野弥次郎(史話と伝説 静岡中部)

 落合村村長、富右衛門の先祖に狩野弥次郎という安倍七騎の人物がおり、家蔵の古文書武田氏の判形に(永禄十三年二月、土屋右衛門尉、狩野弥次郎殿)と記載があるという。
 (補記)前述の狩野弥八郎朝久の事か?


狩野修理佐(寛政譜)

 妻 :末高正長の娘
 今川家臣。

雑記(駿河記)

永禄13年2月3日、土屋右衛門尉より狩野孫次郎へ、計5貫700文・1石2斗・1人の知行を与えられた。
永禄13年2月20日、土屋右衛門尉より狩野弥次郎へ26貫・1人を与えられた。
天正2年12月18日、市川宮内助より狩野修理亮へ軍役の支度が命じられた。
天正3年9月21日、武田勝頼所用の晴信朱印にて狩野次郎兵衛へ小山籠城の事で感状が与えられた。

内牧の狩野氏城跡はかつて狩野介貞長という宗良親王配下の人物の拠点であった。応仁以前、今川義忠の頃、駿河狩野氏は心ならずも従っていた今川氏に謀反しているという噂がたったが、甲斐国に続く安倍奥に拠点があったために討伐されなかった。しかし、遠江国の狩野宮内少輔というものが、遠江国の軍勢を率いてこれを討伐し、駿河狩野氏は滅亡したという。今川義忠は、遠江国の河井・堀越・湊の領を支配し京都の台命を待っていたが、遠江の狩野氏がこれを掠めとるなどの問題を起こした。また、狩野宮内少輔が巨海氏と伴に義忠の掛川入部を邪魔するなどの問題が重なり、寛正6年、今川義忠は背いた狩野宮内少輔の拠点江ある遠江府中の城を攻め落とし、狩野氏は自害した。その後、今川義忠は、朝比奈泰煕を掛川に配置し遠江国の監察を命じた。



3.末高氏(季(末)高石見守、末高某)


 末高氏は『寛永伝』『寛政譜』等では藤原氏支流として記載されているが、徳川家康に仕えたという末高正長以前についてはなんら記載がなく不明である。今川氏真の時代には500貫の領地を有していたというから、1村支配クラスの中核領主層と言えるだろうか。

末高石見正長(寛永伝、寛政譜)

 別名:末高石見守政本
 法名:源光
 子:末高新蔵正頭、朝倉六兵衛在重の妻、狩野修理佐の妻、末高正久の妻
 初めは今川氏真に仕えて駿河国安倍郡の内に500貫文の地を領有した。今川氏真が没落した後は武田信玄、武田勝頼に仕える。武田勝頼が滅亡した後は郷里に帰って閑居した。後に、徳川家康に同地を割って宅地として安堵されたと言う。
 (補記)末高石見守の呼称を残す事から、断定はできないものの同人物と推察される。

末高新蔵政頭(寛政譜)

 実父:末高正長
 武田家に仕える。信濃国諏訪原において戦死した。
 (補記)天正3年(1575年)8月頃の諏訪原城の戦いで戦死したものか。

末高正久(寛永伝、寛政譜)

 生没:天文23年(1554年)~寛永16年(1639年)4月13日
 別名:小次郎、末高隼人政行
 法名:源領
 実父:久野伊賀守(武田家家臣)
 養父:末高正長
 妻 :末高正長の娘
 子 :末高正宣
 備考:久野伊賀守(武田家家臣)の次男
 末高正長の長男である末高正頭が戦死したため、末高正長の娘を妻としてその跡を継ぐ。徳川家康より仕官の話があった際に元来の所領の安堵を願い出たが許されなかったので、仕官を断ったと言う。徳川忠長の時代にも仕官の話があったが断ったと言う。生涯郷里にて蟄居した。
 (補記)久野伊賀守は5代遠江久野城主久野伊賀守宗憲の事?

末高正宣(寛永伝、寛政譜)

 別名:忠右衛門 末高政信
 実父:末高正久
 妻 :朝倉六兵衛在重の娘
 徳川家康に仕え300石を賜る。後に命令を受けて徳川頼宣に付属されるが、後年病を得て駿河国安倍郡平野に閑居した。

雑記(駿河記)

 安倍郡村岡 山の央の段に古墳あり、天安是春居士、機雲玄了居士、霊高院殿月慶珠栄大姉、心岫貞安大姉、雲室妙泉信女などの記載がある。正保年間頃まで末高氏の子孫権兵衛が居住していたが、その頃、弟が武蔵国に居住していたためここを引き払って江戸に出て裏四番町に居住したという。その後は今小平野の源兵衛が支配したという。
 続次編系譜の末高氏の項には、
半左衛門正路 半左衛門正勝 半左衛門正矩 正徳6年御留守居知行671石とある。
 末高氏は古くから安倍の住人で、今川家の家臣となり軍役を務め、状今川軍記残編の中に記載があるという。



4.石谷氏(石谷重郎左衛門、石谷弥兵衛)


 安倍七騎の石谷氏は、遠江国を本貫とする石谷氏の事と推定される。これは足久保の石谷氏が旗本となったという記載から考えると、石谷氏はこの遠江石谷氏の一族しか該当者が見当たらない事に加えて、遠江石谷氏の一族が安倍郡足久保村の在住の浪人となっていた事が尾張藩の史料から確認されるためである。但し、いつの頃から足久保に拠点を持ったのかは定かではない。石谷氏一族の詳細については筆者のHPの別ベージ参照の事。

石谷十郎右衛門政清(寛永伝、寛政譜、干城録、袖師町誌、武蔵国風土記稿、他)

 生没:文亀3年(1503年)~天正2年(1574年)4月15日
 別名:十郎右衛門尉、石ヶ谷十郎左衛門政清、十郎左衛門、重郎左衛門、西郷政清
 法名:龍月道隆(寛永諸家系図伝)、和光院殿盛山道隆居士(掛川市誌)
 実父:二階堂清長
 子 :入澤行重、呑説、石谷政信、石谷清定、桑原與三右衛門の妻、石谷清重、乗松彌次右衛門の妻、井伊掃部頭家臣小野田小一郎の妻、桑原政重(新訂寛政重修諸家譜)、(高天神城城主小笠原与八郎の妻(石ヶ谷家家系図) )
 藤原南家二階堂氏。遠江国佐野郡西郷に生まれ西郷氏を称するが、石谷村に移住し石谷氏を名乗る。西郷十八士の長として今川義元・氏真に仕え、永禄12年1月26日(1569年)、徳川家康より遠江国飛鳥内一色名の采地を安堵する御黒印を与えられた。元亀2年3月10日(1571年)に徳川家康に仕える。
 (補記)石谷重郎左衛門の呼称も残り、また一子の子孫が安倍郡足久保村に居住している事から、断定は出来ないものの同人物と推察される。

入澤五右衛門行重(寛政譜、石ヶ谷家家系図)

 別名:入沢五右ェ門清宗
 実父:石谷政清
 石谷政清の長男。武田家に仕える。入澤氏を称する。
 (補記)武田氏の研究(柴辻俊六)に拠れば、『甲陽軍鑑』中の武田水軍岡部忠兵衛配下の駿河先鋒衆に、入沢五右衛門という人物がいる。同一人物かは不明。

石谷清重(寛政譜、士林泝洄、袖師町誌、石ヶ谷家家系図)

 生没:生年不明~元和9年(1623年)1月11
 別名:又太夫、又大夫、海野又太夫
 実父:石谷政清
 子 :石谷清春、女子
 石谷政清の5男。士林泝洄に拠れば、徳川秀忠の家臣として関ヶ原の戦いに従軍したとされる。史料としての正確性が疑問な袖師町誌などに拠れば、海野又太夫を称して書院番500石を得るが、病を得て駿河国足久保に退去したとある。

石谷弥兵衛清春(士林泝洄、袖師町誌、石ヶ谷家家系図)

 生没:生年不明~万冶3年(1660年)1月29日
 別名:海野又十郎
 法名:寒松院殿功安善忠居士
 実父:石谷清重
 子 :石谷弥兵衛清勝、石谷清宣、清時、清村
 士林泝洄に拠れば、駿河国安倍郡足久保村の浪人であったという。
 (補記)正確性が不明ながら石ヶ谷家家系図の情報も上記に記載する。

雑記(本川根町史)

天正4年 徳川家康の支援を受けた安倍元真が川根の大橋伏にいた小長井長門守と談合し、安部地域に侵攻。津渡野を城を攻め落とし、水見色城を陥落させた後、城代を務めていた朝比奈弥太郎が大洞山へ撤退する所を、家臣の池口弥蔵がその首を討ち取った。続けて足久保の石谷氏を討とうとした所、池口弥蔵は脇差が鞘走り太ももをを負傷したため撤退した。



5.朝倉氏(朝倉六兵衛在重)


 越前朝倉氏朝倉景高の子孫と伝えられるが、遠縁という説もある。安倍七騎の筆頭とも伝えられ、武田家臣の土屋右衛門尉から、海野氏や狩野氏などのともに朝倉在重宛ての書面がいくつか残っている。後年の流れからいっても、実際の所領規模については不明瞭な点はあるが、地域の取り纏め役を担っていた事は確定的であると考えられる。
 ※文化年間、沓谷源院に住む僧侶が言うには、安倍には朝倉を名乗る2家がある。1つは柿島の越前より来た朝倉数馬家、1つは昔から安倍谷に居る長妻田の朝倉又兵衛家。白髪神社棟札にある朝倉孫六郎は又兵衛の先祖である。

朝倉孫三郎(駿河記)

 実父:朝倉右衛門大夫景高(越前朝倉氏)?
 兄弟:朝倉六兵衛在重?
 柿島の白鳥氏が言うには、越前から立ち退き駿河国安倍郡松留村に居住し、後に柿島村に移住した?
 (補記)下の朝倉在重の事か?

朝倉在重(寛永伝、寛政譜)

 別名:弥六郎、河内守
 実父:朝倉右衛門大夫景高(越前朝倉氏)
 子 :朝倉六兵衛尉在重?
 日下部氏。越前国から駿河国安倍郡に移住する。
 (補記)現在、朝倉六兵衛尉在重と同一人物とみられているが、寛永伝でも寛政譜でも別項になっている。年代的には朝倉景高の後に朝倉河内守在重、朝倉六兵衛在重と続いてもおかしくはないが……

朝倉在重(寛永伝、寛政譜、駿河記)

 生没:天文14年(1545年)~元和元年(1615年)
 別名:弥六郎、六兵衛尉、六兵衛、在宣、河内守
 法名:全勝
 実父:朝倉河内守在重?
 妻 :末高石見守の娘
 兄弟:権兵衛、朝倉弥刑部
 子 :朝倉宣正、朝倉在重、望月与太郎の妻、末高正宣の妻、(朝倉六兵衛、望月十右衛門の妻、長守左衛門の妻、海野弥兵衛の妻、狩野勘兵衛の妻、菅谷十兵衛の妻(駿河記))
 朝倉貞景の遺領を孝高・景高兄弟が争った件で、越前より駿河安倍に移住した。天正・文禄の間に徳川家康に仕える。天正12年長久手合戦で騎兵として敵陣に乗り込んだ際、敵に馬を射られ危機に陥った。その際に婿である望月与太郎が馳せてきて、馬から降りて在重を助けて味方の陣に帰った。徳川家康は感心し、この際に駿河国安倍郡に移住したという。関東移封の際、在重は安倍郡を去りたくない理由があり、これに従わなかった。この後、中村式部少輔一氏が駿河国を領有し、駿河の国侍を登用した際に、これに仕えた。徳川家康が駿河国に隠居した際には、在重に対して関東移封に従わなかった事を責められたものの許され、再度徳川家康に仕えた。
 (補記)現在、朝倉河内守在重と同一人物とみられているが、寛永伝でも寛政譜でも別項になっている。

朝倉宣正(寛永伝、寛政譜)

 生没:天正元年(1573年)~寛永14年(1637)2月6日
 別名:藤十郎
 官位:従五位下筑後守
 実父:朝倉六兵衛尉在重
 実母:末高石見守正長の娘
 妻 :土井小左衛門利昌の娘
 子 :朝倉宣親、朝倉正世、朝倉宣季、屋代忠興、伊東主膳正祐豊の妻、加藤民部大輔明利の妻、正高
 駿河国柿島に生まれる。天正18年小田原陣の時に召出されて徳川秀忠に仕え、200石を賜り大番となる。その後、使番となる。慶長5年の上田城攻めの際には徳川秀忠に従い参戦した。牧野右馬允康成と子の駿河守忠成とともに刈田の奉行となって敵の城に近付いたが、城中より兵が出てきて鉄砲を放ち、刈田に出ていた徳川勢を撃とうとした。この際に朝倉宣正は牧野親子とともに木戸口押し寄せ戦った。この際に城兵は矢倉の上から弓で防戦したが、宣正は塀の下に取り付いて矢倉の上の敵兵を槍で攻撃した。この槍のけら首を矢倉上の敵兵が掴んで奪おうとし、宣正は槍を手放さず抵抗したが、槍のけら首が折れてしまったので撤退した。その後、槍のけら首は敵から宣正に返還された。この上田の合戦において朝倉宣正は、小野次郎右衛門忠明、中山勘解由照守、辻左次右衛門久吉、戸田半平光正、鎮目半次郎惟明、斎藤久右衛門信吉とともに、上田七本槍として称された。しかしながら、刈田奉行ながら合戦して軍法に背いたとして、徳川秀忠の命令により上野吾妻の留守番を命じられたが後に赦され大番に戻った。慶長7年安房国へ唐船が漂着したとき、命令を受けてこれを検視した。後に100石を加増され、慶長9年に組頭となりさらに200石を加増され、慶長10年に使番となり200石を加増され、慶長16年にさらに200石を加増された。この年、徳川家康の上洛に付き従った。慶長18年禁裏造営の際に京に赴き、完成の後1000石の加増を受けた。この後、和泉堺政所職を務め芝山小兵衛正親に代わって帰る。この後徳川家康の命令で徳川秀忠の家臣となった。慶長19年大坂陣の時は江戸の守備を担当し、同年12月6日に徳川秀忠より御書を賜った。この後1,000石を加増され、元和3年12月、従五位下筑後守に叙任された。元和5年に3,000石を加増される。元和7年に4,000石加増される。合計で10,000石を領有し、松平忠長の御付家老となった。これ以前に徳川家康より御書および御家紋付き團扇を賜った。元和8年6,000石を加増され、寛永2年10,000石をさらに加増され、遠江国において合計で26,000石を領有し、掛川城を拠点とした。寛永8年松平忠長閉居に伴い、主君への諫言が不十分だった事を咎められ、酒井阿波守忠行の所へお預けの身となった。松平忠長はこれを嘆き、問題は自分のせいだとして、宣正を赦免するように尾張藩徳川義直、水戸藩徳川頼房、千姫に対して申し入れをしたため、宣正は罪を赦され、駿河国帰って国政を正し、諸氏を指揮せよと徳川秀忠より命じられた。寛永9年松平忠長が改易となり、宣正も松平下総守忠明にお預けの身となって大和国郡山に蟄居となった。

朝倉在重(寛永伝、寛政譜)

 生没:1584年(天正11年)~慶安3年(1650年)11月19日
 別名:仁左衛門尉
 官位:従五位下石見守
 実父:朝倉六兵衛尉在重
 実母:末高石見守正長の娘
 妻 :牧野右馬允家臣牧野五郎兵衛某の娘
 子 :朝倉重宣、朝倉重興、朝倉重利、牧野越中守儀成の妻、兼松又四郎正尾の妻、海野氏の妻、岡田源五郎某の妻、松平庄九郎忠久の妻、朝倉氏の妻、土井大炊頭家臣大野市左衛門定歳の妻、某
 元和元年大坂陣の時、朝倉在重は牧野右馬允康成と子の駿河守忠成の軍に属して出陣した。同年5月7日、在重は牧野親子と轡を並べて天王寺に出撃した際、白母衣に半月の指物、もう一人は柄連(ゑづる)の指物を指した武者が2名攻め寄せて来た。在重は柄連の指物を指した方の敵兵と槍を合わせ討ち取り、首を牧野右馬允の陣に持参した。大阪城陥落後に召出され、徳川秀忠の家臣となった。命令により書院番となり、その後御膳番を務めた。寛永2年7月27日、目付となり、領地の朱印を賜り于上総国望陀、下総国葛飾の2郡の内に500石を賜った。後に布衣を許される。この後、徳川家光に仕え、寛永7年4月に使番となり下総国葛飾郡に500石を加増された。寛永9年肥後国熊本城を細川越中守忠利に与えることになったので、同年6月16日命令を受けて同地に赴き、城の引き渡しの任務を務めた。寛永10年、美濃国大垣城を松平越中守定綱に与える際に、同地に赴いて命令を伝えた。同年12月26日、甲斐国八代郡において1,000石を加増され、合計で2,000石を領有した。寛永11年3月28日、目付となって豊後国萩原に赴いた。寛永12年、戸田左門氏銕に美濃国大垣城を与えることになったので、同年7月晦日に同地に到り、城の引き渡しの役を務めた。寛永13年7月13日、池田光伸が幼少であるため目付を命じられ、因幡国に赴いて政務を監督した。寛永16年大和国郡山城を本多内記政勝に与える事になったので、同年3月3日に同地に到って命令を伝えた。同年7月18日に江戸町奉行となり、寛永18年1月2日、従五位下石見守に叙任された。墓所は四谷の全勝寺。

雑記(駿河記)

 上落合には大石某という国人が住んでいたが、柿島の朝倉が夜討ちで切り従え自らの被官にしたという。このため上落合は朝倉の所領となった。



6.海野氏(海野惣右衛門、海野弥兵衛本定)


 駿河海野氏の海野本定は海野幸氏から数えて9代目であり、有名な信濃国海野氏の支族とされる。安倍元真の婿となり井川七ヶ村を継承し、武田家・徳川家に仕え、井川の殿様と称されるようになった。単純に所領規模をみると、安倍七騎に数えられる氏族の内では海野氏の勢力が突出していると考えられるが、他の諸将と比べ、海野本定自身の戦働きの逸話は伝わらない。戦場を得意とするよりも治世を主とする人物であったのだろうか?

海野本定(駿河記)

 生没:生年不明~元和3年(1617年)6月3日
 別名:弥兵衛尉
 法名:松雲
 実父:海野泰頼
 妻 :安倍大蔵元真の娘
 子 :海野元重、海野兵左衛門、海野縫右衛門
 海野弥兵衛(あるいは安倍大蔵)は、津渡野城の高瀧将監を焼き討ちし滅ぼした。海野本定は、はじめ武田家に仕えたという。天正7年1月23日、穴山信君より海野弥兵衛尉へ、江尻へ行くように伝えられる。天正7年10月25日、土屋右衛門尉より海野弥兵衛へ、25貫、また新恩として計12貫400文を配下分を含め与えられる。天正10年以降に安倍大蔵元真の娘を妻として、安部井川の家督を継いだ。徳川家康の家臣となり、駿河国から信濃国への山道案内人などを務める。また、徳川家が駿河国を納めて後、朝倉六兵衛とともに、御茶壺の管理、御巣鷹係、材木管理、金山御用などを務めた。また、徳川家康は天然の要害である井川に有事の備えとして鉄砲弾薬庫を設置し、海野氏に管理を委託した。

海野七郎太郎(駿河記)

 岩崎住人。海野七郎三郎と兄弟。武田家より嫌疑を受け、江尻城から派遣された人物に捕縛される。江尻守衛の土屋右衛門尉の下に引き出され拷問の上梟首された。
 (補記)海野弥兵衛の配下と思われる

海野七郎三郎(駿河記)

 田代住人。海野七郎太郎と兄弟。武勇絶倫であったという。武田家より嫌疑をうけ、捕縛命令が出る。田代住人に謀られ落とし穴に落とされて討ち取られ、兄の七郎太郎とともに梟首された。怨霊となったので八幡社に弔われた。
 (補記)海野弥兵衛の配下と思われる。

海野弥兵衛元重(駿河記)

 生没:生年不明~寛文5年7月1日
 実父:海野本定
 子 :海野正成、海野信典

海野兵左衛門(駿河記)

 実父:海野本定
 子 :海野兵左衛門、津田治兵衛
 紀州藩徳川頼宣に仕える。

海野縫右衛門(駿河記)

 実父:海野本定
 紀州藩徳川頼宣に仕える。

海野五左衛門正成(駿河記)

 実父:海野元重
 徳川忠長に仕え500石を賜る。忠長没落の後は亀井能登守に預けられて石見国で死没した。

海野弥兵衛信典(駿河記)

 実父:海野元重
 巣鷹役、井川七ヶ村支配

【雑記】
郷島村長 海野惣右衛門 永禄13年6月16日武田家市川備後守、原隼人祐からの海野竹千代への書状を所有。



7.杉山氏(杉山仁左衛門、杉山小太郎右衛門)


 今川家臣。俵峰村。

【雑記】
俵峰 杉山氏
明応3年9月20日、今川氏親より杉山太郎衛門へ俵峰半分を与える書状。天文21年10月11日、今川義元より杉山小太郎へ年貢緒役に関する書状。永禄6年4月10日、今川氏真より杉山小太郎と望月次郎右衛門へ三河国急用につき棟別銭許可の書状。永禄10年9月24日、今川氏真より杉山小太郎へ屋敷の竹木に関する書状。天正元年10月7日岡部正綱より杉山小太郎へ合力のためと志田郷三輪分の5貫文を渡すという書状。天正2年12月18日、市川宮内助より杉山小兵衛へ24貫文の宛がい状。元亀2年12月24日、朝比奈駿河守信直、横田康景から俵峰村弓兵5人を定める書状。天正3年9月21日、杉山小兵衛へ小山城篭城戦の戦功を賞する書状。





10.資料置場



★大村五郎左衛門
⇒大石五郎右衛門(朝倉在重の義弟)の事か?朝倉在重と不仲になり暗殺される。

安倍七騎に数えられる大村氏は俵澤の大村彦六郎の事か。先祖は信濃国国人で安倍に移住した。今川家・武田家からの書状がある。


★長島甚太右衛門
⇒不明 長島某という武人の屋敷が、内匠にあったという(駿河記)

★望月四郎右衛門
⇒望月與太郎?朝倉在重の娘婿。

『駿河記 上巻』
 〇里 中西 里人望月氏云昔源賴朝卿治世に、此所に某と云武士あり。幕府に忠節ありて、井河七鄕を賜ひて勢ひ猛なりしと傳。今此屋敷跡に、中西次右衛門と云貧民住す。彼武人の子孫と云。然共彼家舊記亡て未ㇾ詳。
 雑記曰、壽永二年の秋、木曾義仲反逆の時、木曽が郎從海野・望月・仁科・高科・根津・風間等の者謀て、信濃國より駿河・遠江の國へ山路を越て、間道を經て、軍兵を出さむとて、駿河安倍の地侍仁科彌七と云者、淸水冠者の供したる海野小太郎幸氏が叔父なれば、仁科彼が催促に應じ、賴朝卿に内通し、計略を以て彼徒を討んとて、安倍鄕の地侍柿島の朝倉、落合の狩野、平野の末高、俵峰の杉山、足久保の石貝、千頭の大間等を促し、木曾が軍を猪用に引入悉く討取、其首を鎌倉に送り實檢に入けり。各恩賞を賜ふ。仁科に猪用七鄕を賜ふと云云。
 此事正史には不見ども、若くは實説にやあらなむ。當村小里中西の古屋敷仁科の居地なるか、尚重て可考。
※寿永二年(1183年)。柿島の朝倉は旗本朝倉氏の家伝では越前朝倉氏の分流なので年代が合わない。朝倉氏は源平合戦時代頃に朝倉を称しているので、安倍地域に分流があるかという疑問。石貝が遠江石谷氏の事なら家伝で石谷を名乗ったのが1500年代。正史ではなく雑記?なので、人名他の信憑性に疑問。

用宗城跡……今川家の時、関口刑部少輔または一宮出羽守随羽斎が守衛するという。天正7年9月、武田勢駿河先方の、三浦兵部少輔(兵部助義鏡)、向井伊賀守正重をはじめとして、400余人で守備した。19日、徳川勢である松平甚太郎家忠・牧野馬之允康成が攻め込んできて、向井・三浦勢は奮戦したが1万余の徳川勢に敵わず、三浦は一色左京に討たれ、向井は尾崎半蔵に討たれて落城した。その後武田勢は朝比奈駿河守信置、長谷川左近、須藤左門、石原五郎作、天野角右衛門、桜井兵庫、朝比奈市兵衛、朝比奈小隼人、矢部弥三郎、庵原伝内、久野角之助、等を配置して籠城した。天正9年5月5日、用宗城の城兵は浜遠目にて三河勢と合戦し多くが討たれた。同年武田氏没落の際には、朝比奈氏が開城し庵原郡草ヶ谷城に引き籠ったと伝わる。


(考察)用宗城は安倍川の河口周辺にあることから、水運を利用し安倍川利用を考えると、安倍郡の勢力が水軍に加わってもおかしくはないか。



今川氏真文書
駿河国中田寺方小笠原分百姓職之事
右。如前々可相計。但前々者脇屋隼人西尾左近衛門。為三人雖抱来。従乱中有在所。隼人令死去。剰左近衛門者遠州小笠原方へ相越云云。然者海野可為壹人百姓。去年正月始。父子一類阿部相退。末高令談合。致一揆奉公由申條。郷中諸事。縦雖為私領。不可有相違。就彼名職。天澤寺殿御判形続印判。雖令所持。乱中失却之由申之條。重申付者成。仍如件。
 永禄十三年六月十五日 海野宗意

〇同前
駿河国石田郷龍雲寺並定源寺領百姓職之事。
右。如前々可相計。但前々は為四人雖抱来。孫七郎清兵衛両人者。従乱中関東に欠落。五郎兵衛は今駿府有之云云。弥七郎事は父捨置。海野同然に。自最前阿部へ相退。加一揆之由申條。在所へ罷帰上は。可為一人百姓。縦雖為私領不可相違者也。依如件。 
 永禄十三年六月十五日 西谷弥七郎


南矢部住民与兵衛望月氏家蔵古文書
南矢部之内。望月右衛門四郎屋敷之竹木山林。共不可伐取之。若自当城見伐之者於相伐者。以此印判可申理者也。仍如件。
 天正八年辰七月十九日 江城(朱印) ※江尻城、穴山信君朱印
同家へ弓免許状、慶長20年卯八月一日、松七右衛門家久(花押)、望月角蔵殿と有。又一通、
火夢想之鉄砲一流。雖為天下無双徳。御執心。大筒小筒之儀。令相伝候畢。以来深重懇望之方於有者。堅以起請文可被成御相伝候。雖然至御弟子免状之事者。可為一国拾人者也。依如件。
 元和七年七月七日 伯民部少輔政永
           保田七右衛門尉守重(花押)
        望月長兵衛殿参


益津郡 中村
〇御所松
 此里瀬戸川堤の本に、方五六間の際荊棘生繁りたる内に、大なる松樹あり。里人御所松と呼。其由来を詳にせず。産土神に南朝の帝を祭り、あるいは蔵王権現を祭る所以あることなり。按るに、南朝の皇子宗良親王或は興良親王、遠江国より当国へ御座を被遷たることあり、其時御船に召れて此湊に(焼津湊)着せ給う時に、安倍郡の住人狩野介貞長入江蒲原等の人々御迎に出て、親王の御船をむかへ、暫時此處に輿を駐めさせ憩せ給ひしを以て御所の号あるか。仍て後人其處に吉野の御神等を斎祭るものなるべし。委説は安倍郡に載こゝに略す。(但神祖毎度此辺に御遊覧ありし地なれば若くは其遺蹟か)


志太郡
【鵜綱】
里正松浦氏は先祖肥前の松浦渡辺氏の子孫にて、松浦源二郎勝と云者、今川貞世に仕へ遠江に住す。其子源太夫今川泰範に奉仕し、応永十二年酉六月二日没。子孫此處に蟄し、当主に至て二十二代と云伝たり。されども證とすべき子文書なし。其真偽未詳。


【下之郡】
〇小地名 矢先 松井 中田 阿弥陀ヶ谷 横目入道ヶ谷
 入道ヶ谷は長慶寺向、花倉谷川の南、横目の内の池名なり。
 伝云、鎌倉の時代葉梨入道と云者居住の地なり。按に入道は左大臣武智磨公四男乙磨より十三代、二階堂従五位下駿河守維行と云者、駿河国守護職に補し、こゝに隠居して葉梨入道と称。事蹟不詳。

【仮宿】
 里民幸次郎(天野氏)と云者の由緒に云、先祖は天野次郎右衛門尉景氏と云武人なり。永禄年小田原北篠氏に仕へ、船手奉行にて伊豆国韮山城に在住す。景氏駿河国安倍郡井川の住士海野弥兵衛空(名)を妻とし、一子多宮を産、天正十三年乙酉没。同十八年三月関白秀吉公北條家征伐の時に多宮韮山城にありと雖も、幼弱たるによって母とともに主従六人にて当城を落、夜に紛れ密に小舟に乗て遁去て駿河清水湊に上り、安部山中に引、海野氏の家に蟄し、其後岡部郷仮屋所村小柴と云地に在住す。多宮後に助右衛門と改、元和五年没。自爾今に至て十代民間にあり。末年舊記失て口碑に伝のみと云云。藤泰井河に至る時、海野氏の宅に於て其家系を視るに、安倍氏の嫡女天野伝四郎妻と記せり。海野本定は安倍氏の婿にして井川の家督を続たり。其説符号せり。実説と聞ゆ。依てこゝに其伝を記す。
 按に天野氏は伊豆国君澤郡天野村の世々住人。天野遠景政景・光家等の古墳ありと云。若は此系統の子孫にやあらむ。


海野兵左衛門(うんの へいざえもん)
生年不詳~寛永十九年(~一六四二)
和歌山藩士。初代藩主徳川頼宣に仕える。名は良次。父弥兵衛本定は、武田信玄、勝頼に仕え、天正年間に徳川家康に仕える。兵左衛門は父本定の勤功により、新規に家康に召し出され、切米二百俵を与えられる。その後駿河で頼宣に付けられ、知行三百石を与えられ、目付となる。頼宣の紀伊転封後、たびたび役替、加増があり、勘定奉行に昇進し、一千百五十石を与えられ、彦坂九兵衛光政と共に藩政に参与する。寛永十九年五月十四日没する。なお、七代兵左衛門勤は、家督六百石より側用人、勘定奉行、加判之列など枢要な役職を歴任し、一千七百石にまでかぞうされている。<小山誉城>
(三百藩家臣人名事典 第五巻 発行者:菅英志 1988.12.20)





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最終更新:2018年08月15日 12:51