伊達幕府女神隊
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伊達幕府女神隊
ja
2022-11-27T19:36:43+09:00
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石谷氏/石ヶ谷氏
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現在資料調査中&HP工事中
since 2011.1.1~逐次加筆訂正
*&bold(){著書名:遠江国を本貫とする石谷氏の私的調査}
**著者名:松浦図書助
&u(){※本ホームページの題名が変なのは、デスクトップマスコット"伺か"その他を置いたのが先だった為です。}
&u(){&bold(){※2022年12月24日より、Amazonにて下記の書籍を発行します。内容的にはほぼこのホームページと同じなので、必要な場合には本稿の公式参考出典としてISBN番号や書名をお使いください。}}
[[『遠江国を本貫とする石谷氏(石ヶ谷氏)の調査報告』>https://www.amazon.co.jp/dp/481503611X?tag=myisbn-22]]
&u(){&bold(){ISBN-13 : 978-4815036119}}
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**&bold(){目次}
**&bold(){&link_anchor(題1){1.本稿について}}
**&bold(){&link_anchor(題2){2.石谷政清とその先祖}}
**&bold(){&link_anchor(題3){3.石谷政信系}}
**&bold(){&link_anchor(題4.1){4.1.石谷清定系}}
**&bold(){&link_anchor(題4.2){4.2.石谷貞清系}}
**&bold(){&link_anchor(題5.1){5.1.石谷清重系尾張藩士}}
**&bold(){&link_anchor(題5.2){5.2.石谷清重系石ヶ谷氏}}
**&bold(){&link_anchor(題6){6.桑原政重系}}
**&bold(){&link_anchor(題7){7.石谷氏傍系石田氏}}
**&bold(){&link_anchor(題8){8.美人ヶ谷城&滝ノ谷城}}
**&bold(){&link_anchor(題9){9.推論}}
&bold(){&link_anchor(題9.1){9.1.遠江石谷氏と土岐石谷氏}}
&bold(){&link_anchor(題9.2){9.2.石谷氏に関する二階堂美啓と二階堂氏}}
&bold(){&link_anchor(題9.3){9.3.遠江西郷氏と三河西郷氏}}
&bold(){&link_anchor(題9.4){9.4.二階堂氏と遠江西郷氏}}
&bold(){&link_anchor(題9.5){9.5.石谷氏の祖が二階堂と西郷を複雑に称した理由の推測}}
&bold(){&link_anchor(題9.6){9.6.安倍七騎に数えられる足久保の石谷氏に関して}}
&bold(){&link_anchor(題9.7){9.7.入澤五右衛門行重について}}
&bold(){&link_anchor(題9.8){9.8.石谷氏と彦根藩小野田氏}}
&bold(){&link_anchor(題9.9){9.9.石谷氏の系図について}}
**&bold(){&link_anchor(題10){10.終わりに}}
**&bold(){&link_anchor(題11){11.参考資料一覧}}
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[[データバックアップ>http://atwiki.jp/download.php]]※筆者専用
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**&bold(){&aname(題1,option=nolink){1.本稿について}}
本稿は、系図上、[[石谷政清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷政清]]の5男である[[石谷清重>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清重]]の末裔を称する一族を母方に持つ筆者が、その趣味において私的に先祖及びその眷族の[[石谷氏>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷氏]]の歴史を調査した結果に基づき、斯くの如く作成しているものである。これを公開する意図は、同じく遠江国を本貫とする石谷氏、石ヶ谷氏、石貝氏等の名字を名乗る者の先祖探しや、石谷氏関連の調査を行う者がいた場合の参考情報になれば良いと思った事に拠る。基本的に重要な事項は本ページにおいて引用及び出典を併記して記載し、それについて論述する形式を取ってはいるが、筆者が旧字を新字に置換えている部分や、誤記、古語から現代文へ変換する際の翻訳の間違い等の存在が考えられる。従って、正式に内容を調査するに当たっては、参考文献本紙を御確認願いたい。また、どのような参考文献があるかという確認のため、本文中に&link_anchor(文献){使用していない参考文献についても本稿末に一覧記載}する。なお、本稿の作成に当たって資料調査の効率化及びその保管を目的として、資料そのものを抜粋し転記して本稿とは別ページに保存しているが、これらは基本的に筆者が本稿を作成するための都合で用意しているものであるので、その資料を閲覧する場合には、基本的に図書館等を当たって参考文献本紙の確認を御願いするものである。[[Wikipediaの遠江石谷氏関連のページ>http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:石谷氏]]については、主に筆者が編集しているため、類似の表現が散見されると思われるが御承知置き願いたい。本稿の取扱いについては、金銭のやり取りが発生する家系図調査等の商業目的での使用は禁止するが、私的及び学術的側面から石谷氏の調査資料とする場合や、筆者と同じく石谷氏末裔の方等が、御自身で家系調査を行う為の資料として使用するような非営利目的の場合においては、印刷、編集等、自由に使用して頂いて構わない。
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#image(九曜.jpg)
**&bold(){&aname(題2,option=nolink){2.石谷政清とその先祖}}
#image(石ヶ谷氏縁.jpg)
#image(名字石.jpg)
遠江国[[佐野郡>http://ja.wikipedia.org/wiki/佐野郡]]西郷石谷村(現在の静岡県西部)を本貫とする石谷(イシガヤ)氏は、同地に存在していた土豪と思われる[[石谷政清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷政清]](文亀3年(1503年)~天正2年(1574年))を家祖とし、その名字の由来とする。石ヶ谷、石貝(イシガヤ、イシガイ)という名字も静岡県内に多く分布するが、基本的にこれらは石谷の異字体の名字と考えて良い。発音については『[[寛永諸家系図伝]]』等の公式資料に置いては『イシガヤ』ではあるが、通例として『イシガイ』と発音する場合もある。
>&u(){『[[寛永諸家系図伝]]』}
>石谷(いしがや)
>家伝にいはく、もとは二階堂と号す、大織冠(藤原鎌足)十一代遠江守爲憲の後胤なり、政清遠江国石谷村に住す、村の西南に大岩石あり、其岩側に八幡の庿あり、是村の氏神なり、政清氏神のましますところを崇、このゆへに二階堂をあらためて石谷と称す。
>
>&u(){『[[新訂寛政重修諸家譜]]』 }
>藤原氏 爲憲流
>石谷(いしがや)
>寛永系図家伝を引いていはく、もと二階堂を称し、行清がとき外祖父西郷が家号を用い、其子清長がときまた二階堂を称し、その子政清遠江国石谷村に居住す。村の西南におほいなる岩石あり。その岩の頭に八幡の廟あり、これ村の氏神なり。政清氏神のまします所を尊崇す。この故に二階堂をあらためて石谷と称す。今の呈譜に代々遠江国佐野郡西鄕の庄に居住せしにより、行清がときあらためて西鄕と称し、政清めされて東照宮に奉仕するにをよび、西鄕の局の称呼を諱て石谷にあらたむといふ。
上記のように、『[[寛永諸家系図伝]]』や『[[新訂寛政重修諸家譜]]』に拠れば、石谷政清は石谷氏を称する以前において、[[二階堂氏>http://ja.wikipedia.org/wiki/二階堂氏]]、[[西郷氏>http://ja.wikipedia.org/wiki/西郷氏]]、いずれの名字を使用していたかは明白ではない。記載から見るとどちらかというと二階堂氏を称していたようにも取れるが、呈譜において、[[西郷局>http://ja.wikipedia.org/wiki/西郷局]]の呼称に憚って西郷氏から石谷氏に改めた、と加えているため、恐らくは西郷氏を称していたのであろう。また、子息である太平山龍淵寺十二世住職の呑雪に関しても『[[新編武蔵風土記稿>http://www.tesshow.jp/saitama/kumagaya/temple_kamino_ryuen.html]]』において西郷氏を称していたとの記録があるため、この点からも概ね西郷氏を称していたのだろうと推測される。なお、二階堂氏であるか西郷氏であるかについては、後述の推論にて検討する。
『[[新訂寛政重修諸家譜]]』に記載される呈譜については、重大な疑義が存在している。西郷局の呼称に憚って石谷政清が西郷氏から石谷氏に名字を改めたと記載されるが、西郷局が[[徳川家康>http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川家康]]に仕えたのは天正6年(1578年)である。一方で石谷政清が死没した年は天正2年(1574年)であるため、石谷政清が西郷局に憚る事は不可能なのである。また、下記抜粋の通り、
>&u(){『[[静岡県史 資料編7]]』}
>永禄12年(1569)
>
>正月二十六日、徳川家康、遠江国飛鳥内一色の内を、石谷政清に与える。
> 三五九九 徳川家康判物写 記録御用所本古文書一○内閣文庫所蔵
>
> 今度被行知行事
> (遠江国佐野郡)
>右、五石半之飛鳥内一色百弐拾俵弐斗俵也、井前々屋敷分有由緒、令訴訟候間、為新給恩出置畢、永不可有相違、守此旨弥於令奉公者、重而可加扶助者也、仍如件、
> 永禄十二年己巳 (徳川家康)
> 正月廿六日 御名乗御書判
> (政清)
> 石谷十郎右衛門殿
永禄12年(1569年)に、徳川家康から石谷十郎右衛門(政清)に宛てた書状が残されており、この永禄12年(1569年)の段階で既に石谷政清が石谷氏を称している事が明らかであるため、『[[新訂寛政重修諸家譜]]』の呈譜の記載については、石谷氏が西郷氏を称したくない、或いは同一視されたくない何らかの理由によって創作した逸話だと思われる。この辺りの事情ついても後述の推論にて再度検討する。
いずれにしても、文亀3年(1503年)生まれの石谷政清がいつの頃か遠江国佐野郡西郷石谷村に移り住んだ事で名字を石谷氏に改めた事が、遠江石谷(イシガヤ)氏の名字の発祥であり由来である。
なお、室町幕府奉公衆を勤めた土岐石谷氏も遠江石谷氏同様『イシガイ』と読むが、土岐石谷氏と遠江石谷氏との関連性は特には見当たらない。また、石谷政清が西郷氏を称していた事から、三河西郷氏の支族であるとも考えられてきたが、これも肯定する資料は無い。これらの説は石谷政清に至るまでの石谷氏の来歴が不明瞭であるため、『[[掛川誌稿]]』や俗説において、遠江石谷氏を土岐石谷氏や三河西郷氏に関連付けようとしたのであろう。これらについては後述の推論で改めて述べるが、寛永18年(1641年)~寛永20年(1643年)頃に編纂されたという『[[寛永諸家系図伝]]』の時点で遠江石谷氏は自ら[[藤原為憲>http://ja.wikipedia.org/wiki/藤原為憲]]流[[二階堂氏>http://ja.wikipedia.org/wiki/二階堂氏]]を称しているため、清和源氏頼光流土岐氏の土岐石谷氏や、藤原北家隆家流菊池氏支族の三河西郷氏と無理に関連付けること自体が間違いであろう。
遠江石谷氏の家系については、石谷政清に至るまでに、二階堂氏、西郷氏を複雑に称している上に、その詳細は不明となっている。『[[寛永諸家系図伝]]』等に拠れば、石谷氏は二階堂因幡守行秋(法名:行欽)の末裔を称している。この二階堂行秋は現在一般的に推測される諸説において、二階堂義賢の子であると推測されているようではあるが、そもそも年代が合わない上に、根拠として充分な出典を見つけることができない。現状において明白に言える事は、あくまでも藤原南家為憲流二階堂支族の二階堂因幡守行秋(法名:行欽)の家督を相続した、その妹婿である西郷庄居住の西郷民部少輔の子孫という事である。この西郷庄の西郷氏についても、『[[掛川誌稿]]』等においては戦国時代に遠江国に所領を得た三河西郷氏に結びつけて考えられているが、これも然るべき根拠は存在していない。三河西郷氏との同一視の原因は、三河西郷氏の支族で西郷正勝の子である西郷局の母が、この西郷庄地域に居住していた戸塚忠春に嫁いだという事実からの誘因と考えられるが、石谷氏自体がわざわざ『[[新訂寛政重修諸家譜]]』において、西郷局に憚って名字を変えたと残す記録から、同族というには疑問が残る。その一方で、
>&u(){『山科家禮記』を基にした『[[ふるさと探訪]]』内の記事}
> 三河の西郷氏と違って土着と推考される西郷氏について『山科家禮記』に次のようにある。
>
> 昨夕智阿ゝ一貫持来候、西郷年貢無沙汰御奉書飯賀州被下候也、其案文也、山科家雑掌申遠江國西郷年貢事、
> 去應仁元年以来一向無沙汰云々太不可然所詮於年々未進分者、如先ゝ不日悉令究済、可被執進請取、尚以及
> 難渋者、可有異沙汰由、被仰出候也、仍執達如件。
> 文明三 為信 判
> 十二月廿七日 之種 判
> 西郷殿
>
> 文書の西郷氏は翌四年二月五日の文書には西郷八郎と録されている。このように山科家から年貢の遅延に関する文書が再々西郷氏宛に発注されていることは、この西郷氏が上西郷にあった山科家の所領地を管理する立場の地頭代の存在であったことを示すものであろう。
と、その詳細は不明ではあるが、[[遠江国>http://ja.wikipedia.org/wiki/遠江国]][[佐野郡>http://ja.wikipedia.org/wiki/佐野郡]]上西郷の[[山科家>http://ja.wikipedia.org/wiki/山科家]][[地頭代>http://ja.wikipedia.org/wiki/地頭代]]の西郷氏が、前述の資料に拠れば文明3年(1471年)には存在している。年代的には石谷政清の曽祖父である二階堂行晴(応永25年(1418年)~文明16年(1484年))、祖父である西郷行清(文安3年(1446年)~永正元年(1504年))が生存していた時代には当たるが、石谷氏の先祖の記録には八郎を称する者は見当たらないため、西郷八郎と石谷氏との関係性については判断がつかないところである。また、年代は不明ではあるが、明応6年(1497年)に戦没した倉真城城主松浦兵庫助とともに、西郷荘の西郷氏が下記の通り遠江三十六人衆に数えられている。
>&u(){『柳園雑記』に関する『[[掛川市誌]]』内の記事}
>室町時代遠江国は今川氏に依って支配され各地の豪族、武将はこれに従った。遠江三十六人衆がそれで、
>柳園雑記に、
> 初馬 河合宗忠 本郷 原氏 平川 赤堀至膳
> 西郷 西郷殿 原谷 孕石 小山 増田周防守
> 倉真 松浦兵庫助 増田 松浦治郎右衛門
> 掛川 鶴見因幡 袋井 堀越殿
いずれの史料においても判然とはしないが、西郷荘地域にて西郷を称していた一族として石谷氏が挙げられ、同地の美人谷城跡もまた石谷氏に由来すると伝えられる以上、この西郷氏と石谷氏は何らかの繋がりがあると考えるほうが自然であろう。またそれ以前の二階堂氏との結び付き等複雑に絡む過程で複雑な家系になったのであろうか。このあたりは推論にて後述する。なお、周辺地域にて今川氏真の配下で西郷監物丞信房という人物が永禄12年(1569年)頃に天王小路での戦功を記録されている(『[[静岡県史 資料編7]]』)が、石谷氏の一族には記載は無く関係は不明である。
戦国時代の大阪の陣に至る以前における遠江石谷氏の活動や勢力については、史料をほとんど見つける事が出来ない。永禄12年(1569)の御黒印を賜った記録、元亀2年(1571年)に徳川家に仕えた記録の後は、文禄の役に伴う文禄元年(1593年)の名護屋滞陣に石谷清平が徳川家康に同行した記録、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦に石谷清重が徳川秀忠に同行した記録こそあるが、しかしその程度の活動記録にも関わらず、一族が数家それぞれに独立して取立てられる程の理由は不明である。徳川家に仕える以前の勢力を推定するものとしては、掛川城北部4km程度の場所(山本神社、掛川市上西郷3918)に、現在では美人谷城(別名:石谷城)と俗称される山城跡があり、伝承では石谷氏の居城跡と伝えられている。掛川城は、大名としての駿河今川氏最期の当主今川氏真が、重臣である朝比奈泰朝を城代として配置し、大名としての今川氏滅亡の時(永禄12年5月17日(1569年))まで戦った城である。しかし、そういった重要な立地に拠点がある割に、遠江石谷氏の活動が史料からは見られないのが疑問ではある。『[[干城録]]』には石谷政清が西郷十八士の長であったとも記載されるが、今一つ内容が不明である。他に伝承として残されるのは、遠江石谷氏の同族とされる駿河国安倍郡足久保村の石谷重郎左衛門が、安倍七騎として今川方、武田方として活動をした伝承である。この石谷氏は旗本になったと伝えられている事や、石谷政清の5男とされる石谷清重の子石谷清春が足久保に居住した記録(『[[名古屋叢書続編 士林泝洄]]』)がある事から、遠江石谷氏の一族である事は明白であろう。石谷重郎左衛門については、石谷十郎右衛門政清(泉龍寺の開基としては石谷十郎左衛門正清の記載あり、また『[[袖師町誌]]』には石ヶ谷十郎左衛門政清の記載あり)の誤伝か、その息子の内の誰かであろうか。なお、石谷清春については海野又十郎を称した記録が『[[石ヶ谷家家系図]]』に記載されており、またこの系図を基に記載されているであろう『[[袖師町誌]]』においては石谷清重が海野又太夫を称したとも記載されており、安倍七騎に関係する駿河海野氏との姻戚関係が推測される。従って、いつの頃か遠江石谷氏は駿河国安倍郡足久保にも勢力を持っていた(或いは今川家臣時代に遠江国から領地替えがあった)と考えられる。また、これ以外に石谷政清の勢力規模を考える内容としては、長男である入澤五左衛門行重が入澤氏を称して武田家に仕えている事や、6男の桑原政重が桑原氏を称して紀州徳川家に仕えている事、井伊氏の重臣となったと思われる小野田小一郎へ娘を嫁がせていた事などからも、かなりの広範囲における婚姻関係や他家に養子を送り込める力関係が伺える。また、2男の呑説(呑雪)については徳川家康の御乎習の相手を務めたとの記録もあるから、子を出家させて一定の学識を積ます事が可能な勢力であったのであろうと推測し得る。これらについては推論にて後述するが、いずれにしても、美人谷城跡周辺を中心として『[[干城録]]』に記されるように西郷十八士の長になれる程度の影響下の領地や家柄、広範囲の婚姻関係を築けるだけの勢力と外交力を持ち、今川義元や今川氏真に仕えたが、今川氏滅亡の直前に徳川家康に仕えた事で家運が開けたと言う事しか判然としない。
なお前述の通り、石谷政清は今川氏に仕えていたとされ、今川家滅亡の直前である徳川家康の掛川城攻略(永禄11年12月27日(1568年))がはじまって後(永禄12年1月26日(1569年))に、徳川家康より知行の安堵状を受け取っている。この時期、遠江国の周辺土豪が多数徳川側に降伏しているので、彼らと示し合わせた上での内応であろうか。時期は不明ではあるが、井伊氏の重臣となった小野田小一郎に娘が嫁いでいる事もあり、そういった筋からの諜略も考え得るだろう。ただ、「井前々屋敷分有由緒(『[[静岡県史 資料編7]]』)」と記載のある事から、何らかの理由でその地を離れており徳川家属下に加わっていた石谷政清に対し、敵側の所領を取り上げ旧領を与えたとも考えられなくは無い。
***【石谷政清前後略系図】
二階堂行秋
↓
西鄕行晴
↓
西鄕行清,二階堂行捷
↓
二階堂清長
↓
[[石谷政清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷政清]]
↓
入澤行重,呑説,[[石谷政信>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷政信]],[[石谷清定>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清定]],桑原與三右衛門の妻,[[石谷清重>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清重]],乗松彌次右衛門の妻,小野田小一郎の妻,[[桑原政重>http://ja.wikipedia.org/wiki/桑原政重]]
(※疑問点:入澤行重は石谷五右衛門?(安倍七騎?)か入沢五右衛門?(武田水軍土屋(岡部)氏配下?)、呑説は呑雪(龍淵寺住職、子供の頃に徳川家康の手習いを務めた古馴染み)、石谷清重は駿河海野氏(安倍七騎)の系統?、乗松彌次右衛門は井伊谷三人衆の鈴木氏家臣の系統?、小野田小一郎は彦根藩小野田彦右衛門為盛)
***[[石谷政清とその先祖詳細]]
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#image(九曜.jpg)
**&bold(){&aname(題3,option=nolink){3.石谷政信系}}
>&u(){『[[新訂寛政重修諸家譜]]』}
>政信(まさのぶ)
>十右衛門 母は某氏
>元亀二年三月十日父とおなじくめされて東照宮に奉仕し、天正十八年関東にいらせたまふの時、武蔵国多摩郡の内にをいて采地二百石をたまひ、慶長十年二月より台徳院(秀忠)殿につかへたてまつる。元和五年六月五日(今の呈譜十月八日)死す。法名良完。(今の呈譜良石) 多摩郡泉村の泉竜寺に葬る。のち代々葬地とす。
石谷政信は石谷政清の3男として生まれ、元亀2年3月10日(1571年)、26歳の頃に、父の石谷政清と弟の石谷清定と供に徳川家康に仕えたとされる。なお、長兄の行重は入澤氏を称し武田家に仕えた後の動向が不明であり、次兄の呑説(呑雪)は出家をしているため年齢順に言えば惣領格となるのであろうが、石谷政信をはじめとして、弟である石谷清定、石谷清重、桑原政重のいずれもが徳川家家臣として各々家を興しているので、その位置付けは不明である。
石谷政信の父である石谷政清は永禄12年1月26日(1569年)の時点で[[徳川家康>http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川家康]]に安堵状を貰っているため、この時点で徳川方であったと推測はされるが、この時期の掛川周辺は政情不安定なままであった。永禄12年5月17日(1569年)に、大名の[[今川氏>http://ja.wikipedia.org/wiki/今川氏]]最後の当主である[[今川氏真>http://ja.wikipedia.org/wiki/今川氏真]]の篭る[[掛川城>http://ja.wikipedia.org/wiki/掛川城]]は開城しているが、元亀2年(1571年)頃に[[遠江国>http://ja.wikipedia.org/wiki/遠江国]]の大勢が決するまで、[[今川氏>http://ja.wikipedia.org/wiki/今川氏]]の旧領をめぐって[[徳川氏>http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川氏]]、[[武田氏>http://ja.wikipedia.org/wiki/武田氏]]、[[北条氏>http://ja.wikipedia.org/wiki/後北条氏]]([[今川氏>http://ja.wikipedia.org/wiki/今川氏]])が熾烈な領土紛争を繰り返している。この時期における石谷氏の動向も不明であり、『[[新訂寛政重修諸家譜]]』に拠れば、石谷政信の兄である入澤五右衛門行重は武田氏に仕えたとされているし、弟の石谷清重(海野又大夫を称し足久保に隠居した伝承があるため、足久保の[[安倍七騎>http://ja.wikipedia.org/wiki/安倍七騎]]の石谷氏や駿河海野氏との関係が推測される)や、桑原政重などの動向も掴めない。当時にありがちではあるが、どの勢力が台頭しても一族を残すために、婚姻関係を利用して各勢力を天秤にかけてどちらに転んでも良いように手を打っていたのかもしれない。[[徳川家康>http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川家康]]にしてもこのタイミングで石谷氏など召出したというのは、不穏な情勢の中で彼らが敵側に付かないように手を回したと言う事だろう。いずれにしても、この元亀2年3月10日(1571年)を以って、石谷政信は[[徳川氏>http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川氏]]における旗本、石谷氏(政信系)一族の祖となった。
石谷政信の戦場などでの活躍は不明であるが、天正18年(1590年)には[[徳川家康>http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川家康]]の関東移封に従い武蔵国多摩郡に200石を知行したとされる。同様に弟の石谷清定は250石を与えられ、また弟の石谷清重、桑原政重もそれぞれ[[徳川氏>http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川氏]]に仕官している。戦功不明ながら兄弟がそれぞれ独立して充分な所領を賜わっている事から、[[遠江国>http://ja.wikipedia.org/wiki/遠江国]]時代の所領がそれなりにあった事が推測される。或いはその[[遠江国>http://ja.wikipedia.org/wiki/遠江国]]時代の勢力規模が戦功に不釣合い(石谷政清が18人の郷士を従えた記述から、1,000石規模の勢力を持っていたとしてもおかしくは無い。出典不明の『[[袖師町誌]]』には石谷政清の祖父西郷行清の代に1600貫の所領の記載(『[[遠江国風土記伝]]』の上西鄕 高千六百七拾七石九斗貮升が出典で誤記か?)がある。兄弟で分割相続させて周囲の妬み等を回避し分家によるリスク分散を図ったものであろうか。石谷政信はその後、慶長10年2月(1605年)より[[徳川秀忠>http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川秀忠]]に仕え、元和5年6月5日(1619年)に没したとされる。死後は多摩郡泉村の[[泉竜寺>http://www.senryuji.or.jp/]]に葬られ、[[泉竜寺>http://www.senryuji.or.jp/]]が石谷政信一族代々の墓所となった。
石谷政信の子孫は、子の石谷政勝の代に500石(次男は彦根藩足軽大将小野田小一郎為躬1000石)、曾孫の石谷清長の代には700石となった。大身旗本とまでは言えないが、700石という石高は旗本衆の内上位20%程度に入る程ではあり、戦国時代では1村支配はする程度の土豪級、江戸時代の諸藩においては重臣クラスの石高であり、立場としては比較的上位に位置するものと考えられよう。また、養子縁組関係などから見て、旗本遠江石谷氏4家合計5200石の一角を担っていたと推察される。目付などを務めた石谷肥前守清茂を除けば、布衣以上は石谷成勝、石谷清夤程度で石谷清夤については、妻が正徳の治を主導した幕臣として高名な新井白石の娘である。近年では、田沼意次が新井白石の経済政策の一部を応用したと評価されているが、この系統の遠江石谷氏と新井白石との婚姻関係により、遠江石谷氏を称する石谷清昌が新井白石の政策を献策したのではないかと推測されている。
***【石谷政信以降略系図(太字が後継者)】
[[石谷政清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷政清]]
↓
[[石谷政信>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷政信]]
↓
戸塚忠之の妻,喜左衛門,&bold(){[[石谷政勝>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷政勝]]},小野田為一,小野久兵衛の妻,十兵衛,武嶋茂正の妻
↓
&bold(){[[石谷成勝>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷成勝]]},春日家定の妻,三空
↓
&bold(){[[石谷清長>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清長]]}
↓
&bold(){[[石谷清定 (兵四郎)>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清定 (兵四郎)]]},[[石谷清信>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清信]]の娘,[[石谷清夤>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清夤]]
↓
&bold(){[[石谷清夤>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清夤]]},市三郎
↓
&bold(){[[石谷清盈>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清盈]]},銕次郎,女子,[[石谷清馨>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清馨]],兵三郎,[[石谷清茂>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清茂]],[[石谷清憐>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清憐]]
↓
&bold(){[[石谷清茂>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清茂]]}
↓
女子,&bold(){[[石谷清順>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清順]]},石谷清廣,女子
↓?
&bold(){石谷錬蔵}(血縁不明ながら清順の跡をとった様子)
↓
&bold(){石谷房之丞}
***[[石谷政信系一族詳細]]
----
#image(九曜.jpg)
**&bold(){&aname(題4.1,option=nolink){4.1.石谷清定系}}
>&u(){『[[新訂寛政重修諸家譜]]』 }
>清定(きよさだ)
>五郎大夫 石谷十郎右衛門政清が四男。母は某氏。
>元亀二年三月十日父兄と同じくめされて東照宮につかへたてまつり、大番に列し、天正十八年関東にいらせたまふのとき、武蔵国多摩郡の内にをいて采地二百五十石をたまふ。慶長六年五月二日死す。年五十五。法名道無。多摩郡泉村の泉龍寺に葬る。代々葬地とす。妻は今川義元の家臣久嶋与平が女。
石谷清定(五郎大夫)は石谷政清の4男として生まれ、元亀2年3月10日(1571年)24歳の頃に、父の石谷政清と兄の石谷政信と伴に[[徳川家康>http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川家康]]に仕え[[大番>http://ja.wikipedia.org/wiki/大番]]となったとされる。石谷清定の戦場などでの活躍は不明であるが、天正18年(1590年)には[[徳川家康>http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川家康]]の関東移封に従い武蔵国多摩郡に250石を知行し狛江付近に[[陣屋>http://maro32.com/%E7%9F%B3%E8%B0%B7%E6%B0%8F%E9%99%A3%E5%B1%8B/]]を構えた。(周辺の経緯については前述の&link_anchor(題3){石谷政信系}と重複するので、前述を参照の事。)死後は兄の石谷政信と同様に多摩郡泉村の[[泉竜寺>http://www.senryuji.or.jp/]]に葬られ、[[泉竜寺>http://www.senryuji.or.jp/]]が石谷清定一族代々の墓所となった。
石谷清定(五郎大夫)の子孫は、子の石谷清正の代に合計1,100石を与えられて家の基礎を築いた。大身旗本とまでは言えないが、1100石を越える規模の知行は旗本の中では上位10%近くの立場である。この系統では、石谷清職が、元禄赤穂事件の直後に吉良家を継承し、同事件の不始末を咎められて蟄居した吉良義周(吉良義央の孫)の検死を行い、また後年布衣を許されている。特に高名な人物は出てはいないが、養子縁組等で他の遠江石谷氏との連動が推察される。
石谷清定(五郎大夫)について考察すると、その妻が今川家家臣久嶋與平の娘となっているが、久嶋與平が誰なのかは不明である。ただ、今川家臣の久嶋氏と言えば、後北条家の重臣北条綱成の父で今川氏の家臣であった福島正成(遠江国高天神城城主)と同族であったのではないかと考えられる。遠江国福島氏(久島、九島などの記載もあり)は、高天神城周辺にその勢力を広げていたが、天文5年(1536年)の花倉の乱においては娘婿である玄広恵探側に付き乱を主導し、今川義元側に敗れて衰退した一族である。遠江国石谷氏の本貫地である遠江国佐野郡西郷周辺はやはり高天神城に近く、戦国時代末期に唐突に出てきたかのような石谷氏の戦国時代における立場を推察するべき1つの重要な要素であろう。
***【石谷清定以降略系図(太字が後継者)】
[[石谷政清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷政清]]
↓
[[石谷清定(五郎大夫)>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清定 (戦国武将)]]
↓
石谷清平,野間政次の妻,久嶋權右衛門の妻,&bold(){[[石谷清正>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清正]]},[[石谷貞清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷貞清]]
↓
&bold(){[[石谷清亮>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清亮]]}
↓
高木定清の妻,五味豊旨の妻,&bold(){[[石谷清信>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清信]]},[[石谷清長>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清長]],石谷清宗
↓
&bold(){[[石谷清職>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清職]]},石谷清職の妻,[[石谷清定 (兵四郎)>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清定 (兵四郎)]]&蜂屋貞廷の妻
↓
&bold(){[[石谷清胤>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清胤]]},堀利安の養女,[[石谷清候>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清候]],松平親元の妻
↓
&bold(){[[石谷清候>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清候]]}
↓
&bold(){[[石谷清馨>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清馨]]}
↓
&bold(){[[石谷清憐>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清憐]]}
↓
石谷清英,&bold(){[[石谷清暠>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清暠]]},石谷清英&石谷清暠の妻,女子,女子,女子
↓?
&bold(){[[石谷友之助清倚>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清倚]]}(〈父〉石谷主水と記載あり、清暠→主水→清倚かもしれないし、清暠→(養子)清倚なのかもしれない。)
↓
&bold(){[[石谷帯刀>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷帯刀]]}(石谷主水とも)(血縁関係の記載がバラバラ。清倚の父である主水と混ざっている?)
***[[石谷清定系一族詳細]]
----
#image(九曜.jpg)
**&bold(){&aname(題4.2,option=nolink){4.2.石谷貞清系}}
>&u(){『[[新訂寛政重修諸家譜]]』}
>貞清(さだきよ)
>十蔵 左近将監 従五位下 致仕号土入 石谷五郎大夫清定が三男。母は今川義元の家臣久嶋与平某が女。
>慶長十四年めされて台徳院(秀忠)殿につかへたてまつり、大番に列す。(時に十六歳) 元和元年大阪再陣のとき土岐山城守定義が麾下にありて江戸城の御留守をうけたまはるのところ、貞清頻に供奉せむ事をこふ。執事これをゆるさず。しかれどもなを戦場にのぞまむとのこヽろざしやまず。御出馬の期にをよび歩行にて御あとしたひたてまつりしかば、京師に着御のとき御感ありて黄金三枚をたまふ。すでに合戦にをよぶの時御馬の左右にありて斥候をつとむ。二年正月九日上総国金剛寺村をよひ山邊郡の内にをいて采地三百石を賜ひ、そのヽち御腰物持をつとむ。四年五月相模国愛甲郡の内にして新恩二百石を賜ひ、八年四月台徳院殿日光山にまうでさせたまひ、還御にをよびて宇都宮より御駕をいそがせたまふの時歩行にて供奉す。寛永二年七月二十七日采地の御朱印を賜ふ。九年七月五日御徒の頭となり、十年四月十六日御目付にすヽみ、八月二十六日先に洪水により仰を奉はり、畿内に至り堤の破損を検す。十二月二十六日甲斐国山梨八代二郡のうちにをいて千石を加増あり、すべて千五百石を知行す。十一年大猷院(家光)殿御上洛のとき供奉し、十三年二月二十五日東福門院(秀忠女和子)御不例により京師におもむき、御使をつとむ。六月二十六日あらたに寛永銭を鋳らるヽるにより、仰をうけたまはりて東海道に赴き、近江国坂本にいたる。十四年肥前国嶋原にをいて耶蘇の徒蜂起せるにより十一月九日仰をうけたまはりて、上使板倉内膳正重昌に副てかの地に赴く。十五年正月朔日城攻のとき、賊徒火炮を飛してこれを防ぐがゆへに、諸手討死手負の者多くしてすでに敗走せむとす。これにより重昌とヽもに馬をめぐらして諸卒を指揮すといへども、進みえざりしかばたヾちに驅て塀をのらむとす。この時重昌は銕炮にあたりて死す。貞清よく戦ふといへども、既に槍をきりおられ、甲冑指物も亦破られ其身も創を被りしかば力なく引退く。この日貞清が従士三人討死し、諸手にをいても討死手負ものおほし。これにより其弊に乗じて夜襲あらむもはかりがたしとて貞清創をたへて諸陣を巡見し、不慮を警しめ、細川越中守忠利、松平(黒田)右衛門佐忠之、松平(嶋津)大隅守家久等に、速にその人数をいだして加勢すべきむねこれを達し、かつこの事をよび合戦の次第を江戸に注進す。二月二十七日諸将賊城にせめいり、二十八日貞清板倉主水佑重矩とヽもに城に乗入。この日賊徒盡く平ぎしかば、三月五日彼地を発して歸府しかの甲冑指物等を御覧に備ふ。その後貞清が嶋原表に於てのはからひ御気色違へることあるにより、逼塞せしめらる。十二月晦日ゆるさる。十八年十二月十五日与力十騎、同心五十人をあづけらる。正保二年九月二十三日仰によりて近江国に赴き、水口城を守る。慶安三年閏十月十日さきに洪水により畿内及び近江伊勢等の国々を巡見す。四年六月十八日町奉行に転じ、八月十六日従五位下左近将監に叙任す。萬冶二年正月二十八日職を辞し、七月二十七日致仕す。このとき養老の料廩米六百俵を賜ふ。寛文十二年九月十二日死す。年七十九.法名土入。武蔵国多摩郡泉村の泉龍寺に葬る。後代々葬地とす。妻は板倉内膳正重昌が養女。
石谷貞清は石谷清定(五郎大夫)の3男として生まれ、兄の石谷清正とは別に家を興した。石谷貞清は最終的に江戸北町奉行を務め、従五位下左近将監に任じられ、1,500石もの領地を与えられたのは、戦国動乱の時代から太平の江戸時代にかけて、武官から文官に移り変わる世情の中で、命令違反をしてでも戦地に赴くだけの気概、黎明期の江戸の行政を務める官吏としての能力、浪人達の世話をするような人柄、これらが合わさり、そして血縁関係の幸運に恵まれたからだろう。
戦国末期から江戸初期の石谷氏一族自体には、特に目立った武功の記録は存在しない。しかしながら、血縁関係から江戸幕府譜代大名にして要職を務めた井伊氏の家臣団(小野田小一郎家等)との関連性が垣間見え、また、江戸初期に京都所司代等を務めた板倉氏とは、石谷貞清自身が板倉重昌の養女を妻としている。本貫の地も徳川秀忠の母である西郷局と同郷の遠江国佐野郡西郷であり、従姉妹に当たる石谷政信の娘が西郷局の父方の一族であろう戸塚忠之に嫁いでいたり、前任の江戸北町奉行であった朝倉石見守在重とも安倍七騎での石谷氏との繋がりも見え、実力以外の要素としても、石谷貞清には出世の糸口を掴みやすいであろう幸運が見て取れる。そして、石谷貞清は、元和元年(1615年)の大阪夏の陣では徳川秀忠の側にあって斥候を務め、寛永14年(1637年)の島原の乱では幕府正使である板倉重昌を補佐し、副使としてではあるが大規模な戦闘指揮も経験している。その後も官吏として江戸幕府に仕え、慶安4年(1651年)の由比正雪の乱(慶安の変)や、慶安5年(1652年)の承応の変などでは叛徒の鎮圧に尽力し、明暦3年(1657年)の明暦の大火の後の復興事業においても、江戸北町奉行として行政を担うなど、太平の世に切り替わる時代の重要な舵取りをこなした。
石谷貞清はマイナー武将とは言え、名将言行録などにもその事績が収録されている。子の石谷武清は従五位下長門守に任じられ2,500石を与えられた。孫で喜多見氏に養子に出した喜多見重政は、すぐに取り潰しになったものの喜多見藩主となっている。子孫は石谷澄清が布衣を許されているものの、幕末の石谷穆清に至るまで著名な人物は輩出していない。石谷穆清は因幡守、長門守に任じられ多くの奉行職を歴任した。井伊直弼とは昵懇の間であったと言われ、安政の大獄でも五手掛として罪人の処断に関与している。一方で、文久2年5月(1862年)に一橋家の徳川慶喜が将軍後見職になった後の、文久2年6月5日(1862年)に一橋家家老を務めており、安政の大獄で生じた井伊直弼と一橋家との対立とはまた違う立場に身を置いていたものと推測される。裏付けるように石谷穆清の子である石谷鉄之丞は、一悶着あったようには見えるものの知行をそのまま継承し、安芸守を称して御小姓頭取衆などに名を連ねている。
***【石谷貞清以降略系図(太字が後継者)】
[[石谷政清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷政清]]
↓
[[石谷清定(五郎大夫)>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清定 (戦国武将)]]
↓
[[石谷貞清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷貞清]]
↓
&bold(){[[石谷武清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷武清]]},都筑彌左衛門爲基の妻,本多信賢
↓
&bold(){[[石谷清成>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清成]]},佐野政信の妻,[[喜多見重政>http://ja.wikipedia.org/wiki/喜多見重政]],内藤忠廣の妻,高木爲治の妻,京極高沖の妻,稲垣重治の妻
↓
&bold(){[[石谷榮清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷榮清]]}
↓
&bold(){[[石谷眞清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷眞清]]},徳永頼母昌主の妻
↓
&bold(){[[石谷澄清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷澄清]]},斧之助
↓
&bold(){[[石谷因清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷因清]]},坪内定安の妻
↓
豊吉,榮次郎,&bold(){[[石谷直清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷直清]]},石谷直清の妻
↓
&bold(){[[石谷穆清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷穆清]]}
↓
&bold(){[[石谷鉄之丞公清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷鉄之丞]]}
***[[石谷貞清系一族詳細]]
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&ref(九曜.jpg)&ref(七曜.jpg)
**&bold(){&aname(題5.1,option=nolink){5.1.石谷清重系尾張藩士}}
>&u(){『[[新訂寛政重修諸家譜]]』}
>清重(きよしげ)
>又大夫 子孫尾張家につかふ。
石谷清重は石谷政清の5男として生まれ、『[[名古屋叢書続編 士林泝洄]]』によれば[[徳川秀忠>http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川秀忠]]に従い慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに従軍したが、子の石谷清春の代には浪人し、駿河国安倍郡足久保村に在住していたようである。石谷清春の子である石谷清宣は同族であった[[石谷貞清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷貞清]]に属して寛永14年(1637年)の島原の乱に参戦し、武功があったという。後に[[尾張藩>http://ja.wikipedia.org/wiki/尾張藩]]藩主[[徳川光友>http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川光友]]に召出され200石を賜り、尾張藩[[附家老>http://ja.wikipedia.org/wiki/附家老]]の[[成瀬氏>http://ja.wikipedia.org/wiki/成瀬氏]]の同心として配された。この系統は石谷清章の代に2家に分かれ、『[[藩士名寄]]』に見える限りでは、一家が250石、一家が最大で切米140俵を賜っていたようである。また、武勇に優れたところがあったのか常心流馬術や指矢前などで褒賞を賜った記載が『[[藩士名寄]]』にある。
後述するが、この石谷清重の系統は駿河国の伝承に残る『安倍七騎』の石谷氏と強い関係性が推測される。『安倍七騎』の石谷氏は駿河国安倍郡足久保村を拠点としており、資料の拠っては『石谷弥兵衛』の名前が安倍七騎の1つに挙げられているが、この2点を『[[藩士名寄]]』と言う尾張藩の公文書によって満たしており、且つ石谷清重自体が徳川秀忠に仕えて幕臣になっていた記載もまた『[[名古屋叢書続編 士林泝洄]]』 に拠って満たすのである。本稿において、この点は後述の推論他で特記するべき掲題と言えよう。
***【石谷清重以降略系図(太字が後継者)】
(尾張藩士250石)
[[石谷政清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷政清]]
↓
[[石谷清重>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清重]]
↓
石谷清春
↓
&bold(){石谷清宣}
↓
&bold(){石谷清紹} ,石谷清光
↓
&bold(){石谷清章} ,加藤貞四郎の妻
↓
&bold(){石谷清行} ,石谷清生 ,清賀(西郷又吉) ,元政(石谷鍋四郎)
↓
&bold(){石谷又十郎}
↓
&bold(){石谷庄五郎} ,石谷孫三郎
↓
&bold(){石谷又三郎}
↓
(尾張藩士300石)
&bold(){石谷弥兵衛}
↓
&bold(){石谷十左衛門}(石ヶ谷家系図に石谷弥兵衛清勝の子、十左衛門清房が存在する。但し士林泝洄に拠れば清勝の父清春も弥兵衛を名乗っており、石ヶ谷家系図では清春の子が清勝(弥兵衛)、清宜(清宣の事か)、清時(又兵衛)、清村(金五郎)とあるため、その誰かである可能性もある。)
↓
(以下不明)
(尾張藩士140俵)
石谷政清
↓
石谷清重
↓
石谷清春
↓
&bold(){石谷清宣}
↓
&bold(){石谷清紹} ,石谷清光
↓
&bold(){石谷清章} ,加藤貞四郎の妻
↓
石谷清行 ,&bold(){石谷清生} ,清賀(西郷又吉) ,元政(石谷鍋四郎)
↓
&bold(){石谷繁八}
↓
&bold(){石谷喜太郎}
↓
***[[石谷清重系一族詳細]]
----
&ref(九曜.jpg)&ref(丸に九曜.jpg)&ref(土佐柏.jpg)&ref(丸に土佐柏.jpg)
**&bold(){&aname(題5.2,option=nolink){5.2.石谷清重系石ヶ谷氏}}
>&u(){『[[新訂寛政重修諸家譜]]』}
>清重(きよしげ)
>又大夫 子孫尾張家につかふ。
>
>&u(){『[[袖師町誌]]』の記述}
>石ヶ谷家家系図(石ヶ谷五郎造蔵)
>嶺の石ヶ谷五郎造家に石ヶ谷一族の系図がある。近世に古い系図から書き写したものと思われる。天児屋根命から藤原不比等を経て遠江権介為憲に至り、その子孫にあたる西郷太郎太夫行清が、遠州佐野郡西郷、五谷、五明にて千六百貫の知行を領し、その孫石ヶ谷十郎左衛門政清より代々石ヶ谷を姓とした。その長男は石ヶ谷十助清道と言い、幕府御書院御番をつとめ七百石を領した。政清の三男清重は海野又太夫と称し五百石御書院御番をつとめたが、病身の故をもって駿州足久保に退去した。その孫弥兵衛清勝は正徳六年二月八日没し(法名禅得現清信士)、清勝の次男清升は朽木周防守(六千石旗本)の家臣となり百石を領したが、病を得て駿州に退去し、その子孫が現在の石ヶ谷五郎造であり、当町の石ヶ谷一族はみなその血統であると誌されている。
『[[袖師町誌]]』に拠ると、石谷清重は石谷政清の3男として生まれ、いつの頃からか海野又太夫と称して御書院番を勤め500石を賜ったとされている。但し、この『袖師町誌』というのは、聊か記載の間違い、疑問、混乱が散見される『[[石ヶ谷家家系図]]』の記載等を元に作成されたであろう事を考慮しなければならないだろう。石谷清重の兄、石谷政信が200石、石谷清定が250石を賜っていた『[[新訂寛政重修諸家譜]]』の記載と比べると、石谷清重の賜った所領に差が大きい事や、尾張藩の記録である『[[名古屋叢書続編 士林泝洄]]』や『[[藩士名寄]]』には海野氏を称していたと言う記載は無い事などが疑問点として残る。ただ、この『[[石ヶ谷家家系図]]』は、幕府の記録を元に作成したのかというと、旗本家の記載部分において明らかに間違い(人物名や石高、役職など)が多過ぎてその可能性は低く、尾張藩の記録を基にしたかと考えてもまた、石谷清宜(石谷清宣)までしか記載が無くその可能性は低い。『[[石ヶ谷家家系図]]』を有する石ヶ谷五郎造の一族については、寛文7年10月7日(1667年) 死没の人物として、石谷清重から4代目に当たる石谷清升(松室桂岩居士)が系図に記載されており、過去帳、立地、経緯等から考えても1600年代から同地に居住し続ける一族である事には間違いが無い。従って、『[[袖師町誌]]』に記載される石ヶ谷五郎造の一族は、恐らく1600年代に分岐した遠江石谷氏一族の1つであり、駿河国安倍郡足久保村に残った石谷清重の一族の系譜を引いているものと推定される。
先に述べた尾張藩の石谷氏、安倍郡足久保村の石谷氏、袖師町の石ヶ谷氏については、駿河国地方で伝承される安倍七騎に関する石谷氏との関連性が見受けられる。安倍七騎とは駿河国安倍川周辺において勢力を持ち、戦国時代には今川氏、徳川氏、武田氏などの勢力争いの中で活躍した武士団と伝承されるが、この中には安倍郡足久保村の石谷氏が数えられている。安倍七騎の石谷氏は『[[駿河国風土記]]』や『[[駿河国安倍七騎姓名覚>http://www44.atwiki.jp/eos-gin/pages/50.html]]』に拠れば石谷重郎左衛門や石谷弥兵衛と記録されており、『[[袖師町誌]]』の石ヶ谷十郎左衛門政清や、弥兵衛清勝、『[[名古屋叢書続編 士林泝洄]]』の駿州足久保邑浪人石谷弥兵衛清春などの記載と共通点が見て取れる。遠江国の石谷氏がいつの頃から駿河国の足久保村に拠点を持ったかは定かで無いが、駿河今川氏の家臣時代に得た飛地か替地、同じく安倍七騎に数えられる駿河海野氏の支族と姻戚関係にでもなった時の海野氏支族の所領であろうか。
元亀2年3月10日(1571年)に石谷氏が徳川氏に仕えた時点で父の石谷政清(文亀3年(1503年)生誕)は68歳であり、判明している兄の石谷清定(天文16年(1547年)生誕)の年齢を考えると、石谷清重は当時24歳未満である。年齢面から考えると、元亀2年2月(1571年)の武田信玄による遠江国侵攻に際して、石谷政清を中心として安倍七騎の伝承の通りに遠江石谷氏が戦った事も考えられ年齢ではあるが、石谷政清は天正2年4月15日(1574年)に死没しているため、以降は息子のいずれかが引継いだのであろうか。後に旗本になった石谷政信や石谷清定については、幕府史料の『[[新訂寛政重修諸家譜]]』等にも安倍七騎などで活躍したような記載は無く、遠江国の本貫地に残っていたようにも思われるが、長男の入澤五右衛門行重(安倍七騎に数えられる石谷五左衛門か?)については武田方に付いており、石谷清重の子孫が石谷弥兵衛を称している事から、この両名辺りの行動がその伝承に伝えられているのでは無いだろうか。
石ヶ谷五郎造の家系は五郎造の子の代に家紋を九曜紋から土佐柏(別に持っていた紋らしい)に変えており、墓所を瑞祥山龍雲院として系図も現存したため、それを元にして下記に略系図を記載した。しかし、袖師の石ヶ谷氏については、系図上は石谷清重の子孫になっているが、過去帳と系図、伝承の年代がいまいち符合しない。過去帳や『[[石ヶ谷家家系図]]』、『[[名古屋叢書続編 士林泝洄]]』、に拠れば、寛文7年(1667年)に石谷清升(五郎兵衛の父 、松室桂岩居士)死没の記載があるが、一方で、その父とされる石谷弥兵衛清勝(禅得現清信士)の死没は正徳6年(1716年)となっており、祖父である石谷弥兵衛清春の死没も万冶3年(1660年)となっており、よほど若死にしたのであれば無い事も無いが、という内容である。ただそうなってくると、『[[石ヶ谷家家系図]]』における『依為嫡孫養子 名字相続為』という記載の後、不詳と続いて西郷左衛門、五郎兵衛、源八の添書きがある点、果たして孫がいる年齢であったのか、と言う疑問が存在する。その後も女子と続いている点などから複合して類推するに、この一族は元々が富農(聞いている戦前の規模から)であったのか、分家であったのかはわからないが、安倍郡足久保村の石谷氏の一族から石谷清升を養子とし、その前後で断絶の危機があったため系図に混乱が発生しているのであろう。武田家の拠点である江尻城に比較的近い東海道沿いに屋敷がある事や、『五』が通字であった事から、或いは武田に仕えた入澤五右衛門の系統であったのかもしれない。入沢五右衛門については推論にて後述する。
***【石谷清重以降略系図(太字が後継者)】
[[石谷政清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷政清]]
↓
石谷政信 ,石谷清定 ,&bold(){[[石谷清重>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清重]]} ,清吉(紀州徳川家書院番) ,高天神城城主小笠原与八郎の妻 ,清宗(入沢五右ェ門) ,呑説
↓
&bold(){石谷清春} ,女子
↓
&bold(){石谷清勝} ,石谷清宜 ,清時 ,清村
↓
&bold(){石谷清升(松室桂岩居士・五郎兵衛の父)?}
↓
&bold(){詳細不明(西郷左衛門、五郎兵衛、源八)?}
↓
&bold(){女子(五良兵衛)}
↓
&bold(){石ヶ谷五郎八}
↓
&bold(){石ヶ谷五郎七}
↓
&bold(){石ヶ谷五郎作}
↓
&bold(){石ヶ谷五郎造}
↓
***[[石谷清重系一族詳細]]
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&ref(石餅九曜.jpg)&ref(追沢瀉.jpg)
**&bold(){&aname(題6,option=nolink){6.桑原政重系}}
>&u(){『[[新訂寛政重修諸家譜]]』}
>石谷
>政重紀伊家に仕へし時より、故ありて桑原を称し、清全にいたりて石谷に復す。
>
>政重(まさしげ)
>權左衛門 次郎左衛門 石谷十郎右衛門政清が六男。
>越後少将忠輝朝臣につかへ、其のち紀伊大納言頼宜卿に仕へ、長清にいたるまで代々紀伊家につかふ。
桑原政重は、石谷政清の6男として生まれたと推定されるが、生没年を含めて詳細は不明である。『新訂寛政重修諸家譜』に拠れば、桑原政重は松平忠輝に仕えた後、徳川頼宣に仕えたとされる。また、子孫は桑原長清に至るまで代々紀州徳川家に仕えたとされるが、やはり詳細は不明である。
5代目の清全(紀州徳川家家臣岡本作之丞の息子)は、桑原家の娘を妻にし桑原家に養子に入り、後の徳川吉宗に仕えた。徳川吉宗が将軍になるとこれに従い旗本となり、後に石谷氏に名字を改めている。清全とその息子である清昌は、徳川吉宗に旗本に引上げられ、500石を与えられ従五位の官位を与えられる程、破格とも抜擢を受け重用されている。石谷氏に復姓した事については、江戸北町奉行の石谷左近将監貞清などを輩出し、2500石の大身級の一族も居る遠江石谷氏一族として、その系譜を飾る目的があったのではないかと推測される。紀州家出身の徳川吉宗としても、実力はあっても無名の旧紀州藩士重用で政治的軋轢を生むよりは、既に著名であった旗本一族の重用の形を取る方が好ましかったのかも知れない。石谷氏側としても、徳川吉宗と縁のあった桑原政重系の一族と繋がる事で立場上、充分な利益があったと推測される。
此の桑原系石谷氏については紀州藩士時代の経歴が不明であり、石谷清昌などの寛政譜の記載を見ると、祖とする石谷政清以来の血が絶えている可能性がある。石谷清昌の父である清全は石谷氏(桑原氏)の娘を妻にしているが、後に紀州徳川家家臣海野治部右衛門の娘を後妻としている。そして、寛政譜での石谷清昌の母の欄は、海野治部右衛門の娘とされている。義母を母として記載しただけなのかも知れないが、記載通りに読むならば実母が海野治部右衛門の娘となる。この海野氏は、紀州徳川家に仕えた安倍七騎の一つ、駿河国安倍郡井川村の駿河海野氏の一族である可能性がある。駿河海野氏も石谷氏も駿河国安倍郡内勢力を持ち安倍七騎の1つに数えられた一党である事に加えて、遠江石谷氏の祖である石谷政清の息子の石谷清重や子の石谷清春は海野氏を称したとの伝承が袖師石ヶ谷家の系図に残っている。此れ等から考えれば、海野治部右衛門の娘に遠江石谷氏の血が何らかの形で混じっている可能性はあるが、実際に血が繋がっているか否かの事実確認ができる資料を筆者は持っていない。
繰り返すが、石谷政清の子、桑原政重の子孫である桑原長清の娘婿である桑原清全は紀州徳川家で徳川吉宗に仕えていたが、徳川吉宗が将軍となった際に御家人としてこれに従った。相当の才能があったのであろうが、500石を与えられて重用を受け、元文4年に従五位下豊前守を与えられ、この際に石谷氏に復姓している。石谷氏に復姓した理由は、遠江石谷氏との繋がりを強調し既存の旗本家と融合する事で、紀州藩出身者と既存旗本衆との摩擦を避けるためであろうか。その子である石谷清昌は石谷氏の中でも有名である。母が紀州藩の海野氏であるため駿河海野氏との関連も考えられるが、石谷氏の血を引いているか不明である。石谷清昌は、若くして抜擢され、元文5年に僅か27歳で従五位下備前守に叙任されている。前年に父の清全が叙任を受けたばかりであり且つ現役のままであるから、異例とも言える人事であろうか。田沼時代には勘定奉行、佐渡奉行、長崎奉行などを歴任し、田沼意次の経済政策の中で非常に重要な役割を果たしている。後、加増を受けて800石を領有したという。その子である石谷清定 (豊前守)は従五位下豊前守に任じられ、娘を上総国佐貫藩藩主の阿部正簡に嫁がせている。石谷清定 (豊前守)の跡は田沼意次の弟である田沼意誠の子、石谷清豊が娘婿となり継いだ。なお、石谷清豊も従五位下周防守に任じられている。以降は正式な任官か不明であるが、子である石谷清香が淡路守、石谷左内が讃岐守を称している様子である。この桑原政重の系統は閨閥を巧く利用し、破格とも言える出世を果たした事が特徴と言えるであろう。
***【桑原政重以降略系図(太字が後継者)】
[[石谷政清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷政清]]
↓
[[桑原政重>http://ja.wikipedia.org/wiki/桑原政重]]
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&bold(){桑原清氏}
↓
&bold(){桑原時清}
↓
&bold(){桑原長清}
↓
&bold(){[[石谷清全>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清全]]},石谷清全の妻
↓
&bold(){[[石谷清昌>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清昌]]},高井信房の妻,亀井清永
↓
多門,&bold(){[[石谷清定 (豊前守)>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清定 (豊前守)]]},磯野政典の妻,[[石谷因清>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷因清]]の妻,菅沼虎常の娘
↓
&bold(){[[石谷清豊>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清豊]]},石谷清豊の妻,[[阿部正簡>http://ja.wikipedia.org/wiki/阿部正簡]]の妻,亀井清亮の娘,石谷十作,女子
↓
&bold(){[[石谷清香>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷清香]]},女子,直三郎,直五郎
↓?
&bold(){[[石谷左内>http://ja.wikipedia.org/wiki/石谷左内]]} ※清豊の子。直三郎か直五郎か別の子か、養子かは不明
↓
&bold(){石谷金之丞}
***[[桑原政重系一族詳細]]
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#image(九曜.jpg)
**&bold(){&aname(題7,option=nolink){7.石谷氏傍系石田氏}}
>&u(){『[[掛川市誌]]』}
> 八、西郷地区
> 西郷の石ヶ谷 掛川北在二十町程隔て西郷村と言う村の内に石ヶ谷と云処有り。小高き所に御紋石と云亦名字石とも云名あり。石数九ッ有り何れも一々名目有て其の村の土民言ひはやす事なり。所謂兜石、烏帽子石、目付石、碁盤石、御先石、御供石 此両石二ッ宛有 丸石 此の石一ッ一ッ一町程離れ西の人の屋敷の裏に有 都合九ッ有り。九曜の紋所に擬したり。此の石の今存在せし其の由来を尋ぬるに由緒あり住古此処に郷士住けり。其の名を石ヶ谷将監と号す。其の子孫断絶せずして今に西郷村に代々村の庄屋となりて住す。名を石田平八と云ふ、先祖石ヶ谷将監の霊を祭り霊永大明神と号し屋敷の入口の左の方に宮を建て前に華表有り。抑も此石ヶ谷殿の系図は八幡太郎義家の末葉にして今に江戸表に旗本に有り。名を石谷重蔵と言う(二千五百石)。則石谷重蔵より平八二人扶持貰うて住居す代々九曜の紋を付る故に御紋と云所を石ヶ谷と云。此の先祖石谷将監は神君御存在の時軍功有りし人也。天正二年四月十五日卒す。右石ヶ谷の御紋石の有土地は陰地にして古木生茂り誠に古跡と見ゆる也。前に沢川有て小流有。此処屋敷にて庭の居石を堀出して積置く物ならんと俚人の談に言ひならはす。石田平八の云、此所に住古平八先祖の屋敷ありけるを今の屋敷へ引越し住す由と云。将監殿より拝領の石と云ふ。此の石の脇に桜の大木有て満花の躰至って気色好有之よし。今は其の桜枯てなし。杉の木柿の木二本前に掩ひて生茂り極日蔭の陰地なれば石も苔むして滑かなり。人の住還する道側に有。昔は石ヶ谷平八と申しけれども今は石田平八と云古き家柄の百姓也、石の姓は活石に非ず。子持石にして黒石也。丸石は半分埋れたり。(遠江古跡図絵)
>&u(){『[[ふるさと探訪]] 掛川の古城址』}
> 霊栄大明神
> 中島の平八と云ものの居る所は石谷十蔵の故宅にして、其の先營(せんえい)に七基の碑ありしが正徳三年にあつめて一丘となし、祠を建て霊栄大明神と云、爾来石谷氏より年々扶持米などを贈りて其の祠を守らしむ。
西郷地区にあり、石谷政清、清定、貞清などの霊を奉る霊栄大明神を管理している石田家は、遠江石谷家の傍流と伝えられる。石田家に伝わる伝承によると、石谷政清の叔父に石田左衛門尉行俊が存在する。この行俊が中島に居住し、その子孫が後に中島の石田平八として続いたとの事である。但し、同家は菩提寺が焼失したことに加えて、過去帳には当時の事が記載されておらず戒名没年記載のみであるとの事で、その詳細は不明である。また、同家は旗本石谷家との関係が深く、後年には武清、榮清、眞清、澄清の霊も祀られており、榮清、眞清、澄清については石田家の墓地に埋葬されていると伝えられる。
この系統の通字は『八』であるが、西郷荘の山科家地頭代であったと思われる石谷氏の一族と推定される者もまた、西郷八郎と『八』の字を称している。しかし西郷八郎の名を称する石谷氏は幕府資料等に存在しないため、その存在が不明瞭であったが、この西郷地域に存在する石田平八の家系こそが本来の西郷八郎の家系であり、血縁によって石谷家に吸収されたか、または分派されて今に至るのではないだろうか。あくまでも状況に基づく推測の域を得ないが、武士をやめて本貫を維持するために残った家系が地頭代であった西郷八郎系の石田家、徳川家について転封に従った家系が旗本石谷家と考えれば、前述のような可能性も推測し得るであろう。
***【石田氏略系図(傍系省略)】
西郷行清
↓
石田左衛門尉行俊
↓
数代不詳
↓
&bold(){心清宗無居士}
↓
&bold(){縄安宗規居士}
↓
&bold(){尽安源空居士}
↓
&bold(){提節好全居士}
↓
&bold(){平八(無限大頂居士)}
↓
&bold(){普相陽天居士}
↓
&bold(){良山自休居士}
↓
&bold(){平八(浙江廬山居士)}
↓
&bold(){平八郎(古心本達居士)}
↓
&bold(){平八(南岳栄寺居士)}
↓
&bold(){平八郎勝富(真操義観居士)}
↓
&bold(){幸八郎(浄心軒真實義観居士)}
↓
&bold(){嘉源次(永昌軒真光明観居士)}
↓
&bold(){重蔵(普照軒大観重心居士)}
↓
&bold(){平八朗(広照軒禅應平観居士)}
↓
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**&bold(){&aname(題8,option=nolink){8.美人ヶ谷城&滝ノ谷城}}
[[美人ヶ谷城&滝ノ谷城のGoogle Map>http://g.co/maps/2sgzq]]
>『[[ふるさと探訪]] 掛川の古城址』 より抜粋
#ref(http://www44.atwiki.jp/eos-gin?cmd=upload&act=open&pageid=31&file=%E7%BE%8E%E4%BA%BA%E3%83%B6%E8%B0%B7%E5%9F%8E%E2%91%A1.png)
美人谷城について考察する時、筆者は縄張に関する知識が無いためこの面から論考する事が出来ない。また、此の城は石谷氏に関連するであろうと、口伝などを元にした推定がされているが、現時点で遠江石谷氏が此の城を有していたと確定し得る1次資料も2次資料も筆者は知らない。今の所、此の城が記録される当時の史料は無いようである。
此の城の規模について考えた時に、一介の土豪の屋敷と言うには立地に優れ規模も小さくはないと考えられるが、西郷荘の地頭代の屋敷跡と考えれば、さほどおかしい規模でも無いだろうか。
此の城跡の位置は、現在の山本神社(静岡県掛川市上西郷3918)の背後の山の部分である。この場所は、現在の掛川城から北に約4km程、現在の静岡県道39号線掛川川根線に沿って真っすぐ北上して平野部と山間部の境界付近に存在している。この静岡県道39号線が当時どうだったのかは不明であるが、掛川から川根方面に向かって山裾を縫っていくような道であるから、かつても何らかの通路があった可能性が考えられる。また、此の城跡から静岡県道39号線を500m弱下った所では静岡県道81号線と交差し、この道をしばらく西側に行くと秋葉街道と公差して行く。また、掛川城周辺では東海道と交差する道である。此の城の位置というのは掛川城周辺の平野部を北から抑える位置に存在し、此の平野部を掛川城を含めて一望できる場所に存在している。加えて、此の城の平野側には、現在、まるで水堀かのように倉真川が流れている。即ち、この城の位置は、地形的にも物流的にも掛川を抑えるための要衝に当ると考えられよう。
次に当時の村落状況であるが、この西郷地域は西郷荘が置かれただけあり、後年の石高を見た場合豊かな農作地帯であったと考えられる。『掛川誌稿』より古く、1789年頃に成立したと考えられる『遠江国風土記伝』に拠れば、西郷には村が3つあり、南西郷463石7斗5升2合、北西郷453石6斗、上西郷1677石9斗2升との記載がある。また、『掛川誌稿』の時代には、上西郷だけで2115石6斗3升2合、人口1618人を有していたようである。当時の遠江国は戦乱が続いており、平和な時代の生産量より当然劣ってくるとしても、美人谷城の存在する上西郷においては、相応の穀物生産と人口を有していたと考えられよう。
また、この城の位置の戦略的意味を考えた場合、現在の掛川城を遠望できる、と言う問題がある。当時の掛川城と現在の掛川城は異なるが、場所的にはほぼ同じである。今川時代の掛川城は重臣の朝比奈氏を配置し、今川氏真が武田氏に攻め込まれた際に、本拠の駿府館を捨てて入城した城である。掛川城と美人谷城を相対的に考えた場合、掛川城を北部で守るための衛星的な城砦であるか、掛川城を抑えるための城砦であるか、掛川城を攻略する為の城砦として機能するものである。
以上のように、この城が石谷氏の有していた城かは定かではないが、位置的には非常に重要な場所である事は確かであろう。尚、此の城に非常に近接して滝ノ谷城跡が存在している。位置的には美人谷城に何らかの関係のある城と考えられるが、美人谷城以上にその内容は不明である。
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**&bold(){&aname(題9,option=nolink){9.推論}}
&u(){&bold(){&aname(題9.1,option=nolink){9.1.遠江石谷氏と土岐石谷氏}}}
>&u(){『[[掛川誌稿]]』内の記事}
>西郷村石谷氏古墟 按ニ天文五年、義輝将軍御元服ノ時、御供衆ニ石谷兵部大輔光政ト云人アリ、又永祿六年諸役人附ニハ、外様衆石谷孫九郎頼辰、御小袖御番衆石谷兵部大輔光政トアリ、此二人ハ父子ナルカ、共ニ遠江國ノ人ト見エタリ、石谷氏西郷ノ石谷ニ住シテ、数世傅ヘタリト見ユレハ、其古墟モ一所ニテハアルヘカラス、
『[[掛川誌稿]]』内にはこのような記載はあるが然るべき論拠は一切無く、単に『石谷』という名字から関連付けただけの内容と思われる。そもそも遠江石谷氏は藤原南家為憲流二階堂氏を自ら称しており、土岐石谷氏は清和源氏頼光流土岐氏を称している為、関連性は見当たらない。また、伝承が確かであれば、
>&u(){『[[寛永諸家系図伝]]』}
>石谷(いしがや)
>家伝にいはく、もとは二階堂と号す、大織冠(藤原鎌足)十一代遠江守爲憲の後胤なり、政清遠江国石谷村に住す、村の西南に大岩石あり、其岩側に八幡の庿あり、是村の氏神なり、政清氏神のましますところを崇、このゆへに二階堂をあらためて石谷と称す。
上記の通り、幕府の公文書とも言える『[[寛永諸家系図伝]]』中において、遠江石谷氏は文亀3年(1503年)生まれの石谷政清の居住地に由来する改姓を苗字の始まりとしているため、土岐石谷氏の発生よりはるかに後代になって発生した氏族である事が明白になっている。従って、遠江石谷氏と土岐石谷氏は無関係であると考える方が妥当であろう。
&u(){&bold(){&aname(題9.2,option=nolink){9.2.石谷氏に関する二階堂美啓と二階堂氏}}}
>&u(){『[[[掛川市誌]]』内の記事}
>二階堂美啓 鎌倉将軍頼朝より五代源頼嗣の落城の節三家の侍、二階堂民部大夫美啓は御用側人戸塚平内左衛門辰信と同道流浪致した。この時正嘉元年三月十日遠江国遠江国佐野郡掛川在上西郷村に落着き、美啓は六十一才老年に及び仏法に帰依し、持合せの金子もあったから、庄屋右京の取持により堂を建立、出家剃髪して庵主となり二階堂と名付けた。
石谷氏の先祖とも言われる人物に、正嘉元年3月10日(1257年)に遠江国佐野郡西郷荘に土着したとされる二階堂美啓が居る。しかしながら、俗に言われる石谷氏の直接の先祖とするには懐疑的である。少なくとも『寛永諸家系図伝』には二階堂美啓に関する記載は一切無く、直接的な繋がりは見受けられない。ただし、二階堂氏の祖である二階堂行政以前にも二階堂氏の祖、藤原南家為憲流の一族が累代遠江守等に任じられてその支族が遠江国に広く分布している事や、二階堂氏自体も遠江国榛原郡相良荘を有して遠江国周辺に縁があるため、この頃に二階堂氏の支族の誰かが遠江の地盤を固めるため、或いは隠棲するために遠江国佐野郡掛川在上西郷村に土着する事は充分あり得る事だろう。ちなみに奥州の須賀川二階堂氏の祖とされる二階堂為氏(嘉吉3年(1443年)頃、家督相続?)は遠江守を称したととも言われ、その須賀川二階堂氏の家臣である遠藤氏や相良氏などは遠江国に由来する氏族であると言われる。そしてその奥州には泉田氏があり、泉田氏の先祖は二階堂貞宗の嫡男で二階堂因幡守行秋(法名:道欽、応永元年(1394年)死没)と伝えられる。石谷氏の先祖で、応永25年(1418年)生まれの二階堂行晴の養父にするには些か年代が合わないが、二階堂因幡守行秋について類似している内容があり、何らかの繋がりを推測させるものである。
&u(){&bold(){&aname(題9.3,option=nolink){9.3.遠江西郷氏と三河西郷氏}}}
石谷氏は二階堂氏の支族であると伝承がある中で、西郷氏の血脈も引いていると伝えられるが、近年ではこの遠江西郷氏は三河西郷氏とは出自を別とするとも言われている。遠江西郷氏は三河西郷氏の支族であるとの説が『掛川誌稿』などの記述を元に唱えられてはいる場合もあるが、これらは三河西郷氏の血を引く西郷局が石谷氏と同じ地域の生まれであるという事や、三河西郷氏が遠江国に近い三河国に存在したという以外に、拠るべき論拠が無い。『[[ふるさと探訪]]』に拠れば、西郷荘の成立時期と、三河の西郷氏が遠江国(榛原郡)に所領を得たとされる時期は以下の通りである。
>&u(){『[[ふるさと探訪]]』内の記事}
> 西郷の地名については次の文書によって、三河西郷氏の来住説も否定されるであろう。
>
> 足利尊氏下文冩
> 下 富樫介高家
> 可令早領知・加賀國守護職
> 竝遠江國西郷庄・小櫟孫四郎・同弥次郎
> 中原弥次郎跡
> 信濃源志介跡
> 事
> 右人為勲功之賞 所充行也 者、守
> 先例可致沙汰状 如件
> 建武二年九月二十七日
>
> 右の文章によって西郷庄が建武の頃すでに成立していたことが立証される。
>&u(){『[[ふるさと探訪]]』内の記事}
> 三河の西郷氏が遠江に所領地を持って関係するのは榛原郡に替地を賜ったことを知る次の文書に確認される永禄末期である。
>
> 替地宛行状
> 為河邊替地遠州之内七百貫文遣置上者、永不可有相違者也、仍如件
> 永禄十二年(巳己)年
> 三月二日 家康 (花押)
> 西郷左衛門佐殿
>
> 以上によって三河の西郷氏の中世における上西郷土着説は極めて信憑性も乏しく、戸塚忠春の女とする西郷局に関する事跡が『山科家禮記』に見る西郷氏を、三河の西郷氏に結び付けて異なった所伝に育成されたとみるべきである。
そして、そもそも石谷氏自体が以下の内容により三河西郷氏との関連性を否定している。1つ目に『[[寛永諸家系図伝]]』に関する記述である。この『[[寛永諸家系図伝]]』は江戸時代初期のものであり、その信憑性はともかくとして、『[[寛政重修諸家譜]]』よりは誇張が少なく古い家伝における系譜を伝えていると言われている。この中では石谷政清が西郷氏を称したかどうかも明確ではなく、この一族は元来二階堂氏を称していたと記載されている。三河西郷氏と自ら関連付けているのであれば、敢えて藤原南家為憲流二階堂氏を称する必要性は無く、藤原北家隆家流西郷氏を称するべきであろう。しかも、遠江国に藤原南家為憲流の支族は多いと言っても、二階堂氏を称する武家はほとんど見ない。2つ目に、『[[寛政重修諸家譜]]』における伝承であるが、西郷氏支族であった西郷局の呼称に憚って、その名字を西郷から石谷に変えたとある。この説自体は石谷政清が石谷氏を称した時期と西郷局が徳川家康に仕えた年代が合わないので、後世の追従表現か何かだと思われるが、同族であれば敢えて三河西郷氏との関連を否定する意味が無い。
>『[[寛永諸家系図伝]]』
>石谷(いしがや)
>家伝にいはく、もとは二階堂と号す、大織冠(藤原鎌足)十一代遠江守爲憲の後胤なり、政清遠江国石谷村に住す、村の西南に大岩石あり、其岩側に八幡の庿あり、是村の氏神なり、政清氏神のましますところを崇、このゆへに二階堂をあらためて石谷と称す。
>
>『[[新訂寛政重修諸家譜]]』内の記事
>今の呈譜に代々遠江国佐野郡西鄕の庄に居住せしにより、行清がときあらためて西鄕と称し、政清めされて東照宮に奉仕するにをよび、西鄕の局の称呼を諱て石谷にあらたむといふ。
三河西郷氏の血族である西郷局は、二代将軍徳川秀忠の生母であり、加えて、西郷局の生まれ故郷は石谷氏の本貫である遠江国佐野郡西郷地域で、石谷氏の館跡と西郷局の生家跡は徒歩でいくらもしない場所にある。その状況にありながら、敢えて同族ではないことを強調しているかのようなこの一文を考えれば、後世の第三者が遠江西郷氏と三河西郷氏を結びつける事は非常に疑問であると言わざるを得ないだろう。
一方で、三河西郷氏の支族かどうかは別として肥前西郷氏支族として検討するとする場合、西郷行清が西郷氏の祖である西郷太郎政隆の名を想像し得る西郷太郎太夫を称している点や、石谷氏(西郷氏)の居城跡とも言われる美人谷城の東隣にある倉真城の松浦氏が九州探題の今川了俊に付き従って来たと思われる氏族である点、遠江国佐野郡西郷の地名は別としても考慮するべきであろうか。
&u(){&bold(){&aname(題9.4,option=nolink){9.4.二階堂氏と遠江西郷氏}}}
石谷政清の先祖となる西郷民部少輔という人物が何者であるか、肯定し得る資料は残っておらず、推測の域を出ない。少なくともこの遠江国佐野郡西郷地域には西郷庄があり、山科家の地頭代と思われる西郷八郎の名前や、遠江三十六人衆に数えられた西郷氏、またあるいは伊勢長氏の侵攻に従った西郷氏などの名前が見受けられる、という程度である。従って、この西郷氏が二階堂氏支族であるかどうかは判別の付かないところである。
しかしながら、1点考えるべきであろう事がある。遠江西郷氏における西郷の呼称が氏族を表すものではなく、『西郷庄の』という、便宜的に用いる『家号』の場合である。付近で言えば、倉真村の松浦氏のように元々の氏族名を呼称する事もあるが、堀越郷の堀越氏が今川氏支族であったり、孕石村の孕石氏が原氏の支族であるように、西郷という地名を以って西郷を称している場合、二階堂氏支族であったとしてもなんらおかしい事は無いであろう。そう考えれば、石谷氏の祖が二階堂を称したり西郷を称したりしたところで、二階堂氏のまま西郷という家号を便宜上用いたか用いていないかの問題でしかない。
&u(){&bold(){&aname(題9.5,option=nolink){9.5.石谷氏の祖が二階堂と西郷を複雑に称した理由の推測}}}
石谷氏が二階堂と西郷を複雑に称した理由について、状況証拠的に考えられる事が何点かある。
1つ目は永享乱(1438年~1439年)である。永享乱において二階堂氏族の多くが足利持氏側に付き、当時の遠江国守護の斯波氏や、駿河国守護の今川氏と敵対関係に合った時期、関東の戦乱に駿河国・遠江国周辺の国人が多く参戦している。この時期に、仮にも二階堂氏の支族の伝承を持つ石谷氏の先祖が、何もせず巻き込まれなかったとは考え難い。石谷政清の先祖が、二階堂から西郷にその名乗りを変えていた時期はちょうどこの戦乱の後(二階堂行晴:1418年生誕 ⇒ 西郷行清:1446年生誕)である。敗戦した二階堂氏を称することに抵抗があったのだろうか。
2つ目には駿河今川氏との関係である。石谷政清が生まれる少し以前(1497年頃)には、掛川周辺の諸城が伊勢長氏率いる今川勢に落とされて平定されている。そしてその一族は、この戦乱以後に生まれた石谷政清からまた名字を変更している(二階堂清長:1473年生誕 ⇒ 石谷政清:1503年生誕)点から、当初、遠江西郷氏と駿河今川氏とは敵対関係にあったのではないかという事が考えられるのではないだろうか。元来遠江は斯波氏の勢力圏であったし、加えて佐野郡西郷の周辺は勝間田氏、戸塚氏など、同時代において今川氏に対抗した勢力の勢力圏内である。この時代(1494年~1497年)の遠江西郷氏・二階堂氏がどれ程の勢力を有していたかは定かではないが、彼らだけ親駿河今川派と言う事は考えがたい。また地形的に見ても、掛川城北部4km程の掛川城を見下ろせる場所という要衝付近に存在しながら、石谷政清(1503年生誕)に至るまでこの一党に関してほとんど記述がないどころか、既に掛川周辺が駿河今川氏に平定されてからずいぶん経った後であろう石谷政清の代になってから、今川氏に西郷十八士の長([[干城録]])として仕えたという伝承が非常に疑問である。当時の掛川城が現在の改修を受けた掛川城とは異なるとは言っても、重臣の朝比奈氏を配置して、また駿河今川氏が大名として最後の戦いを受けた城の周辺である。最初から駿河今川派であったとすれば、仕官時期が遅過ぎると言えるだろう。それらを考慮すれば、少なくとも石谷政清以前はある程度の勢力を持っていたとしても、駿河今川氏に与する勢力ではなかったのであろう。そうなれば、今川氏に従属した頃、それ以前に敵対していた西郷から石谷に名乗りを変更していてもさほどおかしなことでは無いだろう。
前述2項を仮に考慮すれば、元々、独立した荘園を管理する在地領主、或いは土豪、斯波氏に与する勢力、横地氏・勝間田氏等に属する勢力、堀越氏(遠江今川氏)等に与する勢力、いずれであったとしても、遠江国における同時代に発生した多くの戦乱で、勢力をすり減らす事はあり得ても勢力を誇る事はあり得ない。そして衰退する中で時の権力者に歯向かった名字を捨て、或いは本家が壊滅して違う名乗りをしていた分家筋のものが跡を継いだ、或いは元の名乗りを続けるには不都合な事実等、それなりの理由があったと考えるのが妥当であろう。無論前項の記載の通り、仮に二階堂姓の西郷氏であった場合でも、である。
&u(){&bold(){&aname(題9.6,option=nolink){9.6.安倍七騎に数えられる足久保の石谷氏に関して }}}
駿河国安倍郡足久保の安倍七騎に数えられる石谷氏の名前は、石谷重郎左衛門(駿河国安倍七騎姓名覚)、石谷弥兵衛(駿河国風土記)と記録され、その伝承から遠江石谷氏の同族と考えられる。
>&u(){『[[史話と伝説 静岡中部]]』内の記事}
> 駿河国安倍七騎姓名覚
>御神君御紋付頂戴 落合村 狩野 九郎兵衛
> 柿島村の内、上落合に塚あり 大村五郎左衛門
> 腰越村の内、菅沼と云所に塚有 長島甚太右衛門
> 平野村の向村、岡村に塚有 季(末)高石見守
> 俵峰村 杉山 仁左衛門
> 郷島村 海野 惣右衛門
> 足久保村 石谷重郎左衛門
>&u(){『[[史話と伝説 静岡中部]]』内の記事}
>「俵峯 杉山小太郎右衛門、望月四郎右衛門。足久保 石谷弥兵衛。落合 狩野弥八郎朝久。村岡村 末高某。柿島 朝倉六兵衛在重。中野村 海野弥兵衛本定等の七人なりと云う。此海野、朝倉は七騎より大家にて、家格七騎の上にありて、上落合の大石、牛妻村の森谷沢に一人(姓名不詳)この七人なりしとも云う。今川、武田の頃の諺の残れるなり。この七騎と云える者の内、石谷、末高はお旗本の士となり、狩野は紀州(徳川)の御家人となり、朝倉、海野は郷士にて今に存す。杉山のみは百姓にて此村に住す」と記してある。
理由はいくつかあるが、先ず1つ目が安倍七騎の石谷氏が旗本になったという伝承である。この点に関していえば、旗本になったという石谷氏は石谷政清の子孫のみであるから、遠江石谷氏の一族である事が推察される。2つ目に、安倍七騎に数えられる石谷重郎左衛門という名前である。駿河国・遠江国において今川、徳川、武田が争乱を繰り広げていた時代の遠江石谷氏の主要な人物は、年代的に石谷政清とその子供である。この石谷政清については通称を十郎右衛門とされているが、『新編武蔵国風土記稿 』や『袖師町誌』などの一部資料においては、石谷十郎左衛門の記載が確認される。最も、この右衛門、左衛門の記載については従来間違えられ易いもので、加えて十と重もまた代用される文字である。3つ目に、石谷弥兵衛という名前である。この名前は石谷政清の孫にあたる石谷弥兵衛清春等、『士林泝洄』や『藩士名寄』、『袖師町誌』など、石谷政清の子である石谷清重の子孫に散見される名前である。この系統の子孫を称する袖師石ヶ谷家の『[[石ヶ谷家家系図]]』にも別人物で幾人か記録されている。そして4つ目に、先にも述べた石谷弥兵衛清春が駿河国安倍郡足久保に居住していた事である。
>『士林泝洄』記載の石谷政清の孫
>清春
> 弥兵衛
> 浪人。寓駿州足久保邑。万冶三年子正月廿九日卒。
この石谷弥兵衛清春は戦国時代の人物ではないが、そもそも安倍七騎に数えられた人物達の年代が不詳である事から、子孫としてこの系統の人物が数えられたものと推測される。これら状況証拠からすれば、概ね安倍七騎の石谷氏がこれら人物であろうと類推されるであろう。
では何故遠江石谷氏が駿河国安倍郡足久保村に居住していたか、考えられる事が1つある。先述の通り、遠江石谷氏の元々の所領が遠江国佐野郡西郷石谷村であった場合、そこは掛川城という要衝を見通せる場所であり、元々今川氏にとって味方であったかどうか怪しい一党をそのままその要衝に置いておく事は考えにくいであろう、という事である。
そう考えると、下記の御黒判(五石半)は、石谷氏にとって実家ともいうべき屋敷の由緒分として訴訟を受けているが、飛鳥内一色120俵2斗の領地を新たに与えるので、今後良く徳川家に仕えて働くように。という意味であろう。
>&u(){『[[静岡県史 資料編7]]』}
>永禄12年(1569)
>
>正月二十六日、徳川家康、遠江国飛鳥内一色の内を、石谷政清に与える。
> 三五九九 徳川家康判物写 記録御用所本古文書一○内閣文庫所蔵
>
> 今度被行知行事
> (遠江国佐野郡)
> 右、五石半之飛鳥内一色百弐拾俵弐斗俵也、井前々屋敷分有由緒、令訴訟候間、為新給恩出置畢、永不可有相違、守此旨弥於令奉公者、重而可加扶助者也、仍如件、
> 永禄十二年己巳 (徳川家康)
> 正月廿六日 御名乗御書判
> (政清)
> 石谷十郎右衛門殿
この120表の領地について考える時、仮に当時の税率が五公五民程度として、総石高120石として考えるか税収と考え240石と考えるか筆者の知識では判断がつかないところではあるが、『掛川誌稿』の記録された文化2年(1805年)頃の時点で飛鳥村が
>&u(){『[[掛川誌稿]]』内の記事}
>寛永十五年免状ニ、高四百五十八石六斗六升トアリテ、十六年ニハ三百七十五石五斗六升ト記ス、證トスヘシ、
とある事から、飛鳥内一色というのが飛鳥村全域の事だったとしても、此処のみが石谷氏の領地であったとは考え難い。入澤行重が武田家に仕えてその後不明。天正18年(1590年)の関東移封時に石谷政信が200石、石谷清定が250石を賜る。石谷清重が徳川秀忠に仕え関ヶ原の戦いに従軍。桑原政重が紀州徳川家に仕えている。時代も下るし関東移封のあたりで加増は受けているのかもしれないが、石谷氏の元々の所領が120石~240石程度だったと仮定するには、石谷政清の子らが分家し過ぎている。加えて次男の呑雪和尚が、徳川家康の三河時代に御乎習の相手を務め、後に武蔵国成田龍淵寺住職になっている事からも、学も無く財力も無い少禄の地侍であったと仮定するには疑問である。
従って、石谷氏は永禄12年1月26日(1569年)に遠江国飛鳥内一色の新恩地を賜ったが、それとは別に、所領を持っていたのではあるまいか。その内の一つが、石谷清重の一族が住み着いた経緯を持つ、駿河国安倍郡の足久保村であったのではあるまいかと推測する次第である。
&u(){&bold(){&aname(題9.7,option=nolink){9.7.入澤五右衛門行重について}}}
前項で何度か名前を挙げたが、石谷政清には入澤五右衛門行重という一子が居る。
>&u(){『[[新訂寛政重修諸家譜]]』}
>行重(ゆきしげ)
>五右衛門 入澤を称す。
>武田家につかふ。
この入澤行重については、『[[新訂寛政重修諸家譜]]』では子の中では一番最初に挙げられており、通常考えれば長男となる。『[[寛永諸家系図伝]]』 には名前が無いが、これは徳川家と敵対した武田家家臣であり、且つ、旗本になっていないことから記載が省かれたものと考えられる。また、『[[石ヶ谷家家系図]]』においては、清宗(入沢五右エ門)の名前で記載されている。この入澤五右衛門の来歴については不明であるが、石谷政清の3男である石谷政信(天文14年(1545年)生誕)は石谷政清が42歳の頃に出来た子供であるから、普通に考えれば政信の生誕より相当以前に誕生したものと思われる。
ところで、『[[新訂寛政重修諸家譜]]』については考慮するべき点がある。この書は幕臣になった家の事を中心に記載されているため、それ以外の事については補足的にしか書いていない場合や、幕臣になった家を惣領家のように記載している場合がある点である。前述の幾つかの項で述べたように、遠江石谷氏はいつの頃か駿河国安倍郡足久保に勢力を持っていたと推測される。だが、その本貫地は遠江国佐野郡西郷石谷であり、少なくともそこには石谷政信や石谷清定などが残っており、彼らが旗本になった事は事実である。では、足久保の石谷氏とは何なのであろうか、という疑問が残っているのである。
足久保の石谷氏という観点から見た場合、この入澤五右衛門という名前について、あくまでも推測の範疇を出ないが、別の資料から関連しそうな名前を引き出すことが出来る。
>&u(){『[[武田氏の研究]]』内の記事}
>(1)海賊衆
> 一間宮武兵衛 船十艘 一間宮造酒丞 船五艘 一小浜あたけ一艘小舟十五艘
> 一向井伊兵衛 船五艘
> 一伊丹大隅守 船五艘
> 一岡部忠兵衛 船十二艘同心五十騎
> 右、岡部忠兵衛、駿府にて忠節人之故、土屋忠兵衛になされ候。(永禄十二年)巳の極月駿河治てより、土屋備前になされ候。
> 此内覚の者、
> 一大石四方介 一沢江左衛門
> 一入沢五右衛門 一保科(小塩)六右衛門
武田氏配下の入沢氏と言えば、信州の入沢氏などが考えられるが、同著において、
>&u(){『[[武田氏の研究]]』内の記事}
>(3)(駿河蒲原攻の時)本城へはやく乗衆、小塩市右衛門・入沢五右衛門・常磐万右門・大石右衛門介(四方之介)・沢江(郷)左衛門、此五人は岡部忠兵衛衆、するが先方なり、(永禄十二年十二月六日)
とあることから、この入沢五右衛門は信濃衆ではなく岡部忠兵衛配下の駿河先方衆の一人であると考えられる。
では、名前が同じであるからといって、入澤五右衛門行重が海賊衆の入沢五右衛門になりえるか、という点で考える場合、海賊衆の入沢五右衛門の寄親となる岡部忠兵衛がどういった人物かという視点で考察してみる必要があるだろう。この岡部忠兵衛は今川家旧臣の駿河国岡部氏の一族であり、一般には土屋貞綱という名前で知られ、駿河国清水城(静岡市清水区本町)で武田水軍を編成した人物の一人である。そして、土屋貞綱の養子は片手千人斬りで知られる土屋昌恒であり、土屋昌恒の兄が土屋昌続であったとされる。土屋貞綱自体が今川家旧臣で駿河の今川家旧臣をまとめる存在の1人であった事は当然考えられる事ではあるが、問題はこの土屋右衛門尉昌続である。入澤五右衛門行重の一族であり安倍七騎に数えられるであろう足久保の石谷氏は、『本川根町史』収録の『了無先祖書』に拠れば、天正4年(1576年)に徳川方の安部元真に攻められているため、武田方であった事が推測される。(なお、この時点で石谷政清は死去しており、幕臣となった石谷政信、石谷清定には武田家に仕えた履歴は残されていない。)ところで、安倍七騎の朝倉在重や狩野氏に対し、先の土屋右衛門尉から幾つかの書簡が与えられている。状況的に考えれば、足久保の石谷氏が武田氏の配下に入っていた場合、駿河先方衆に加えられる事は不自然ではなく、且つ、やり取りのある土屋氏の影響下に入ることもまた不自然とは言えない。加えて言うならば、旗本になった石谷政信や石谷清定は石谷政清が40歳を超えてからの子供であり、入沢五右衛門が長男であったことを踏まえれば、入澤を称して武田家に仕えたという『新訂寛政重修諸家譜』の記載に疑問が残る。要は、単純に嫡子以外を養子に出した、と言う風には些か考えにくく、この駿河の岡部氏が武田家に縁のある土屋氏を与えられたように、石谷氏もまた武田家影響下の信州に縁のある入沢氏の名乗り、もしくは入沢氏との縁組を与えられたのではないか?という事である。次男の呑雪も出家しており、三男の政信、四男の清定ではむしろ清定の方が徳川家に与えられた知行が多い事もまた疑問の点である。もし入澤を称した由来がそういった内容であれば、此処に「覚の者」として挙げられてもおかしくない程度の実績や勢力があったと考えられるであろう。
また別の視点から見てみると、また状況的な可能性が考慮されるであろう。それは『[[袖師町誌]]』に記載される石ヶ谷家である。この袖師町というのは現在の清水港内の袖師埠頭に近接する地域であり、かつては袖師ヶ浦と呼ばれ、また周辺を埋め立てて埠頭が築かれる以前は、海水浴場などがあった地形であった。この地域は武田家が水軍を管理するために設けた駿河国江尻城まで2km圏内にあり、駿河国清水城も江尻城周辺に設けられていた。またいずれも東海道沿いであり、往来はかなり迅速に行える地域にある。この一族は系図上では足久保の石谷氏の分家に当たり、少なくとも1600年代から居住する一族であるが、どうして此処に足久保の石谷氏の分家があるのか、という疑問である。またこの家の系図においては、石谷政清の一子に高天神城主小笠原与八郎の妻の記載がある。『[[新訂寛政重修諸家譜]]』においても石谷清定の妻も久嶋與平の娘とあるが、久嶋といえば高天神城の福島氏の異字体であろう。高天神城は『海運』を抑えるための拠点の1つである事はよく知られている事実である。
これらから推測すると、この『甲陽軍監』における入沢五右衛門について然るべき他の来歴が見つからないのだと仮定すれば、一つの可能性として、石谷政清の一子である入澤五右衛門行重が同一人物であるという推測を検討し得るのではないかと、疑問を呈するものである。
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&u(){&bold(){&aname(題9.8,option=nolink){9.8.石谷氏と彦根藩小野田氏}}}
>『[[侍中由緒帳]]』
>一曽祖父小野田彦右衛門(為盛)儀、前者小次郎与申候、代ゝ今川家ニ罷在候処、氏真ニ故有、飯尾豊前守旗下ニ罷ニ罷在候処、引馬城(静岡県浜松市)内乱之儀有之、其節彦右衛門働キニ依而
>権現様(徳川家康)御入城被遊、引馬城御手ニ入、依之御旗本(下)ニ被召加、直ニ引馬城ニ被指置、其後岡崎江被召寄相勤罷在候処、天正十二年(一五八四)長久手御出馬前
>権現様上意ニ而
>直政様(初代藩主)江御附ヶ被遊、長久手・小田原・九戸(岩手県二戸市)
>御陣御供仕、文禄年中(一五九二~九六)於箕輪(群馬県群馬郡)御足軽大将被仰付、関ヶ原御陣御供仕候、御知行七百石被下置候、其以後実子無之ニ付、祖父小一郎為躬儀
>御旗本(下)ニ被居候石谷市右衛門(政勝)次男ニ御座候「而」旧縁茂有之ニ付、養子ニ仕候、祖父小一郎年若之時分ゟ御足軽大将被仰付、大坂冬・夏両御陣
>直孝様(二代藩主)御供仕、御着陣後弐百石御加増被下置、引続キ百石御加増被下置、都合千石ニ罷成候、都而御陣参節ゝ働之儀者御触無之ニ付書出シ不申候、家来とも并御預ヶ同心働之儀茂右同様書出シ不申候
> ※『寛政重修諸家譜』には為一(ためかづ)とある。
『新訂寛政重修諸家譜』 には石谷政清の子に関して、下記の内容が記載されている。
>『新訂寛政重修諸家譜』
>女子
>井伊掃部頭家臣小野田小一郎某が妻。
また、石谷政信の次男、すなわち石谷政清の孫に関して、下記の内容も記載されている。
>『新訂寛政重修諸家譜』
>為一(ためかづ)
>小一郎 小野田を称す。
この文章における井伊掃部頭家臣小野田小一郎とは、彦根藩小野田小一郎家のことであるが、彦根藩の史料である『侍中由緒帳』と『新訂寛政重修諸家譜』 を照合すると以下の事が判る。石谷政清の娘が嫁いだ小野田小一郎とは、年代的に小野田彦右衛門為盛と推定される。小野田為盛は今川家の飯尾連竜の配下であったとされる。後に徳川家康に仕え、井伊直政の足軽大将となり知行700石を与えられた。跡継ぎが居なかったために、縁のある旗本石谷市右衛門の次男を養子に迎えたとあるが、これは年代的に石谷十右衛門政信の次男で小野田氏を称した為一の事であろう。石谷市右衛門政勝は小野田為一の兄である。この小野田為一については、侍中由緒帳から見ると名前は為躬とある。小野田小一郎為躬は大坂冬の陣、夏の陣に参加し井伊勢の足軽大将を務め、後に加増を受けて1000石となっている。小野田為躬は跡継ぎが居なかったため、大久保新右衛門の次男である為定を養子とした。
この小野田氏との縁戚関係についてはいつの時代の事かは良く判らないが、飯尾連竜が殺害された永禄8年(1565年)の頃に石谷政信が20歳であるから、その妹が小野田為盛に嫁いだのはその前後であろう。また、この小野田為盛は井伊直政の足軽大将として重用されている事から、石谷氏の戦国期から江戸時代初期の去就に関しては、この血縁関係が考慮するべき重要な1つの要素であると考えられる。
なお、『侍中由緒帳』において、小野田為盛は小野田彦右衛門、小野田小次郎を名乗って居たとされる。合わせて曳馬城戦で活躍したとの記載があるが、遠州錯乱において飯尾連竜が殺害された後行われた、永禄11年12月(1568年)曳馬城での合戦の前に、城将であった江間安芸守泰顕が小野田彦右衛門(小次郎)という江間加賀守時成の家臣に殺害されるという事件が起きている。これは江間泰顕が武田方、江間時成が徳川方に付こうとした事を発端とする事件である。この小野田彦右衛門とは小野田為盛の事であろう。
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&u(){&bold(){&aname(題9.9,option=nolink){9.9.石谷氏の系図について}}}
石谷氏の系図については、そもそも二階堂行秋(因幡守、法名行欽)以前は不明である。『[[寛永諸家系図伝]]』にも『[[新訂寛政重修諸家譜]]』にも記載はなく、[[二階堂行政>http://ja.wikipedia.org/wiki/二階堂行政]]~二階堂行秋(因幡守、法名行欽)の間がどうなっているか明示する公式の系図や家伝は存在しない。現在は『二階堂行政-二階堂行村-二階堂行義-二階堂義賢-二階堂行秋』の流れであったと一般に推測されてはいるが、この推測に関しては根拠となる出典は明示されていない。恐らく、『[[ふるさと探訪]] 掛川の古城址 (著:林隆平)』に記載の地元に残ると言われる系図からの推測であろうが、この系図の所有者も明記されていないものである。周辺状況から、この写蔵系図にしても行秋の下が「略」となっており、石谷氏の記載はない。『二階堂行秋』という人名のみから強引に繋げた推測と推量される。また、前述の系譜だと全く年代が一致しない旨は、[[播磨屋.com殿の石谷氏の記事>http://www2.harimaya.com/sengoku/html/isigaya.html]]でも指摘されている。一方で、[[播磨屋.com殿の泉田氏の記事>http://www2.harimaya.com/sengoku/html/date_izumida.html]]において、泉田氏の先祖と推定している二階堂行秋(二階堂光貞の子)がおり、この人物は前述の二階堂行秋(二階堂義賢の子)とは同姓同名の別人である。二階堂行秋(二階堂光貞)の子について播磨屋.com殿の記事を参照し、挙げられている『[[続群書類従]] 工藤二階堂氏系図』を参照した所、同著内容の通り、二階堂光貞(下総守)の子に、二階堂行秋(因幡守、法名行欽)の記載があった。同系図上では、この二階堂行秋は[[頓阿(二階堂貞宗)>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%93%E9%98%BF]]の弟で、二階堂行豊の兄に当たる。この二階堂行秋の妹の子供の子孫を称する石谷氏の伝承と参照した場合、1世代程度の空白が生じる年代的疑問は残るものの、年代的には比較的近い。妹の記載が娘の誤伝であるとか、二階堂行秋の遺領がしばらく何らかの理由で放置され、その後血族であろう石谷氏の祖となる二階堂行晴が養子を称して継承したのならば、年代的矛盾はそれほど大きくは無い。
>&u(){『[[続群書類従]] 工藤二階堂氏系図』}
>爲憲(遠江守 讃岐守維幾一男)―時理―維遠(遠江守)―維光(同)―維行(同)―行遠(同)―二階堂行政(山城守 政所)―行光(政所)―行盛(民部大夫 政所 法名行然)―行泰(筑前守)―行實(信濃守)―宗實(因幡守)―光貞(下総守)―行秋(因幡守 法名行欽)
>&u(){『[[寛永諸家系図伝]]』}
>石谷(いしがや)
>家伝にいはく、もとは二階堂と号す、大織冠(藤原鎌足)十一代遠江守爲憲の後胤なり、政清遠江国石谷村に住す、村の西南に大岩石あり、其岩側に八幡の庿あり、是村の氏神なり、政清氏神のましますところを崇、このゆへに二階堂をあらためて石谷と称す。
>
>行秋(ゆきあき)
>二階堂因幡守 法名行欽。
両書の関連性や正確性に関する疑問は残るが、少なくともこの名前、官位名乗り、法名、3つの内容が完全一致している点において、伝承や系図が正確であったか、または意図的に参照されているものと思われる。従って、論拠不明の『二階堂行政-二階堂行村-二階堂行義-二階堂義賢-二階堂行秋』から続くという石谷氏の推定系譜には大いに疑問が発生し、『二階堂行政-二階堂行光-二階堂行盛-二階堂行泰-二階堂行実-二階堂宗実-二階堂光貞-二階堂行秋』という『[[続群書類従]]』に拠る系譜こそが、遠江石谷氏本来の系譜ではないだろうかと推測する次第である。無論、この系譜の形が本来だとしても、二階堂行秋の妹の夫であるとされる西郷民部少輔という人物の素性が不明であるため、石谷氏の祖が[[二階堂氏>http://ja.wikipedia.org/wiki/二階堂氏]]を僭称した可能性を捨てる事は出来ない。また、可能性は低いとしても年代的に考えて、『[[続群書類従]] 工藤二階堂氏系図』側が『[[寛永諸家系図伝]]』の記載に合わせた可能性もゼロではない。従って推論でしかないが、恐らく、二階堂氏支族または二階堂氏と縁戚となった遠江西郷氏が、二階堂因幡守行秋(法名行欽)に関連する領地か血脈を(あるいは強引に)継承したものの、[[永享乱>http://ja.wikipedia.org/wiki/永享の乱]]や遠江の戦乱においてそれ以前の家譜を亡失し、二階堂因幡守行秋(法名行欽)後裔を称した事実及び、残った一族の直系先祖しか情報が残らなかった、或いは残さなかったのではないだろうか。遠江国には[[工藤氏>http://ja.wikipedia.org/wiki/工藤氏]]支族は多いものの、敢えて二階堂氏を称し、また[[三河西郷氏>http://ja.wikipedia.org/wiki/西郷氏]]との関連を否定している以上、おそらくは二階堂氏の血脈を継承する事自体は確かだったのではないだろうか。もし『[[寛永諸家系図伝]]』の記載が明白な詐称であれば、わざわざ、それ以前が不明の二階堂行秋(因幡守、法名行欽)に繋げる必要も無く、遠江国にありがちな工藤氏の傍系や西郷氏の眷属を称すればいいだけの話であろう。
従って、本稿においては通説と異なり、
二階堂行政-二階堂行光-二階堂行盛-二階堂行泰-二階堂行実-二階堂宗実-二階堂光貞-二階堂行秋-二階堂行晴-西郷行清-二階堂清長-石谷政清……
が、より正しい系図であると推測する。ただし、二階堂行秋から二階堂行晴に到る間に、系図上何らかの操作または誤伝がありそうな事について、年代的な観点から疑問点を残す。[[播磨屋.com殿の泉田氏の記事>http://www2.harimaya.com/sengoku/html/date_izumida.html]]において、泉田氏の伝承では二階堂行秋(因幡守、法名道欽)が1394年に死去とあるため、これが事実で且つ同一人物であれば1418年誕生の二階堂行晴がこの二階堂行秋に養育されることは不可能である。二階堂行秋の父、二階堂光貞の生没は不明であるが、二階堂行秋の兄、頓阿(二階堂貞宗)は1289年に誕生している。例え、二階堂光貞が若年で頓阿(二階堂貞宗)を産み高齢で娘(二階堂行秋の妹)を産んだとしても、二階堂行秋の妹が二階堂行晴を産むには出産不可能な高齢である。少なくとも1世代以上の年次矛盾が存在する。
また、筆者の親族である袖師石ヶ谷家の系図及び、西郷地区残る石田家資料からは、さらにこれらとは異なり、
二階堂行政-二階堂行光-二階堂行盛-二階堂行泰-二階堂行頼-二階堂行継-二階堂行兼-二階堂行朝(左衛門尉)-二階堂行秋(従五位下因幡守)-二階堂行晴-西郷行清-二階堂行長-石谷政清……
という記載が見て取れる。袖師石ヶ谷家の系図は石谷政清の玄孫、石谷清升付近で別れた一族であり、西郷行清以下、『[[寛永諸家系図伝]]』、『[[新訂寛政重修諸家譜]]』、『士林泝洄』等と、一致する部分や不一致の部分が散見され、現在の静岡市周辺に残った石谷清重以降の子孫を中心に親族で聞き知った人物を書き加えたような内容であり、何れかの史料を引き写したものとは異なると考えられる。しかしながら、行秋以前については二階堂支族を中心に幅広く記載されており、何かの史料を写したのではないかと考えられる内容である。代数から言えばこの系図の流れは不自然ではなく、或いは二階堂行秋が二階堂行朝の養子になった等考えられるものではある。また、二階堂行朝(左衛門尉)自体が、二階堂貞綱の子である二階堂行朝((信濃守、左衛門尉、信濃入道)生年不詳~文和2年/正平8年(1353年)9月25日)を年代的にも連想させる部分があり、此れは従来の二階堂氏系図にも言える事であるが、判断が付かない部分であろう。また、石田家は西郷地区残り霊栄大明神を管理する一族であるが、二階堂行政~行秋にかけての流れは同様となっている。ただいずれにしても、優先するべきはある程度公式に流布されている系図を元にするべきと考えるため、本稿においてはこの袖師石ヶ谷家及び石田家の二階堂行秋以前の系図は採用しない。
[[※リンク先にA3用紙一枚に印刷可能な本稿の石谷氏の推定略系図をPDF形式で貼り付ける。>https://www44.atwiki.jp/eos-gin/?cmd=upload&act=open&pageid=18&file=%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E6%A6%82%E7%95%A5%E8%AD%9C.pdf]]
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**&bold(){&aname(題10,option=nolink){10.終わりに}}
遠江国を本貫とする石谷氏について考えると、石谷政清とその子達に関して久嶋氏(遠江福島氏か?)、後の彦根藩小野田小一郎家、高天神小笠原氏、駿河海野氏等との血縁関係が考えられ、一介の土豪の流れと言うには面白い血縁関係を有している。また、江戸時代おいては板倉氏、新井白石、田沼氏など、文官系の要人と血縁関係を持っている事が多く、外部からの血が濃いとはいえ一族からも石谷貞清、石谷清昌、石谷穆清など、多くの文官を輩出している。石谷政清が徳川家康に仕え、その孫の石谷貞清から飛躍したと考えられていた一族ではあるが、その素地はその血縁関係を考慮するべきであろう。また、旗本家、紀州藩士、尾張藩士、在地に残った一族など、その分流がいくつも枝分かれしている事が見て取れる。先述の通り遠江国石谷氏は二階堂氏を称しているが、鎌倉幕府の文官として要職を歴任し、分家が多数枝分かれし、複雑な血縁関係を持つ二階堂氏の血を引くというのも、頷ける部分があるだろう。本稿は、今までに明らかになっていた遠江石谷氏に関する事歴、それとは異なる見解、明らかになっていなかった遠江石谷氏に関連するであろう事歴等を指摘し記載しつつ、筆を置くものとする。
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**&bold(){&aname(題11,option=nolink){11.参考資料一覧}}
&bold(){ &u(){※下記参考文献のリンク先文書については、本稿作成の為の情報ストックであり、著作権上の問題があるため直リンク禁止です。必要に応じてご自身で原紙をご確認ください。}}
&aname(文献,option=nolink){▼参考年表}
[[石谷氏年表①]]
▼書籍類
[[江戸幕府旗本人名事典]] 第4巻 (小川恭一) 1989.12
[[江戸城下武家屋敷名鑑]] 上 人名編 (朝倉治彦) 1988
[[遠淡海地志]] (山中豊平) 1991.12
[[尾張藩士録]] 舟橋武志 平成10年6月1日
[[掛川誌稿]] 全翻刻 (翻刻・発行者 中村育男) 平成9年5月23日
[[掛川市史]] 上巻 (掛川市史編纂委員会) 1997.08
[[掛川市誌]] (静岡県掛川市) 昭和43年12月1日
[[寛永諸家系図伝]] 第十 (太田資宗/ほか編 斎木一馬/ほか校訂) 1986
[[干城録]] 第一 (校訂者 林亮勝 坂本正仁) 1997年4月27日
[[寛政譜以降旗本家百科事典]] (小川恭一) 1997.11-1998.7
[[系図纂要]] 新版 1990.9.27(岩澤愿彦)
古城 [[静岡古城研究会>http://potti-kun.sakura.ne.jp/wp-hirai-kojyo/]]
[[静岡県史 資料編7]] (静岡県) 1994
[[静岡県姓氏家系大辞典]] (静岡県姓氏家系大辞典 編纂委員会) 平成7年12月8日
[[静岡県の名字]] 渡辺三義 昭和63年8月25日
[[修訂駿河国新風土記]] 上巻 (新庄道雄) 昭和50年6月20日
[[史料徳川幕府の制度]] (小野清) 昭和43年6月1日
[[史話と伝説 静岡中部]] (飯塚伝太郎) 1970年5月
[[新訂寛政重修諸家譜]] (続群書類従完成会)1980
[[新編武蔵風土記稿]]
[[駿河記 全二冊]] (桑原藤泰) 昭和49年4月10日
[[続群書類従]]訂正3版第6輯下 (塙保己一 編纂 続群書類従完成会) 1979年
[[袖師町誌]] (袖師町誌編纂委員会) 1961.6
[[武田氏の研究]] (柴辻俊六) 昭和59年3月10日
[[遠江国風土記伝]] 内山真竜 明33.3
[[徳川幕臣人名事典]] (竹内誠・深井雅海・太田尚宏・白根孝胤) 2010.8
[[名古屋叢書]] 名古屋市教育委員会
[[名古屋叢書続編]] 名古屋市教育委員会
[[名古屋叢書続編 士林泝洄]] 名古屋市教育委員会
彦根藩史料叢書 [[侍中由緒帳]]2 (彦根市教育委員会) 1995年3月
[[復刻版 名古屋市史 地理編]] 生田良男 昭和55年8月25日
[[藩士名寄]] 1~4 いノ―~四 (名古屋市蓬左文庫 翻刻担当 黄木宏行) 平成6年7月10日 抜粋
[[ふるさと探訪]] 掛川の古城址 (林隆平) 昭和54年10月1日
[[本川根町史]] 資料編1 古代中世 (本川根町史編さん委員会) 平成10年3月20日
[[名将言行録]] (岡谷繁実) 1943
▼物品類
[[石ヶ谷家家系図]] (石ヶ谷家個人所蔵)
[[石ヶ谷家墓標]]
[[看板]] 掛川市石ヶ谷地区作成と思われる 石谷氏の名字石の付近
石田家資料 野村様よりご提供
▼ホームページ類
[[Wikipedia>>http://ja.wikipedia.org/wiki/メインページ]]
[[近代武道の成立過程に関する研究>https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=6&cad=rja&uact=8&ved=0CEoQFjAF&url=https%3A%2F%2Fwww.jstage.jst.go.jp%2Farticle%2Fbudo1968%2F8%2F3%2F8_60%2F_pdf&ei=GTaTU_P3BsP7kgX5h4GABA&usg=AFQjCNFgs5_dqzwWZ0eIiaYO__o2s2ujhg&sig2=61T_lZqaugSKVTDjVYChXA&bvm=bv.68445247,d.dGI]] [[抜粋内容>http://www44.atwiki.jp/eos-gin/pages/57.html]]
熊谷東ロータークラブ様ブログ [[龍淵寺だより第34号>http://ameblo.jp/rotary25703600024/entry-11391745557.html]]
熊谷東ロータークラブ様ブログ [[龍淵寺だより第35号>http://ameblo.jp/rotary25703600024/entry-11391790814.html]]
[[戦国大名 二階堂氏の興亡史>http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/]] (源次郎)様の記事
[[日本歴史 武将・人物伝>http://www.jpreki.com/jp/]] (高田哲哉)様の記事 [[該当ページ>http://www.jpreki.com/jp/tuchiya.html]]
猫の足あと 松長哲聖様 [[新編武蔵国風土記稿>http://www.tesshow.jp/saitama/kumagaya/temple_ike_baigan.html]]
[[播磨屋.com>http://www.harimaya.com/]]様の記事 [[石谷氏>http://www2.harimaya.com/sengoku/html/isigaya.html]] [[泉田氏>http://www2.harimaya.com/sengoku/html/date_izumida.html]] [[二階堂氏>http://www2.harimaya.com/sengoku/html/2kaido_k.html]] [[相良氏>http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sagara_k.html]]
[[横地氏に関する記事>http://www.f2.dion.ne.jp/~yokochi/]] (作者不明) [[該当ページ>http://www.f2.dion.ne.jp/~yokochi/tasiro14.html]]
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***[[戻る>http://www44.atwiki.jp/eos-gin/pages/1.html]]
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&italic(){&bold(){調べていない資料、リンク}}
[[石谷鉄之丞(安芸守)由緒書>https://familysearch.org/eng/Library/fhlcatalog/supermainframeset.asp?display=titledetails&titleno=1312238&disp=[+%26%23x77f3%3B%26%23x8c37%3B%26%23x5]]
[[御進発供奉御役人付>http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999news/04/402/40205.html]]
[[和蘭告密、オランダ国書>http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_dutchnews_kingad_main.html]]
[[仁孝天皇崩御 弘化三年正月>http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/yokoyama/okinawa/ok212007.htm]]
[[狛江市 維新戦争の置きみやげ> http://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/]] 「 薩摩・長州を主力とする新政府軍に、江戸城を明け渡した後も、幕府の旧臣たちの多くが、謹慎中の徳川慶喜を守るといって上野の山に頑張った。新政府軍が、これを打ち破ったのが上野戦争(明治元年五月)である。狛江を通り抜ける鎌倉道を落ちのびていった武者は少なくなかった。和泉村を知行する旗本石谷清倚らの一行も夜陰にまぎれて、入間村(調布市)の御用商人油屋清兵衛をたたき起こし、いささか態勢をととのえて菩提所の泉龍寺まで送らせたという。」
[[石谷三藏先祖書、石谷豊前守先祖書、石谷庄之助先祖書、石谷善次郎先祖書>http://ci.nii.ac.jp/books/search?advanced=false&count=20&sortorder=3&q=%E7%9F%B3%E8%B0%B7%E3%80%80%E5%85%88%E7%A5%96&type=0&update_keep=true]]
[[横地系図>http://www.k2.dion.ne.jp/~yokochi/siro.htm]]
引用文献:「角川日本地名大辞典」編集委員会(1985).30 和歌山県 角川書店
元町奉行丁 和歌山市の町名の由来
https://warchi3.wordpress.com/2018/04/10/%E3%80%8C%E5%85%83%E7%94%BA%E5%A5%89%E8%A1%8C%E4%B8%81%E3%80%8D/
海野治部左衛門
町内を東西に走る道路の南側、雑賀道との交差点東側に町奉行東番所・西番所があった。町奉行が複数制になったのは寛永17年、海野治部左衛門(東)・大高源右衛門(西)が初めてである。
※石谷清昌の母が海野治部右衛門の娘
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- 突然ですが申し訳ありません 先祖探しで石谷清成さん 明治21年10月15日に東京市麹町区飯田町5丁目に存在いていたようです 何かお心当たりありませんでしょうか 千代田区役所の除籍謄本も請求しましたが 戦災で焼けており回答不能の通知が来ました お手数をお掛け致しますがお願い致します -- 石谷 清成 (2012-03-04 14:50:55)
- 石谷清成様直接の資料はありませんが、時代を少し遡るとちょっとその地域の石谷氏(1700年代-1800年代)が多すぎる感じです(名前の重複や混同)みたいです。麹町貝坂、元飯田町九段坂下、元飯田町上人参製法所跡、周辺に、石谷政清の子の政信、清定系、政重系の3種類の系譜を持つ旗本がいたようです。(参考:江戸幕府旗本人名事典第1巻,寛政譜以降旗本家百科事典第6巻) また、焼失となると、『袖師町誌』に『石谷鉄之丞(三百俵)、石谷帯刀(千百石)はその子孫であろう。この系図の本紙は東京で焼失した由である。』とあるので、どちらかの系譜でしょうか・・・? また、早くに分家するなどして、旗本以外の身分の場合は、地誌等に載っていなければ調べるのは困難だと思います。 -- 図書助 (2012-03-11 02:00:18)
- 屋敷の場所→ 麹町貝坂1100坪(石谷因幡守※石谷左近将監貞清の系譜) 元飯田町九段坂下578坪(石谷金之丞※桑原政重の系譜?) 元飯田町上人参製法所跡,飯田町中坂上(石谷三蔵清順※石谷政信の系譜)菩提寺が泉竜寺なら政信か貞清の系譜、浄心寺なら政重の系譜かもしれませんね。 -- 図書助 (2012-03-11 05:49:16)
- あと、家紋はあてにならない(変更可能のため私と縁のある家は土佐柏に変えたし)ですが、普通石谷氏は九曜星ですが、政重系は石餅九曜(替紋で追沢瀉)が公式紋だったらしいです。 -- 図書助 (2012-03-12 00:29:37)
- ご丁寧なお返事有難うございました まさか頂けると思わなかったので感激しております 清成は曽祖父の兄のようですがそれ以上分かりません 東京は震災と空襲で戸籍が失われたので先祖をたどるのは難しいですね -- 石谷清成 (2012-03-21 14:18:50)
- 図書助様は立派な系図研究をされています 大切なことだと思います これからも読ませて頂きます -- 石谷清成 (2012-03-21 14:27:08)
- 石谷清成様へ 参考になるかはわかりませんが、「[[江戸城下武家屋敷名鑑]]」に1800年代までの旗本屋敷の住所、「江戸城下変遷絵図集(原書房刊)」にそれらの地図が載っているようです。地図が読めない子なので後者は良くわかりませんでしたが。。。なお、掲載の「袖師町誌」で東京の石谷氏族の系図焼失のくだりは、五郎造の所へ東京の方が話を聴きに来た逸話を私の一族のものから聞いております。もし静岡に聞きにいった逸話をそちらの一族の方がお持ちであれば、該当の石谷鉄之丞(三百俵)、石谷帯刀(千百石)が先祖の可能性が高いかもしれません。 -- 図書助 (2012-05-18 01:37:13)
- 石谷清昌の母である紀州徳川家家臣海野治部右衛門の娘とは、駿河海野氏では無いか?駿河海野氏と石谷氏との関連。 -- 図書助 (2013-07-12 00:46:17)
- 侍中由緒帳 -- 図書助 (2013-09-20 18:16:37)
- メモ:史籍集覧 〔12〕 慶元古文書-一名・諸家感状録、石谷主水、隼人。石谷主水が丹羽氏福の息子なら、石合清敦??? -- 図書助 (2014-01-03 20:06:05)
- 石谷庄之助先祖書、石谷友之助ttp://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/28,839,138,52,html -- 図書助 (2014-01-03 21:00:20)
- 石谷氏の詳細なサイト、初めて知りました。 -- fjsmn (2014-02-09 21:43:33)
- 本日Wikipediaを追加しましたが、ソース不明な「石谷氏系図」写しがあり、紀州家家臣を経て旗本に至った家以外の3家についてはその系図が明治維新に至っております。寛政譜では宗家は政信の系統になっていますが、この3家系図によると清定の系統とされており、調布市布田にご子孫が存在していました。していましたというのも、私が20年前に調布在住の折に調べたもので、手元にある「3家系図」「3家過去帳」のコポー -- fjsmn (2014-02-09 21:50:49)
- 途中でエンターを押してしまい、申し訳ありません。 -- fjsmn (2014-02-09 22:26:10)
- 更に途中でエンターを押してしまい、申し訳ありません。…(続き)コピーにソースを記入するのを忘れましたので、出典がわかりませんが、手元の史料で調べました。20年経っていますので、どうなっているかわかりません。もともと、石谷氏3家の菩提寺は武蔵国多摩郡和泉村の龍泉寺。いまは狛江市元和泉1-6-1であり、少なくとも調布の石谷氏(系図ではこの家が石谷の宗家)は今も檀家の筈です。ですから墓所もあるかと思います。上記の石谷清成は明治時代に2人おり、1人は貞清系の11代目。通称は鉄太郎で明治31年9月2日没。浅草北清島の聞成寺に葬ったとのことです。尚、息子は石谷清一。2人目は件の宗家14代。通称は鉄之助で、麹町平河町住まいとあり、明治31年8月2日没。妻は重田ショウ。次代は15代民次郎正雄。過去帳では「13代、明治31年8月2日石谷清成といふ。東京浅草松清聞成寺に葬す。初め鉄之助と云へり」とあって、もしかしたら1人目の清成と記述がダブっているのでは…と思わせる節がありますが、いずれも墓所などのウラはとっておりませんので悪しからず。何か参考になればと思い記しました。長々すみません。 -- fjsmn (2014-02-09 22:27:32)
- fjsmn様、ご教示頂きありがとうございます。wikiの方は出典の明記が必要ですので、元の記載に戻しました。申し訳ありません。参照可能なソースがあれば好ましいのですが・・・。私の方は母方が石谷清重の後裔を称しており系図もありますが、『袖師町誌』までしか2次資料が無いので、wikiには記載をしていません。近世部分、ご教示いただきありがとうございました。先ずはお礼申し上げます。 -- 松浦図書助 (2014-02-11 16:00:29)
- 石ヶ谷系図よる記載。疑問点①石谷政清(若宮八幡宮)▼何処の若宮八幡宮?墓所?②石谷政清の娘(高天神城城主小笠原与八郎妻)③二階堂行盛-行泰-行頼-行継-行兼-行朝-行秋(従五位下因幡守)-行晴-行清-行長-石谷政清▼行秋は群書類従の下総守光貞の子とされるのと異なり行朝の子になるの?でもたぶん年代官職から同一人物。そもそも二階堂氏系図意味不・・・。 -- 図書助 (2014-05-02 23:58:05)
- fismn様 図書助様驚くほどの情報ありがとうございます fismn様 浅草北清島に眠る清成は曽祖父の兄かもしれません 曽祖父兼吉は事情があり養子縁組に出され明治28年に無くなりました その際の届け人が兄清成です息子の名前は清吉です 複雑な事情の中で兄は戸籍を作り 弟は息子の名前に石谷家の 清 の -- 石谷 清成 (2014-05-24 16:17:02)
- 続です 清の字を入れたのでは等と遠い過去を推理してました ちなみに兼吉の孫 私の父 の名前は謙一です 清成の息子が清一 兼吉の息子は 清吉 その子供は謙一 不思議な因縁を感じました 祖父は浅草に何かの縁があったようだと母から聞きました 祖父は事情を知っていたのでしょうか それにしても石谷家の系図はすごいです ここまで明らかにされた図書助様にも感謝致します 歴史好きの父が生きていたらばこの話をし伝えたかったです 有難うございました -- 石谷清成 (2014-05-24 16:41:26)
- 追伸 fjsmn -- 石谷 清成 (2014-05-24 17:38:01)
- 追伸 fjsmn様 お名読み違えてすみませんでした そちらの系図でおわかりならば 清成さまの父上 御祖父さま の 名前をお教え下さいませ 私の持つ改正原戸籍では父は石谷 兄石谷清成です 二男兼吉は嘉永3年四月八日生まれです そちらの清成様と兄弟の関係になりますか?ドキドキします お手数ですが宜しくご教授下さいませ -- 石谷清成 (2014-05-24 17:50:18)
- 石谷清成様、ありがとうございます。明言は避けますが、[[wikiノート>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%9F%B3%E8%B0%B7%E6%B0%8F]]に、fjsmn様の御情報を転記しておりますので、ご参照ください。(※2次資料(参照可能な出版物)ではないため)石谷清成様の没年に関しては上記御記載頂いておるようです。 -- 図書助 (2014-05-26 18:24:44)
- 図書助早速ありがとうございました 真相は謎ですが 確かに幕末明治に清成さんが存在したようで感慨深いです 詳細な系図に感動しています 近世系図で又新たな附則があると楽しみです いつもご親切に有難うございます それから兼吉の死亡は明治38年でした 戸籍には曾祖父も祖父も退隠の文字があります 父は早くに祖父に隠居され苦労したと怒ってましたがこれは習慣だったのかと思いました 又楽しみに読ませて頂きます -- 石谷清成 (2014-05-29 14:44:40)
- メモ:文久元紀士鑑 乾・坤/和歌山県立図書館 -- 図書助 (2014-11-22 20:04:49)
- [[荻原重秀とか新井白石とか田沼意次とか>http://www44.atwiki.jp/eos-gin?cmd=upload&act=open&pageid=18&file=%E6%9C%89%E5%90%8D%E4%BA%BA.jpg]] -- 図書助 (2015-01-02 01:30:58)
- メモ:石谷主水蔵、石谷隼人 史籍集覧. 〔12〕 慶元古文書−一名・諸家感状録 -- 図書助 (2015-01-02 11:55:56)
- 石谷穆清の子である石谷鉄之丞は、石谷公清(安芸守)の様子→将軍の御刀をどう持つか。「錦絵などには、将軍の御刀を持つ者は、服紗を「くるみ」て持ちたる図あり、然れどもその実、決して服紗などを掛け ず、素手にて直ちに(ママ)御刀の鞘を握り持つなり。(元御小姓頭取石谷[安芸守]公清談)」『史料徳川幕府の制度』(『徳川制度史料』) -- 図書助 (2015-01-05 01:07:48)
- 従って、fjsmn様に御記載いただいた『公清』が誰か判明しました。ありがとうございます。上記はツイッターで書かれていたので現物参照していないため、おって資料を自分で確認するつもりです。 -- 図書助 (2015-01-05 01:16:45)
- メモ:新編覆醤集 拾遺 への書き入れ?(石谷清成(石谷貞清の孫)、宗淳、埜直子方?) 石川丈山と仲が良くて?慶應義塾図書館に本がある? -- 図書助 (2015-01-05 02:22:56)
- 私、野村と申します。遠江石谷氏の分家筋で石谷氏居館跡に住み霊栄神社を祭祀する石田氏を縁戚に持つ者です。現在、石谷氏石田氏について調べており、こちらのホームページを見つけてとてもありがたく思っております。 これからよろしくお願いいたします。 石田氏から頂いた資料もありますので共有できたらとも思っております。しかしながら、石田氏が分家筋というのも資料が乏しいのと欠落部分があるため曖昧なところがあります。石田氏家紋は石谷氏と同じ九曜紋です。因みに、この石田氏の墓地には貞清系の榮清、眞清、澄清の石谷氏当主が隠居後に西郷の地へ来て亡くなっているそうで石田氏の墓地へ埋葬されているそうです。 -- 野村庄右衞門 (2017-06-08 14:23:13)
- 先にはFBのフレ申請ありがとうございました。先にいただいた資料だと、石田平八様の家系は西郷庄地頭代の西郷八郎(石谷本家筋)の系統ではないかと推察しています。 -- 図書助 (2017-08-15 16:58:23)
- そういう見方もありますね!なるほど!西郷八郎と平八のハの数字が何かを語っているように見えてきました。 -- 野村庄右衞門 (2017-08-17 01:00:22)
- 石谷政清は来歴的に本家の人間には見えませんし、石谷貞清系は一族中石高TOPでも、政清の4男の3男の家系なので、本家???なので、戻ってきたり霊廟を管理する所が本家筋なのかと。その上で江戸期の縁組や養子等の関係もあると思いますが。 -- 図書助 (2017-08-18 12:41:16)
#comment(disableurl,title_msg=届くか不明なコメント:,vsize=15)
2022-11-27T19:36:43+09:00
1669545403
-
石谷政清とその先祖詳細
https://w.atwiki.jp/eos-gin/pages/20.html
&u(){※注意事項 元号表記は西暦を補足するが、月日は旧暦のまま。}
&u(){※注意事項 生年について直接の資料は無いが(没年-死亡年齢+1(数え年の調整))で算出した。}
&u(){※注意事項 出典は幕府史料>藩史料>地域史料>その他の順で優先する。}
&u(){※注意事項 兄弟、子息など、改名などで判らず重複する可能性はある。}
&u(){※注意事項 現代語訳の間違い誤記等の存在は否定できない。}
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*二階堂行秋(にかいどう ゆきあき)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】二階堂因幡守([[寛永諸家系図伝]])
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】従五位下因幡守([[石ヶ谷家家系図]])
【役職】
【属性】
【実父】?二階堂下総守光貞([[続群書類従]])、?二階堂左衛門尉行朝([[石ヶ谷家家系図]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】二階堂行晴の母([[寛永諸家系図伝]])、二階堂貞宗(頓阿)、二階堂行秋、二階堂行豊([[続群書類従]])
【子息】
【養子】二階堂行晴([[寛永諸家系図伝]])
【法名】行欽([[寛永諸家系図伝]])
【略歴】
【備考】
『[[続群書類従]]』に記載される二階堂下総守光貞(二階堂貞宗(頓阿)の父)の子の二階堂因幡守行秋は法名を行欽とする。泉田氏の家祖である二階堂貞宗の嫡男二階堂因幡守行秋(法名道欽)は、応永元年(1394年)に没したとされる。『[[石ヶ谷家家系図]]』では二階堂左衛門尉行朝(二階堂筑前守行兼の子)が二階堂因幡守行秋の父とされている。この二階堂行秋が遠江国に居たとは特に記載されていない。行秋以前を考察するに当たっては、記録される官位・法名が同じである『[[続群書類従]]』に拠るのが無難であろうか。ただ、『[[石ヶ谷家家系図]]』にある二階堂左衛門尉行朝の後裔というのも、二階堂行朝が陸奥国に進出している事を勘案し、且つ二階堂氏家臣団に遠江出身の家臣が散見される事を考慮すると、信憑性が無いというわけでもない。いずれにしても二階堂氏の系譜は多数存在し、混乱も多く不明瞭である。(図書助論考)
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*二階堂行晴(にかいどう ゆきはる)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】右馬允([[寛永諸家系図伝]])
【生年】応永25年(1418年)(逆算)
【没年】文明16年(1484年)([[寛永諸家系図伝]])
【寿命】67歳([[寛永諸家系図伝]])
【知行】
【官位】従五位下右馬介([[石ヶ谷家家系図]])
【役職】
【属性】
【実父】西郷民部少輔([[寛永諸家系図伝]])
【実母】二階堂行秋の妹([[寛永諸家系図伝]])
【義父】二階堂行秋([[寛永諸家系図伝]])
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】西郷行清、二階堂行捷([[寛永諸家系図伝]])
【養子】
【法名】宗印([[寛永諸家系図伝]])
【略歴】
遠江国西郷荘の住人西郷民部少輔の二男であったが、母である二階堂行秋の妹が二階堂行晴を産んだ後に死亡したので、二階堂行秋が養子として家督を継がせた。([[寛永諸家系図伝]])
【備考】
絶対にありえないというわけでもないが、『[[続群書類従]]』の二階堂行秋とこの二階堂行秋が同一人物だとすると、二階堂行晴の母は二階堂行秋の妹というよりも、年代的には娘の方が合う。母親の父親が記録されておらず、兄とされる二階堂行秋のみが記録されているのも聊か不自然。(図書助論考)
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*西郷行清(さいごう ゆききよ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】太郎大夫([[新訂寛政重修諸家譜]])、民部少輔([[寛永諸家系図伝]])、西郷太郎太夫行清([[袖師町誌]])
【生年】文安3年(1446年)(逆算)
【没年】永正元年9月13日(1504年)([[寛永諸家系図伝]])
【寿命】59歳([[寛永諸家系図伝]])
【知行】1600貫([[袖師町誌]])、遠江国佐野郡石谷西郷五明1006貫。城附近に都合3万石領有。([[石ヶ谷家家系図]])
【官位】朝散太夫(従五位下?)([[石ヶ谷家家系図]])
【役職】
【属性】
【実父】二階堂行晴([[寛永諸家系図伝]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】西郷行清、二階堂行捷([[寛永諸家系図伝]])
【子息】二階堂清長([[寛永諸家系図伝]])、石田左衛門尉行俊(石田家資料)
【養子】
【法名】三休([[寛永諸家系図伝]])
【略歴】
二階堂氏を改め、西郷氏を称する。([[寛永諸家系図伝]])
祖父の西郷民部少輔と同じ民部少輔を称する。([[寛永諸家系図伝]])
【備考】
上西郷村は掛川城の北部にあり、1677石9斗2升の石高である。([[遠江国風土記伝]])
※『([[石ヶ谷家家系図]])』に記載の所領3万石というのは信憑性に乏しい。しかしながら、遠江国佐野郡西郷は西郷荘が置かれる比較的肥沃な土地であり、寛政11年(1799年)頃に記録された『[[遠江国風土記伝]]』にあるように、石谷氏の史跡が残る上西郷村だけでも1677石9斗2升の石高があるので、石谷、西郷、五明の所領を合わせると、1006貫、1600貫、3千石(桁間違いで)と言うのであれば、あり得ないとは言えない。(図書助論考)
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*二階堂清長(にかいどう きよなが)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】左馬助 ([[寛永諸家系図伝]])、行長、左馬介([[石ヶ谷家家系図]])
【生年】文明5年(1473年)(逆算)
【没年】天文2年2月9日(1533年)([[寛永諸家系図伝]])
【寿命】61歳([[寛永諸家系図伝]])
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】
【実父】西郷行清([[寛永諸家系図伝]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石田左衛門尉行俊(石田家資料)
【子息】石谷政清([[寛永諸家系図伝]])
【養子】
【法名】宗月([[寛永諸家系図伝]])
【略歴】
遠江国佐野郡西郷庄石谷村に生まれる。([[寛永諸家系図伝]])
祖父の二階堂行晴に養育され、元服の際に太刀を譲り与えられて二階堂氏を称した。([[寛永諸家系図伝]])
神石9つを以って家紋とした。([[石ヶ谷家家系図]])
【備考】
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*石谷政清(いしがや まさきよ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】十郎右衛門尉([[寛永諸家系図伝]])、十郎右衛門([[干城録]])、石谷重郎左衛門政清([[新編武蔵風土記稿]])、石ヶ谷十郎左衛門政清([[袖師町誌]])、石谷十郎左衛門尉([[石ヶ谷家家系図]])、西郷政清([[看板]])
【生年】文亀3年(1503年)(逆算)
【没年】天正2年4月15日(1574年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】72歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】
【官位】
【役職】西郷十八士の長([[干城録]])
【属性】今川家家臣、徳川家家臣([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】二階堂清長([[寛永諸家系図伝]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】入澤行重、呑説、石谷政信、石谷清定、桑原與三右衛門の妻、石谷清重、乗松彌次右衛門の妻、井伊掃部頭家臣小野田小一郎の妻、桑原政重(新訂寛政重修諸家譜)、高天神城城主小笠原与八郎の妻([[石ヶ谷家家系図]])
【養子】
【法名】龍月道隆([[寛永諸家系図伝]])、和光院殿盛山道隆居士(霊栄大明神社?)([[掛川市誌]])
【略歴】
遠江国佐野郡西郷庄石谷村に生まれる。([[寛永諸家系図伝]])
遠江国佐野郡西郷庄石谷村に居住しており、石谷村の西南方向に大岩があり、その側に八幡の廟があり、石谷政清はこれを崇めて、二階堂氏から石谷氏に改姓した。([[寛永諸家系図伝]])
今川義元の勢力拡大に伴い、その勢力下に入り、西郷十八士の長となった。([[干城録]])
今川氏真に仕えた。([[干城録]])
永禄12年1月26日(1569年)、徳川家康より遠江国飛鳥内一色名の采地を安堵する御黒印を与えられた。([[新訂寛政重修諸家譜]])
元亀2年3月10日(1571年)、嫡男の石谷政信と二男の石谷清定を伴い、徳川家康に召されて仕えた。([[寛永諸家系図伝]])
西郷局の呼称に憚り、石谷を家号とした。([[干城録]])
【備考】
若宮八幡宮との記載がある。([[石ヶ谷家家系図]])
『[[侍中由緒帳]]』から推測すると、小野田小一郎とは小野田為盛と考えられる。(図書助論考)
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*入澤行重(いりさわ ゆきしげ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】五右衛門([[新訂寛政重修諸家譜]])、入沢五右ェ門清宗([[石ヶ谷家家系図]])
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】武田家家臣([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷政清([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】入澤行重、呑説、石谷政信、石谷清定、桑原與三右衛門の妻、石谷清重、乗松彌次右衛門の妻、井伊掃部頭家臣小野田小一郎の妻、桑原政重(新訂寛政重修諸家譜)、高天神城城主小笠原与八郎の妻(石ヶ谷家家系図)
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
入澤を称し、武田家に仕えたという。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
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*呑説(どむせつ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】孤峯呑雪([[新編武蔵国風土記稿>http://www.tesshow.jp/saitama/kumagaya/temple_kamino_ryuen.html]])、種松(出典不明)
【生年】
【没年】文禄3年7月3日(1594年)([[新編武蔵国風土記稿>http://www.tesshow.jp/saitama/kumagaya/temple_kamino_ryuen.html]])
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】太平山天釣院龍淵寺、十二世の住職([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷政清([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】入澤行重、呑説、石谷政信、石谷清定、桑原與三右衛門の妻、石谷清重、乗松彌次右衛門の妻、井伊掃部頭家臣小野田小一郎の妻、桑原政重(新訂寛政重修諸家譜)、高天神城城主小笠原与八郎の妻(石ヶ谷家家系図)
【子息】
【養子】
【法名】呑説([[新訂寛政重修諸家譜]])、呑雪([[新編武蔵国風土記稿>http://www.tesshow.jp/saitama/kumagaya/temple_kamino_ryuen.html]])
【略歴】
西郷氏を称しており、徳川家康が三河にいた際に御乎習の相手を勤めたという。([[新編武蔵国風土記稿>http://www.tesshow.jp/saitama/kumagaya/temple_kamino_ryuen.html]])
出家して武蔵国成田龍淵寺の住職となった。 ([[新訂寛政重修諸家譜]])
天正18年(1590年)、石田三成率いる軍勢が忍城を攻めた際、龍淵寺の僧は一人も篭城に加勢しなかった為、忍城城代成田泰季が三河国出身である住職呑雪の内通を疑ったが、呑雪は、武術は巧みではなく兵糧を減らすだけで役に立たない、敵味方問わずに死者を弔うのが僧侶の務めである、と拒否し、その回答に成田泰季は納得して疑惑を晴らしたという。([[龍淵寺だより第34号>http://ameblo.jp/rotary25703600024/entry-11391745557.html]])
天正18年(1590年)、忍城攻めの際に浅野長政と大谷吉継が呑雪が高徳な僧であるとの噂を聞いたという。大谷吉継の兵が龍淵寺へ強盗に入った際に、呑雪らしき僧が悠然と現れ、欲しいものがあればなんでも持っていきなさいと心地良さそうに言ったため、兵達は何も取らずに帰ったという。これを聞いた浅野長政が徳川家康にこの件を報告したところ、徳川家康より御朱印が下されたが、呑雪は成田氏菩提寺の住職としては敵から御朱印を賜るわけにはいかないと拒否したため、徳川家康の使者は兵達の乱暴狼藉を防ぐためのものであり、新領地の安堵状では無いと言い換えた為、呑雪は御朱印を受け取り、結果龍淵寺が戦禍を受ける事は無かったという。([[龍淵寺だより第35号>http://ameblo.jp/rotary25703600024/entry-11391790814.html]])
天正19年(1591年)、徳川家康が狩りの際に太平山天釣院龍淵寺に立ち寄った際に、古馴染みである住職呑雪と再会し、寺の名前の縁起が良い事を合わせて、曹洞宗一派の総録を許すと言われたが、呑雪は総録の職になると仏道に支障があると辞去した。徳川家康は代わりに100石の寺領を許す御朱印を与えたという。([[新編武蔵国風土記稿>http://www.tesshow.jp/saitama/kumagaya/temple_kamino_ryuen.html]])
碧雲山梅岩院を開山し創建した。([[新編武蔵国風土記稿>http://www.tesshow.jp/saitama/kumagaya/temple_ike_baigan.html]])
【備考】
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*[[戻る>http://www44.atwiki.jp/eos-gin/pages/18.html]]
2022-11-12T19:42:31+09:00
1668249751
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石谷清重系一族詳細
https://w.atwiki.jp/eos-gin/pages/23.html
&u(){※注意事項 元号表記は西暦を補足するが、月日は旧暦のまま。}
&u(){※注意事項 生年について直接の資料は無いが(没年-死亡年齢+1(数え年の調整))で算出した。}
&u(){※注意事項 出典は幕府史料>藩史料>地域史料>その他の順で優先する。}
&u(){※注意事項 兄弟、子息など、改名などで判らず重複する可能性はある。}
&u(){※注意事項 現代語訳の間違い誤記等の存在は否定できない。}
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*石谷清重(いしがや きよしげ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】又大夫([[新訂寛政重修諸家譜]])、又太夫([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])、海野又太夫([[袖師町誌]])、海野又太郎([[静岡県の名字]])
【生年】
【没年】元和9年1月11日(1623年)([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【寿命】
【知行】500石([[袖師町誌]])
【官位】
【役職】書院番([[袖師町誌]])
【属性】徳川秀忠の配下([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【実父】石谷政清([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】入澤行重、呑説、石谷政信、石谷清定、桑原與三右衛門の妻、石谷清重、乗松彌次右衛門の妻、井伊掃部頭家臣小野田小一郎の妻、桑原政重([[新訂寛政重修諸家譜]])、高天神城城主小笠原与八郎の妻([[石ヶ谷家家系図]])
【子息】石谷清春([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])、女子([[石ヶ谷家家系図]])
【養子】
【法名】
【略歴】
慶長5年(1600年)、徳川秀忠に仕え関ヶ原戦の戦いに従軍。([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
幕臣となり書院番を勤める。([[袖師町誌]])
病気のため駿河国安倍郡足久保村に移住。([[袖師町誌]])
【備考】
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*石谷清春([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【呼称】弥兵衛([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])、海野又十郎([[石ヶ谷家家系図]])
【生年】
【没年】万冶3年1月29日(1660年)([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】駿河国安倍郡足久保村の浪人([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【実父】石谷清重([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷清春([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])、女子([[石ヶ谷家家系図]])
【子息】石谷清宣([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])、石谷清勝([[袖師町誌]])、清時、清村([[石ヶ谷家家系図]])
【養子】
【法名】寒松院殿功安善忠居士([[石ヶ谷家家系図]])
【略歴】
駿河国安倍郡足久保村の浪人であった。([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【備考】
『[[石ヶ谷家家系図]]』では子に清村とあるが、『石田家資料』では清村の記載はなく、権太郎之助清乗という名前がある。
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*石谷清勝([[袖師町誌]])
【呼称】弥兵衛([[袖師町誌]])
【生年】
【没年】正徳6年2月8日(1716年)([[袖師町誌]])
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】
【実父】石谷清春([[袖師町誌]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷清宣([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])、石谷清勝([[袖師町誌]])、清時、清村([[石ヶ谷家家系図]])
【子息】女子、清房、清冬、女子、女子、女子、女子、女子、石谷清升([[石ヶ谷家家系図]])
【養子】
【法名】禅得現清信士([[袖師町誌]])
【略歴】
【備考】
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*石谷清升([[袖師町誌]])
【呼称】
【生年】
【没年】寛文7年10月7日(1667年)([[石ヶ谷家墓標]])
【寿命】
【知行】100石([[袖師町誌]])
【官位】
【役職】
【属性】朽木周防守(6000石旗本)の家臣([[袖師町誌]])
【実父】石谷清勝([[袖師町誌]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】女子、清房、清冬、女子、女子、女子、女子、女子、石谷清升([[石ヶ谷家家系図]])
【子息】
【養子】五郎兵衛([[石ヶ谷家家系図]])?
【法名】松室桂岩上座([[石ヶ谷家家系図]])
【略歴】
名字の相続のため、嫡孫を養子とした。([[石ヶ谷家家系図]])
朽木周防守(6000石旗本)の家臣となったが、病気のため駿河国に退去した。([[袖師町誌]])
【備考】
『[[石ヶ谷家家系図]]』では子の代は不詳となっており、横に西郷左衛門、五郎兵衛、源八の添書きがある。([[石ヶ谷家家系図]])
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*石谷清宣([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【呼称】又太夫([[藩士名寄]])
【生年】
【没年】宝永2年1月27日(1705年)([[藩士名寄]])
【寿命】
【知行】200石([[藩士名寄]])
【官位】
【役職】尾張藩附家老成瀬隼人正の同心([[藩士名寄]])
【属性】尾張藩士 慶安以後新参衆([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【実父】石谷清春([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷清宣([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])、石谷清勝([[袖師町誌]])、清時、清村([[石ヶ谷家家系図]])
【子息】石谷清紹、石谷清光([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【養子】
【法名】一宇([[藩士名寄]])
【略歴】
寛永14年(1637年)、石谷貞清に従い島原の乱に従軍する。([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
尾張藩主徳川光友に召出され、附家老成瀬隼人正の同心となり200石を賜る。([[藩士名寄]])
元禄7年閏5月13日(1694年)、隠居。([[藩士名寄]])
【備考】
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*石谷清紹([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【呼称】又太夫([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])、又五郎([[藩士名寄]])
【生年】
【没年】延享元年7月8日(1744年)([[藩士名寄]])
【寿命】
【知行】200石([[藩士名寄]])
【官位】
【役職】尾張藩附家老成瀬隼人正の同心([[藩士名寄]])
【属性】尾張藩士 慶安以後新参衆([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【実父】石谷清宣([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷清紹、石谷清光([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【子息】石谷清章、加藤貞四郎の妻([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【養子】
【法名】道宇([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【略歴】
延宝5年(1677年)、御目見。([[藩士名寄]])
元禄7年閏5月13日(1694年)、石谷清宣の家督を相続し、尾張藩附家老成瀬隼人正の同心となる。([[藩士名寄]])
享保14年6月15日(1729年)、隠居([[藩士名寄]])
【備考】
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*石谷清章([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【呼称】長右衛門、又太夫([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】200石([[藩士名寄]])
【官位】
【役職】尾張藩附家老成瀬隼人正の同心([[藩士名寄]])
【属性】尾張藩士 慶安以後新参衆([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【実父】石谷清紹([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷清章、加藤貞四郎の妻([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【子息】石谷清行、石谷清生、清賀(西郷又吉)、元政(石谷鍋四郎)([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【養子】
【法名】
【略歴】
宝永6年8月29日(1709年)、御目見。([[藩士名寄]])
享保14年6月15日(1729年)、石谷清紹の家督を相続し、又太夫と改名を命じられ、尾張藩附家老成瀬隼人正の同心となる。([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
延享4年7月27日(1747年)、病気のため隠居。([[藩士名寄]])
【備考】
----
*石谷清行([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【呼称】又助([[藩士名寄]])
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】250石([[藩士名寄]])
【官位】
【役職】尾張藩附家老成瀬隼人正の同心([[藩士名寄]])
【属性】尾張藩士 慶安以後新参衆([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【実父】石谷清章([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷清行、石谷清生、清賀(西郷又吉)、元政(石谷鍋四郎)([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【子息】石谷又十郎([[藩士名寄]])
【養子】
【法名】
【略歴】
享保15年3月1日(1730年)、御目見。([[藩士名寄]])
延享4年7月27日(1747年)、成瀬隼人正の願い出によって、石谷清行が父の家督200石を相続し、成瀬隼人正の同心として配された。([[藩士名寄]])
明和8年2月6日(1771年)、常心流馬術の師範役を良く勤めた事で、明和年間中に50石を加増する事は成瀬隼人正に任せると命じられた。([[藩士名寄]])
天明5年2月(1785年)、病気のため隠居。([[藩士名寄]])
【備考】
『石田家資料』においては、子に弥兵衛清郎とあるが、又十郎の事かは不明。
----
*石谷又十郎([[藩士名寄]])
【呼称】又十郎([[藩士名寄]])
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】250石([[藩士名寄]])
【官位】
【役職】尾張藩附家老成瀬隼人正の同心、御馬乗、御馬預([[藩士名寄]])
【属性】尾張藩士([[藩士名寄]])
【実父】石谷清行([[藩士名寄]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】石谷孫三郎(次男)([[藩士名寄]])
【養子】石谷庄五郎(婿養子、酒井林左衛門の次男)([[藩士名寄]])
【法名】
【略歴】
明和8年9月23日(1771年)、御目見。([[藩士名寄]])
天明5年2月(1785年)、父の家督250石を相続し成瀬隼人正の同心とする旨、成瀬隼人正に任せると命じられた。([[藩士名寄]])
寛政5年1月9日(1793年)、御馬乗に命じられる。([[藩士名寄]])
享和3年3月(1803年)、息子が居なかったため酒井林左衛門の次男である庄五郎を養子とする。([[藩士名寄]])
文化14年1月(1817年)、働きが良いとの事で、白銀3枚を拝領する。([[藩士名寄]])
文化14年1月(1817年)、馬術ならびに御馬乗立方を良く勤め、白銀5枚を拝領する。([[藩士名寄]])
文政元6月12日(1818年)、御馬預を命じられる。([[藩士名寄]])
文政4年2月6日(1821年)、物覚えが悪くなった為に仕事に支障が無いか心配となり御役御免を願出たが、馬術が特別巧かったために特別待遇をし、乗方についてはこれまで通り勤めるように命じられた。([[藩士名寄]])
文政4年6月(1821年)、次男の孫三郎を大番組の松田庄太夫の婿養子とした。([[藩士名寄]])
文政12年4月22日(1829年)、病気のため御役御免を願出たが許してもらえなかった。乗方は解任となったが馬術が特別巧いので、病気から快復したら、御厩へ出頭させ御馬預や御馬乗立方などに任じたい旨を申し付けられた。([[藩士名寄]])
文政12年4月22日(1829年)、乗方は御役御免となったが、病気から快復したら御厩へ出頭する事になったので、普請役は半分勤めれば良いと命じられた。([[藩士名寄]])
【備考】
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*石谷庄五郎([[藩士名寄]])
【呼称】又太夫([[藩士名寄]])
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】83表([[藩士名寄]])
【官位】
【役職】御馬乗見習、御馬乗並、御馬方見習、御馬方並、御馬方本役([[藩士名寄]])
【属性】尾張藩士([[藩士名寄]])
【実父】酒井林左衛門([[藩士名寄]])
【実母】
【義父】石谷又十郎([[藩士名寄]])
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷庄五郎(婿養子、酒井林左衛門の次男)([[藩士名寄]])、石谷孫三郎(義弟)([[藩士名寄]])
【子息】石谷又三郎 ([[藩士名寄]])
【養子】
【法名】
【略歴】
享和3年3月(1803年)、石谷又十郎の願出により婿養子となる。([[藩士名寄]])
文化2年5月1日(1805年)、御目見。([[藩士名寄]])
文化8年12月27日(1812年)、御馬乗見習を命じられ、3人扶持を与えられる。([[藩士名寄]])
文化11年1月11日(1814年)、2人分の扶持を加増される。([[藩士名寄]])
文化11年12月(1815年)、又太夫と改名する。([[藩士名寄]])
文化14年1月17日(1817年)、御馬乗並に任じされ、切米30俵を加えられ、50俵取りとなった。([[藩士名寄]])
文政3年1月13日(1820年)、御馬方見習に任じられた。([[藩士名寄]])
文政6年1月11日(1823年)、御馬方並に任じられ、72俵取りに加増された。([[藩士名寄]])
文政10年1月11日(1827年)、御馬方本役に任じられ、83表取りに加増された。([[藩士名寄]])
【備考】
----
*石谷孫三郎([[藩士名寄]])
【呼称】
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】尾張藩士([[藩士名寄]])
【実父】石谷又十郎([[藩士名寄]])
【実母】
【義父】松田庄太夫([[藩士名寄]])
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷庄五郎(義兄、酒井林左衛門の次男)([[藩士名寄]])、石谷孫三郎([[藩士名寄]])
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
文政2年(1819年)8月25日、御目見。([[藩士名寄]])
文政4年6月(1821年)、大御番組松田庄太夫の婿養子となる。([[藩士名寄]])
【備考】
----
*石谷又三郎([[藩士名寄]])
【呼称】
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】5人扶持([[藩士名寄]])
【官位】
【役職】御馬乗見習([[藩士名寄]])
【属性】尾張藩士([[藩士名寄]])
【実父】石谷庄五郎([[藩士名寄]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
文政8年8月15日(1825年)、御目見。([[藩士名寄]])
文政11年9月18日(1828年)、御馬乗見習に任じられ、3人扶持を与えられる。([[藩士名寄]])
天保2年1月18日(1831年)、2人扶持分を加増される。([[藩士名寄]])
【備考】
----
*石谷十左衛門([[藩士名寄]])
【呼称】
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】300石([[藩士名寄]])
【官位】
【役職】御馬廻組、御馬廻小頭([[藩士名寄]])
【属性】駿河国安倍郡足久保村の浪人、尾張藩士([[藩士名寄]])
【実父】石谷弥兵衛([[藩士名寄]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
寛文4年(1664年)、召出し。([[藩士名寄]])
寛文4年5月(1664年)、御目見。切米70石を賜る。([[藩士名寄]])
寛文5年(1665年)、地方300石を与えられ、御馬廻組に任じられる。([[藩士名寄]])
延宝2年6月25日(1674年)、安倍勘兵衛の跡、御馬廻小頭を命じられる。([[藩士名寄]])
【備考】
石谷弥兵衛清勝(正徳6年2月8日(1716年)死没)の子に、十左衛門清房という名前がある。([[石ヶ谷家家系図]])
----
*石谷清光([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【呼称】久五郎、浅之右衛門([[藩士名寄]])
【生年】
【没年】元禄16年1月18日(1703年)([[藩士名寄]])
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】五十人組([[藩士名寄]])
【属性】尾張藩士([[藩士名寄]])
【実父】石谷清宣([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷清紹、石谷清光([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
貞享5年6月15日(1688年)、御目見。([[藩士名寄]])
元禄10年9月4日(1697年)、五十人組に召出され、扶持を賜る。([[藩士名寄]])
【備考】
----
*石谷清生([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【呼称】長右衛門、弥八郎([[藩士名寄]])
【生年】
【没年】天明元年5月24日(1781年)([[藩士名寄]])
【寿命】
【知行】切米18石、3人扶持([[藩士名寄]])
【官位】
【役職】五十人組並役、五十人組本役、恭姫様御侍([[藩士名寄]])
【属性】尾張藩士([[藩士名寄]])
【実父】石谷清章([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷清行、石谷清生、清賀(西郷又吉)、元政(石谷鍋四郎)([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【子息】石谷繁八([[藩士名寄]])
【養子】
【法名】
【略歴】
元文4年8月6日(1739年)、指矢前の稽古を良くしていたので、稽古料として毎年銀10枚を与えるので、良く稽古に励むように命じられた。([[藩士名寄]])
寛保4年2月6日(1744年)、指矢前の稽古を良くしていたので、稽古料として銀5枚を加増された。([[藩士名寄]])
宝暦2年1月25日(1752年)、五十人組並役に任じられ、切米15石3人扶持を与えられた。([[藩士名寄]])
宝暦2年2月5日(1752年)、長右衛門と改名。([[藩士名寄]])
宝暦6年1月26日(1756年)、五十人組本役に任じられ、切米3石を加増され、合計切米18石となった。([[藩士名寄]])
宝暦12年2月14日(1762年)、恭姫様御侍を命じられ御付御附属となった。([[藩士名寄]])
【備考】
----
*石谷繁八([[藩士名寄]])
【呼称】清員(石田家資料)
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】切米140俵([[藩士名寄]])
【官位】
【役職】小十人組並、小十人組、赤麾、新御番並、組目付、新御番本役、新御番組頭、長囲炉裏御番([[藩士名寄]])
【属性】尾張藩士([[藩士名寄]])
【実父】石谷清生([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】石谷喜太郎([[藩士名寄]])
【養子】
【法名】
【略歴】
天明元年10月26日(1781年)、御憐愍により3人扶持を賜る。([[藩士名寄]])
天明2年2月25日(1782年)、御目見。([[藩士名寄]])
寛政10年12月14日(1799年)、小十人組並に任じられ、切米15石3人扶持を与えられる。([[藩士名寄]])
享和3年1月22日(1803年)、小十人組に任じられ、8俵を御役高として加増される。([[藩士名寄]])
文化元年6月22日(1804年)、赤麾に任じられる。([[藩士名寄]])
文化6年2月4日(1809年)、新御番並に任じられる。([[藩士名寄]])
文化10年9月(1813年)、組目付の兼務を申し渡される。([[藩士名寄]])
文化13年11月18日(1816年)、新御番本役に任じられ、6俵を御役高として加えられる。([[藩士名寄]])
文政2年1月11日(1819年)、小十人組頭に任じられ、100俵に加増される。([[藩士名寄]])
文政7年1月11日(1824年)、140俵に加増される。([[藩士名寄]])
文政11年9月12日(1828年)、雑賀藤右衛門の跡、新御番組頭に任じられる。([[藩士名寄]])
天保3年5月10日(1832年)、長囲炉裏御番に任じられる。([[藩士名寄]])
【備考】
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*石谷喜太郎([[藩士名寄]])
【呼称】喜太八([[藩士名寄]])、清武(石田家資料)
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】尾張藩士([[藩士名寄]])
【実父】石谷繁八([[藩士名寄]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】清則(石田家資料)
【養子】
【法名】
【略歴】
文化14年8月15日(1817年)、御目見。([[藩士名寄]])
文政7年12月(1825年)、喜太八と改名。([[藩士名寄]])
【備考】
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*石谷元政([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【呼称】石谷鍋四郎、又左衛門([[藩士名寄]])
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】尾張藩士([[藩士名寄]])
【実父】石谷清章([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【実母】
【義父】竹居郷右衛門([[藩士名寄]])
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷清行、石谷清生、清賀(西郷又吉)、元政(石谷鍋四郎)([[名古屋叢書続編 士林泝洄]])
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
宝暦7年6月(1757年)、佐々鍋四郎より本苗石谷に改める。([[藩士名寄]])
明和3年6月18日(1766年)、又左衛門と改名。([[藩士名寄]])
明和4年4月26日(1767年)、成瀬隼人正同心竹居郷右衛門の願出により、聟養子となる。([[藩士名寄]])
【備考】
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*石谷豊之進([[藩士名寄]])
【呼称】
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】尾張藩士([[藩士名寄]])
【実父】
【実母】
【義父】木村郷左衛門([[藩士名寄]])
【妻室】
【後妻】
【兄弟】木村惣右衛門(石川靭負同心)([[藩士名寄]])
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
正徳元年8月26日(1711年)、御目見。([[藩士名寄]])
正徳2年6月9日(1712年)、竹腰山城守同心で伯父の木村郷左衛門の願出により養子となる。([[藩士名寄]])
【備考】
母方の苗字を名乗る。([[藩士名寄]])
石谷とはあるが、遠江石谷氏の一族かは不明。(図書助論考)
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*[[戻る>http://www44.atwiki.jp/eos-gin/pages/18.html]]
2022-11-08T02:12:50+09:00
1667841170
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石谷清定系一族詳細
https://w.atwiki.jp/eos-gin/pages/21.html
&u(){※注意事項 元号表記は西暦を補足するが、月日は旧暦のまま。}
&u(){※注意事項 生年について直接の資料は無いが(没年-死亡年齢+1(数え年の調整))で算出した。}
&u(){※注意事項 出典は幕府史料>藩史料>地域史料>その他の順で優先する。}
&u(){※注意事項 兄弟、子息など、改名などで判らず重複する可能性はある。}
&u(){※注意事項 現代語訳の間違い誤記等の存在は否定できない。}
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*石谷清定 (五郎大夫)(いしがや きよさだ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】五郎大夫([[新訂寛政重修諸家譜]])、五郎太夫([[石ヶ谷家家系図]])
【生年】天文16年(1547年)(逆算)
【没年】慶長6年5月2日(1601年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】55歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】250石(武蔵国多摩郡)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【官位】
【役職】大番([[新訂寛政重修諸家譜]])
【属性】徳川家康の配下、旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷政清([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】
【義父】
【妻室】今川家家臣久嶋與平の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】
【兄弟】入澤行重、呑説、石谷政信、石谷清定、桑原與三右衛門の妻、石谷清重、乗松彌次右衛門の妻、井伊掃部頭家臣小野田小一郎の妻、桑原政重([[新訂寛政重修諸家譜]])、高天神城城主小笠原与八郎の妻([[石ヶ谷家家系図]])
【子息】石谷清平、野間与五右衛門政次の妻、久嶋權右衛門の妻、石谷清正、石谷貞清([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】
【法名】道無([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
遠江国で生まれる。([[干城録]])
元亀2年3月10日(1571年)、石谷政清、石谷政信とともに徳川家康に仕え、大番となった。([[新訂寛政重修諸家譜]])
天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封に従い、武蔵国多摩郡に領地250石を賜った。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
石谷清定 (五郎大夫)の子孫は代々雲松山泉龍寺を菩提寺とした。([[新訂寛政重修諸家譜]])
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*石谷清平(いしがや きよひら)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】久五郎([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】
【没年】文禄元年5月10日(1593年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】徳川家康の配下([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷清定 (五郎大夫)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】今川家家臣久嶋與平の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷清平、野間与五右衛門政次の妻、久嶋權右衛門の妻、石谷清正、石谷貞清([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】
【養子】
【法名】道雲([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
遠江国で生まれる。([[干城録]])
文禄元年(1593年)、徳川家康に仕え、供として肥前国名護屋に赴いた。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
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*石谷清正(いしがや きよまさ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】友之助、清政([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】天正16年(1588年)(逆算)
【没年】明暦2年10月13日(1656年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】69歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】1100石(武蔵国多摩、上総国武射、下総国香取、甲斐国山梨)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【官位】
【役職】御小姓、御徒頭([[新訂寛政重修諸家譜]])
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷清定 (五郎大夫)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】今川家家臣久嶋與平の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【義父】
【妻室】尾張徳川家家臣松井石見の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】
【兄弟】石谷清平、野間与五右衛門政次の妻、久嶋權右衛門の妻、石谷清正、石谷貞清([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】石谷清亮([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】
【法名】宗淳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
遠江国で生まれる。([[干城録]])
慶長7年(1602年)、15歳の時に父である石谷清定 (五郎大夫)の跡を継ぎ、徳川家康に仕え御小姓となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
御徒頭となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
元和2年(1616年)、徳川秀忠に仕え、また徳川家光に仕える。([[干城録]])
寛永10年12月27日(1634年)、500石を賜る。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛永16年5月13日(1639年)、致仕する。([[新訂寛政重修諸家譜]])
致仕する前に350石を賜っており、武蔵国多摩、上総国武射、下総国香取、甲斐国山梨四郡の知行地で合計1100石を所領とした。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
----
*石谷清亮(いしがや きよみつ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】清充([[寛永諸家系図伝]])、七之助、清明([[新訂寛政重修諸家譜]])、清光([[干城録]])
【生年】元和2年(1616年)(逆算)
【没年】元禄8年1月27日(1695年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】80歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】
【官位】
【役職】小姓組番士、進物役、屋敷改、小普請([[新訂寛政重修諸家譜]])
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷清正([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】尾張徳川家家臣松井石見の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【義父】
【妻室】中山勘解由直定の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】
【兄弟】石谷清亮([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】高木忠右衛門定清の妻、五味藤九郎豊旨の妻、石谷清信、石谷清長、石谷十兵衛清宗([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】
【法名】了休([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
尾張国で生まれる。([[干城録]])
寛永10年8月15日(1633年)、小姓組番士となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛永20年6月9日(1643年)、進物役となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
明暦2年12月21日(1657年)、父である石谷清正の家督相続。([[新訂寛政重修諸家譜]])
万治3年12月31日(1661年)、以前に増上寺の知恩院の庵室を作る時に奉行となった褒賞として、時服三領、黄金二枚を賜る。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛文3年(1663年)、進物役を解かれる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛文8年7月1日(1668年)、寛文8年(1668年)に京極高盛が但馬国豊岡へ転封となった事に関連して、同地に命令を受けて行く。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛文11年2月(1671年)、屋敷改を勤める。([[新訂寛政重修諸家譜]])
延宝元年7月7日(1673年)、屋敷改を解かれる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
貞享元年11月25日(1684年)、小普請となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
元禄7年7月10日(1694年)、致仕。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
----
* 石谷清信(いしがや きよのぶ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】九八郎([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】正保3年(1646年)(逆算)
【没年】元禄9年4月15日(1696年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】51歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】
【官位】
【役職】書院番([[新訂寛政重修諸家譜]])
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷清亮([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】中山勘解由直定の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【義父】
【妻室】浅野民部氏恒の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】
【兄弟】高木忠右衛門定清の妻、五味藤九郎豊旨の妻、石谷清信、石谷清長、石谷十兵衛清宗([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】石谷清職の妻、石谷清定 (兵四郎)の妻(後に蜂屋豊後守貞廷の妻)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】石谷清職(娘婿)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【法名】宗聖([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
寛文6年(1666年)、徳川家綱に拝謁する。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛文7年11月21日(1668年)、書院番となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
元禄7年7月10日(1694年)、父である石谷清亮の家督相続。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
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*石谷清職(いしがや きよもと)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】杢之助、眞元([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】寛文9年(1669年)(逆算)
【没年】享保6年9月23日(1721年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】53歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】(甲斐国山梨?→駿河国有渡、安倍へ領地替)
【官位】布衣([[新訂寛政重修諸家譜]])
【役職】書院番番士、使番、御目付、二ノ丸留守居、御先銕炮頭([[新訂寛政重修諸家譜]])
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】永井彦兵衛元孝([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】玉虫助大夫重茂の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【義父】石谷清信([[新訂寛政重修諸家譜]])
【妻室】石谷清信の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】堀織部利安の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【兄弟】石谷清職の妻、石谷清定 (兵四郎)の妻(後に蜂屋豊後守貞廷の妻)(義妹)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】石谷清胤、堀織部利安の養女、石谷清候、松平太郎親元の妻([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】
【法名】道起([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
永井彦兵衛元孝の4男として生まれる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
元禄9年7月9日(1696年)、養父である石谷清信の家督相続。([[新訂寛政重修諸家譜]])
元禄9年8月13日(1696年)、徳川綱吉に御目見。([[新訂寛政重修諸家譜]])
元禄16年3月9日(1703年)、書院番番士となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
宝永2年(1705年)、甲斐国の領地を駿河国有渡安倍二郡へ移される。([[新訂寛政重修諸家譜]])
宝永3年1月27日(1706年)、元禄赤穂事件により諏訪忠虎のところで幽閉されていた吉良義周(吉良義央の孫)が病死したため、信濃国諏訪に赴き検使を務めた。([[新訂寛政重修諸家譜]])
宝永5年7月25日(1708年)、使番となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
宝永5年12月18日(1709年)、布衣を許される。([[新訂寛政重修諸家譜]])
宝永7年1月11日(1710年)、御目付となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
正徳元年7月18日(1711年)、評定所での勤務を賞され端物二端を賜る。([[新訂寛政重修諸家譜]])
正徳4年1月11日(1714年)、二ノ丸留守居となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保元年3月22日(1716年)、御先銕炮頭となった。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
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*石谷清胤(いしがや きよたね)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】友之助([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】元禄9年(1696年)(逆算)
【没年】享保14年9月24日(1729年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】34歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】
【官位】
【役職】書院番番士([[新訂寛政重修諸家譜]])
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷清職([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】石谷清信の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【義父】
【妻室】倉橋内匠助久富の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】
【兄弟】石谷清胤、堀織部利安の養女、石谷清候、松平太郎親元の妻([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】
【養子】石谷清候([[新訂寛政重修諸家譜]])
【法名】自性([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
宝永6年9月28日(1709年)、徳川家宣に御目見。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保6年11月28日(1722年)、父である石谷清職の家督相続。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保9年10月9日(1724年)、書院番番士となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
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*石谷清候(いしがや きよとも)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】七十郎、七之助([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】宝永5年(1708年)(逆算)
【没年】享保20年10月27日(1735年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】28歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】
【官位】
【役職】小姓組([[新訂寛政重修諸家譜]])
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷清職([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷清胤、堀織部利安の養女、石谷清候、松平太郎親元の妻([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】
【養子】石谷清馨([[新訂寛政重修諸家譜]])
【法名】了輝([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
享保14年12月2日(1730年)、死亡した兄である石谷清胤の家督相続。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保15年4月1日(1730年)、徳川吉宗に御目見。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保20年7月12日(1735年)、御小姓組に列した。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
父の石谷清職は永井彦兵衛元孝の子であり、母は不明のため、石谷氏の血が繋がっているかは不明。(図書助論考)
養子である石谷清馨は、同族で700石旗本の石谷清夤の子である。([[新訂寛政重修諸家譜]])
----
*石谷清馨(いしがや きよか)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】八十次郎([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】享保9年(1724年)(逆算)
【没年】明和7年3月23日(1770年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】47歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】
【官位】
【役職】西ノ丸書院番、進物役([[新訂寛政重修諸家譜]])
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷清夤([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】新井白石の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【義父】石谷清候([[新訂寛政重修諸家譜]])
【妻室】能勢惣十郎頼以の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】高嶋近江守廣行の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【兄弟】石谷清盈、銕次郎、女子、石谷清馨(石谷清候の養子となる)、兵三郎、石谷清茂、石谷清憐(兄の石谷清馨の養子となる)(新訂寛政重修諸家譜)
【子息】
【養子】石谷清憐([[新訂寛政重修諸家譜]])
【法名】有道([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
石谷清夤の3男として生まれる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保20年12月22日(1736年)、養父である石谷清候の家督相続。([[新訂寛政重修諸家譜]])
宝暦2年年8月13日(1752年)、西ノ丸書院番となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
宝暦6年10月13日(1756年)、進物役となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
父の石谷清夤は700石旗本で、その先祖は石谷清定 (五郎大夫)。([[新訂寛政重修諸家譜]])
石谷清定 (五郎大夫)→石谷清正→石谷清亮→石谷清長→石谷清夤→石谷清馨(図書助論考)
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*石谷清憐(いしがや きよとも)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】大助([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】延享3年(1746年)(逆算)
【没年】寛政8年9月4日(1796年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】51歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】
【官位】
【役職】書院番([[新訂寛政重修諸家譜]])
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷清夤([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】
【義父】石谷清馨([[新訂寛政重修諸家譜]])
【妻室】土岐大隅守頼常の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】
【兄弟】石谷清盈、銕次郎、女子、石谷清馨(石谷清候の養子となる)、兵三郎、石谷清茂、石谷清憐(兄の石谷清馨の養子となる)(新訂寛政重修諸家譜)
【子息】石谷清英の妻(後に石谷清暠の妻)、女子、女子、女子([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】石谷清英、石谷清暠([[新訂寛政重修諸家譜]])
【法名】松道([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
石谷清夤の6男として生まれる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
兄の石谷清馨が重病のため、その養子となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
明和7年6月5日(1770年)、兄である石谷清馨の家督相続。([[新訂寛政重修諸家譜]])
安永4年4月14日(1775年)、書院番となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
安永5年4月(1776年)、徳川家治の日光社参に従う。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
父の石谷清夤は700石旗本で、その先祖は石谷清定 (五郎大夫)。([[新訂寛政重修諸家譜]])
石谷清定 (五郎大夫)→石谷清正→石谷清亮→石谷清長→石谷清夤→石谷清憐(図書助論考)
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*石谷清英(いしがや きよふさ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】重固、英次郎([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】旗本([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【実父】牧野主税成融([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】
【義父】石谷清憐([[新訂寛政重修諸家譜]])
【妻室】石谷清憐の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】
【兄弟】石谷清英、※石谷清暠、石谷清英の妻(後に石谷清暠の妻)、女子(義妹)、女子(義妹)、女子(義妹)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
永井飛騨守直期の4男である牧野主税成融の子として生まれる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
石谷清憐の養子となりその娘を妻としたが、石谷清憐に先立って死ぬ。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
石谷清憐の娘は石谷清英を婿としたが夫が早世したため、新たに石谷清暠を婿とした。([[新訂寛政重修諸家譜]])
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*石谷清暠(いしがや きよあき)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】庄之助([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】明和7年(1770年)(逆算)
【没年】
【寿命】
【知行】1100石(駿河国、武蔵国、上総国、下総国)([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【官位】
【役職】
【属性】旗本([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【実父】神田數馬正之([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】
【義父】石谷清憐([[新訂寛政重修諸家譜]])
【妻室】石谷清憐の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】
【兄弟】※石谷清英、石谷清暠、石谷清英の妻(後に石谷清暠の妻)、女子(義妹)、女子(義妹)、女子(義妹)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
神田數馬正之の4男として生まれる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
石谷清憐の死の間際に養子となり、その娘(石谷清英の未亡人)を妻とする。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛政8年12月3日(1796年)、27歳の時、養父である石谷清憐の家督相続。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛政9年2月9日(1797年)、徳川家斉に御目見。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
石谷清憐の娘は石谷清英を婿としたが夫が早世したため、新たに石谷清暠を婿とした。([[新訂寛政重修諸家譜]])
石谷清暠の家系の家督について、『[[寛政譜以降旗本家百科事典]]』に拠れば『弘化5年武鑑』において、石谷主水(小姓組)を父とする石谷清倚が相続している。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
石谷清暠と石谷主水が同一人物であるか否かは不明である。(図書助論考)
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*石谷清倚(いしがや せいき)([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【呼称】友之助([[寛政譜以降旗本家百科事典]])、友助、大助([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】1100石(駿河国、武蔵国、上総国、下総国)([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【官位】
【役職】西ノ丸書院番、使番、寄合([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【属性】旗本([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【実父】?石谷主水([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】
【養子】石谷帯刀([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【法名】
【略歴】
天保15年1月11日(1844年)、西ノ丸書院番より使番となる。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
嘉永元年5月27日(1848年)、職を辞す。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
安政元年(1855年)、寄合であったという。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
明治元年5月(1868年)、上野戦争において狛江市和泉村を知行していた石谷清倚が、入間村の御用商人油屋清兵衛の道案内を受け、菩提寺の泉龍寺まで退去した。([[狛江市役所>http://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/28,806,138,52,html]])
【備考】
『[[寛政譜以降旗本家百科事典]]』に拠れば、石谷清倚は石谷清暠の家系の家督相続をしているが、父は石谷主水(『弘化5年武鑑』)となっている。石谷清暠が主水を称したかどうか不明であり、或いは石谷清暠の子に石谷主水というものが居たのか不明のため、その関係は不明である。(図書助論考)
『石田家資料』によれば、石谷清倚の後は大助清寧-鉄之介清成-良次郎正雄-倉太郎-潔-清隆と続くが、大助清寧が帯刀の事かは不明である。(図書助論考)
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*石谷帯刀(いしがや たてわき)([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【呼称】主水([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】1100石(駿河国、武蔵国、上総国、下総国)([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【官位】
【役職】小普請、小姓組、中奥番([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【属性】旗本([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【実父】丹羽空閑斉([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【実母】
【義父】石谷清倚([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
安政3年7月26日(1856年)、家督相続、小普請に入る。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
安政5年5月29日(1858年)小姓組に入る。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
万延元年12月11日(1861年)、に中奥番となる。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
年代不詳であるが、『元治元年武鑑』では御役御免になったとされる。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【備考】
『[[寛政譜以降旗本家百科事典]]』に記載の(実祖父)丹羽式部少輔・大阪使番(大名)、(実父)丹羽空閑斉、は、祖父が三草藩藩主の丹羽氏栄、父は丹羽氏栄の養子の丹羽氏福ということであろうか。また、(養祖父)石谷主水・小姓組、(養父)石谷友助・寄合については、養父が石谷清倚であろう。年齢についても申49歳の記載はあるが、いつの時点の年齢か不明。wikipediaの丹羽氏福の項に、その十男として石合清敦の記載があるが、石谷帯刀の事であろうか。(図書助論考)
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*[[戻る>http://www44.atwiki.jp/eos-gin/pages/18.html]]
2022-11-08T02:06:15+09:00
1667840775
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石谷政信系一族詳細
https://w.atwiki.jp/eos-gin/pages/19.html
&u(){※注意事項 元号表記は西暦を補足するが、月日は旧暦のまま。}
&u(){※注意事項 生年について直接の資料は無いが(没年-死亡年齢+1(数え年の調整))で算出した。}
&u(){※注意事項 出典は幕府史料>藩史料>地域史料>その他の順で優先する。}
&u(){※注意事項 兄弟、子息など、改名などで判らず重複する可能性はある。}
&u(){※注意事項 現代語訳の間違い誤記等の存在は否定できない。}
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*石谷政信(いしがや まさのぶ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】十右衛門尉([[寛永諸家系図伝]])、十右衛門([[新訂寛政重修諸家譜]])、十右ェ門([[石ヶ谷家家系図]])
【生年】天文14年(1545年)(逆算)
【没年】元和5年6月5日(1619年)([[寛永諸家系図伝]])、元和5年10月8日(1619年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】75歳([[寛永諸家系図伝]])
【知行】200石(武蔵国多摩郡)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【官位】
【役職】
【属性】徳川家康の配下、徳川秀忠の配下、旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷政清([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】入澤行重、呑説、石谷政信、石谷清定、桑原與三右衛門の妻、石谷清重、乗松彌次右衛門の妻、井伊掃部頭家臣小野田小一郎の妻、桑原政重([[新訂寛政重修諸家譜]])、高天神城城主小笠原与八郎の妻([[石ヶ谷家家系図]])
【子息】戸塚作右衛門忠之の妻、喜左衛門、石谷政勝、小野田小一郎為一、小野久兵衛の妻、十兵衛、武嶋市郎兵衛茂正の妻([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】
【法名】良完([[寛永諸家系図伝]])、良石([[新訂寛政重修諸家譜]])、良古([[干城録]])
【略歴】
遠江国で生まれる。([[干城録]])
元亀2年3月10日(1571年)、石谷政清、石谷清定(五郎大夫)とともに徳川家康に仕えた。([[新訂寛政重修諸家譜]])
天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封に従い、武蔵国多摩郡に領地200石を賜った。([[新訂寛政重修諸家譜]])
慶長10年2月(1605年)、徳川秀忠に仕えた。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
石谷政信の子孫は代々雲松山泉龍寺を菩提寺とした。([[新訂寛政重修諸家譜]])
小野田小一郎為一は小野田小一郎為躬と同一人物として記載される。([[侍中由緒帳]])
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*石谷政勝(いしがや まさかつ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】市右衛門([[新訂寛政重修諸家譜]])、市右衛門尉([[寛永諸家系図伝]])
【生年】天正12年(1584年)(逆算)
【没年】寛文3年9月8日(1663年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】80歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】500石(武蔵国幡羅郡200石、下野国都賀郡300石)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【官位】
【役職】小姓組番士、大番、御裏門番頭([[新訂寛政重修諸家譜]])
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷政信([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】
【義父】
【妻室】青木五左衛門高頼の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】
【兄弟】戸塚作右衛門忠之の妻、喜左衛門、石谷政勝、小野田小一郎為一、小野久兵衛の妻、十兵衛、武嶋市郎兵衛茂正の妻([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】石谷成勝、春日佐次右衛門家定の妻、三空([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】
【法名】不絶([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
遠江国で生まれる。([[干城録]])
慶長6年(1601年)、徳川秀忠に拝謁し、小姓組番士となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
慶長7年(1602年)、武蔵国幡羅郡に領地200石を賜る。([[新訂寛政重修諸家譜]])
慶長11年11月(10月)(1606年)、大番となる。([[干城録]])
元和9年(1623年)、徳川家光の日光社参及び上洛に従った。([[新訂寛政重修諸家譜]])
廩米100俵を加増される。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛永10年2月7日(1633年)、200石の加増を賜る。先に賜った廩米100俵を改めて下野国都賀郡に300石を賜り、合計500石の領地となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛永18年3月29日(1641年)、御裏門番頭となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
万治元年6月1日(1658年)、職を辞去した。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
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*石谷成勝(いしがや なりかつ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】頼信、兵四郎、市右衛門([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】元和6年(1620年)(逆算)
【没年】貞享4年4月28日(1687年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】68歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】
【官位】布衣([[新訂寛政重修諸家譜]])
【役職】大番、新番、新番?組頭、納戸頭、小普請([[新訂寛政重修諸家譜]])
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷政勝([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】青木五左衛門高頼の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷成勝、春日佐次右衛門家定の妻、三空([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】
【養子】石谷清長(石谷清亮の2男)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【法名】可信([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
武蔵国江戸で生まれる。([[寛永諸家系図伝]])
寛永7年6月10日(1630年)、徳川家光に御目見。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛永13年12月27日(1637年)、大番となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛永14年1月(1637年)、大番となる。([[寛永諸家系図伝]])
承応元年(1652年)、二ノ丸で石谷成勝の水泳が台覧され、時服を賜った。([[新訂寛政重修諸家譜]])
万治元年7月19日(1658年)、新番となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛文3年4月(1663年)、徳川家綱の日光社参に従った。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛文3年12月11日(1664年)、父である石谷政勝の家督相続。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛文4年9月30日(1664年)、組頭となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛文4年12月25日(1665年)、廩米200俵を加増された。([[新訂寛政重修諸家譜]])
延宝元年4月3日(1673年)、納戸頭となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
延宝元年12月28日(1674年)、布衣の着用を許された。([[新訂寛政重修諸家譜]])
天和元年8月7日(1681年)職を辞し、小普請となった。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
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*三空([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】十助([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】徳川綱吉の配下、出家([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷政勝([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷成勝、春日佐次右衛門家定の妻、三空([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
神田の館において徳川綱吉に仕える。([[新訂寛政重修諸家譜]])
病を得た為職を辞して出家し、下野国平井村の草庵に閑居した。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
神田の館で徳川綱吉に仕えたという事は、徳川綱吉が神田に移った明暦3年(1657年)~二ノ丸に入った延宝8年(1680年)頃の事であろう。この期間、徳川綱吉の館林藩主時代があるので、館林藩士であったのかも知れない。(図書助論考)
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*石谷清長(いしがや きよなが)(新訂寛政重修諸家譜)
【呼称】孫四郎、市右衛門(新訂寛政重修諸家譜)
【生年】慶安元年(1648年)(逆算)
【没年】宝永元年1月6日(1704年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】57歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】700石(武蔵国埼玉郡200石?)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【官位】
【役職】書院番([[新訂寛政重修諸家譜]])
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷清亮([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】中山勘解由直定の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【義父】石谷成勝([[新訂寛政重修諸家譜]])
【妻室】久松太左衛門定久の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】
【兄弟】高木忠右衛門定清の妻、五味藤九郎豊旨の妻、石谷清信、石谷清長、十兵衛清宗([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】石谷清夤([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】石谷清定 (兵四郎)(久松太郎左衛門定矩の2男)、石谷清定の妻(石谷清信の娘)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【法名】祥山([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
元禄元年7月12日(1688年)、石谷成勝の養子として家督相続。([[新訂寛政重修諸家譜]])
元禄元年11月23日(1688年)、徳川綱吉に御目見。([[新訂寛政重修諸家譜]])
元禄2年4月29日(1689年)、書院番となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
元禄10年7月26日(1697年)、廩米200俵を改め武蔵国埼玉郡に領地を賜り、合計で700石を領有した。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
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*石谷清定 (兵四郎)(いしがや きよさだ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】兵四郎([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】延宝8年(1680年)(逆算)
【没年】宝永元年10月8日(1704年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】25歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】久松太郎左衛門定矩([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】加藤丑之助吉次([[新訂寛政重修諸家譜]])
【義父】石谷清長([[新訂寛政重修諸家譜]])
【妻室】石谷清長の養女(石谷清信の娘)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】
【兄弟】石谷清定 (兵四郎)(久松太郎左衛門定矩の2男)、石谷清定の妻(石谷清信の娘)(義妹)、石谷清夤(義弟)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】市三郎([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】石谷清夤(石谷清長の2男)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【法名】玄透([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
元禄14年9月15日(1701年)、徳川綱吉に御目見。([[新訂寛政重修諸家譜]])
宝永元年2月27日(1704年)、養父石谷清長の家督相続。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
石谷清長の養女の父は、同族で1100石旗本の石谷清信。石谷清定 (兵四郎)の死後は実家に帰った。([[新訂寛政重修諸家譜]])
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*石谷清夤(いしがや きよのぶ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】十助([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】元禄15年(1702年)(逆算)
【没年】宝暦元年閏6月11日(1751年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】50歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】
【官位】布衣([[新訂寛政重修諸家譜]])
【役職】書院番番士、西ノ丸御徒頭([[新訂寛政重修諸家譜]])
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷清長([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】久松太左衛門定久の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【義父】石谷清定 (兵四郎)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【妻室】新井白石の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】
【兄弟】石谷清定 (兵四郎)(久松太郎左衛門定矩の2男)(義兄)、石谷清定の妻(石谷清信の娘)(義姉)、石谷清夤(義弟)、市三郎(石谷清定 (兵四郎)の長男)(義弟?)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】石谷清盈、銕次郎、女子、石谷清馨(石谷清候の養子となる)、兵三郎、石谷清茂、石谷清憐(兄の石谷清馨の養子となる)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】
【法名】淨雄([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
宝永2年2月19日(1705年)、4歳の時に養父となる石谷清定 (兵四郎)の家督相続。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保4年10月18日(1719年)、書院番番士となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保12年10月(1727年)、徳川吉宗の日光社参の際に大宿割を務めた。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保19年7月1日(1734年)、西ノ丸御徒頭となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保19年12月18日(1735年)、布衣を許される。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保20年閏3月29日(1735年)、徳川家重が浅草辺に鷹狩りに行った際、勢子への指揮が悪いと咎められて、同僚青木与兵衛信裕と供に拝謁禁止処分となった。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保20年5月1日(1735年)に処分を解かれた。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
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*石谷清盈(いしがや きよみつ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】助太郎([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】享保8年(1723年)(逆算)
【没年】明和3年9月15日(1766年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】44歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】
【官位】
【役職】書院番番士([[新訂寛政重修諸家譜]])
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷清夤([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】新井白石の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【義父】
【妻室】武田長春院信郷の養女([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】村上縫殿助正道の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【兄弟】石谷清盈、銕次郎、女子、石谷清馨(石谷清候の養子となる)、兵三郎、石谷清茂、石谷清憐(兄の石谷清馨の養子となる)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】
【養子】石谷清茂([[新訂寛政重修諸家譜]])
【法名】良憐([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
元文2年9月18日(1737年)、徳川吉宗に御目見。([[新訂寛政重修諸家譜]])
元文2年9月27日(1737年)、徳川家治がはじめて山王社に詣でる時に、騎兵として従った。([[新訂寛政重修諸家譜]])
宝暦元年9月3日(1751年)、父の石谷清夤の家督相続。([[新訂寛政重修諸家譜]])
宝暦2年9月10日(1752年)、書院番番士となった。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
山王社へ付き従った時期は、『[[新訂寛政重修諸家譜]]』の記載を見ると年月が書いておらず日のみのため、恐らく前述の元文2年9月のことだと思われるが、それは徳川家治が生まれた年に当たるので、生まれた直後に参拝する場所なのか解らず疑問を残す。(図書助論考)
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*石谷清茂(いしがや きよしげ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】市十郎、市右衛門([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】元文3年(1738年)(逆算)
【没年】寛政10年5月24日(1798年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】61歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】
【官位】布衣、従五位下肥前守([[新訂寛政重修諸家譜]])
【役職】書院番番士、諸道具奉行、御徒頭、御徒頭、西ノ丸目付、目付、禁裏附、御持筒頭([[新訂寛政重修諸家譜]])
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷清夤([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】
【義父】石谷清盈([[新訂寛政重修諸家譜]])
【妻室】松波平右衛門正英の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】
【兄弟】石谷清盈、銕次郎、女子、石谷清馨(石谷清候の養子となる)、兵三郎、石谷清茂、石谷清憐(兄の石谷清馨の養子となる)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】女子、石谷清順、林之助清廣、女子([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】
【法名】義寛([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
石谷清夤の5男として生まれる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
明和3年12月3日(1767年)、兄の石谷清盈の家督相続。([[新訂寛政重修諸家譜]])
明和3年12月21日(1767年)、徳川家治に御目見。([[新訂寛政重修諸家譜]])
明和4年2月20日(1767年)、書院番番士となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
安永5年4月(1776年)、徳川家治の日光社参の際に諸道具奉行を務める。([[新訂寛政重修諸家譜]])
安永6年4月21日(1777年)、御徒頭となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
安永6年12月18日(1778年)、布衣を許される。([[新訂寛政重修諸家譜]])
天明8年10月19日(1788年)、西ノ丸目付となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛政元年9月7日(1789年)、目付となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛政3年5月11日(1791年)、禁裏附に移る。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛政3年7月11日(1791年)、従五位下肥前守に叙任される。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛政9年9月19日(1797年)、御持筒頭となった。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
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*石谷清順(いしがや きよのぶ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】三蔵([[新訂寛政重修諸家譜]])、石谷隼人([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【生年】天明2年(1782年)(逆算)
【没年】
【寿命】
【知行】700石([[新訂寛政重修諸家譜]])
【官位】
【役職】小普請([[新訂寛政重修諸家譜]])、小納戸、西ノ丸小納戸([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷清茂([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】松波平右衛門正英の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【義父】
【妻室】有田播磨守貞勝の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】
【兄弟】女子、石谷清順、林之助清廣、女子([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
寛政10年3月15日(1798年)、徳川家斉に御目見。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛政10年8月3日(1798年)、17歳の時に父である石谷清茂の家督相続。小普請に入った。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛政11年5月22日(1799年)、小納戸となる。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
文化2年11月5日(1805年)、西ノ丸小納戸となる。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【備考】
『[[寛政譜以降旗本家百科事典]]』では石谷清順の後は石谷錬蔵の記載になっているが、石谷錬蔵の父(または義父)は石谷織之丞となっているため、石谷清順と石谷錬蔵の血縁関係は不明である。(図書助論考)
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*石谷練蔵(いしがや れんぞう)([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【呼称】清通(石田家資料)
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】700石([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【官位】
【役職】小普請大島支配([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【属性】旗本([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【実父】?石谷織之丞([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】石谷房之丞([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【養子】
【法名】
【略歴】
安政元年?(1855年)、小普請大島支配の記載がある。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【備考】
『[[寛政譜以降旗本家百科事典]]』では石谷清順の後は石谷錬蔵の記載になっているが、石谷錬蔵の父(または義父)は石谷織之丞となっているため、石谷清順と石谷錬蔵の血縁関係は不明である。(図書助論考)
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*石谷房之丞(いしがや ふさのじょう)([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【呼称】清(石田家資料)
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】700石([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【官位】
【役職】
【属性】旗本([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【実父】石谷錬蔵([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】享三(石田家資料)
【養子】
【法名】
【略歴】
【備考】
祖父が石谷織之丞、父が石谷錬蔵と記載されている。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
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*[[戻る>http://www44.atwiki.jp/eos-gin/pages/18.html]]
2022-11-08T01:54:51+09:00
1667840091
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桑原政重系一族詳細
https://w.atwiki.jp/eos-gin/pages/24.html
&u(){※注意事項 元号表記は西暦を補足するが、月日は旧暦のまま。}
&u(){※注意事項 生年について直接の資料は無いが(没年-死亡年齢+1(数え年の調整))で算出した。}
&u(){※注意事項 出典は幕府史料>藩史料>地域史料>その他の順で優先する。}
&u(){※注意事項 兄弟、子息など、改名などで判らず重複する可能性はある。}
&u(){※注意事項 現代語訳の間違い誤記等の存在は否定できない。}
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*桑原政重(くわばら まさしげ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】權左衛門、次郎左衛門([[新訂寛政重修諸家譜]])、清吉([[石ヶ谷家家系図]])
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】松平忠輝の配下、徳川頼宣の配下、紀州藩士([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷政清([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】入澤行重、呑説、石谷政信、石谷清定、桑原與三右衛門の妻、石谷清重、乗松彌次右衛門の妻、井伊掃部頭家臣小野田小一郎の妻、桑原政重([[新訂寛政重修諸家譜]])、高天神城城主小笠原与八郎の妻([[石ヶ谷家家系図]])
【子息】?桑原清氏([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】
【法名】
【略歴】
徳川忠輝に仕えた後、徳川頼宣に仕えた。([[新訂寛政重修諸家譜]])
紀州徳川家に仕えた際に桑原氏を称した。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
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*桑原清氏(くわばら きようぢ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】九兵衛、權左衛門([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】紀州藩士([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】?桑原政重([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】?桑原時清([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】
【法名】
【略歴】
【備考】
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*桑原時清(くわばら とききよ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】權左衛門([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】紀州藩士([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】?桑原清氏([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】
【養子】
【法名】一徳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
【備考】
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*桑原長清(くわばら ながきよ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】權左衛門([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】紀州藩士([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】?桑原時清([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】石谷清全の妻([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】石谷清全(娘婿)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【法名】
【略歴】
紀州藩士岡本作之丞の息子である石谷清全を娘婿として養子にした。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
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*石谷清全(いしがや きよのり)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】權左衛門、桑原清全?([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】寛文5年(1665年)(逆算)
【没年】延享3年6月4日(1746年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】82歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】500石(下野国都賀郡500石)、廩米300俵([[新訂寛政重修諸家譜]])
【官位】布衣、従五位下豊後守([[新訂寛政重修諸家譜]])
【役職】小納戸、先手銕炮頭、西ノ丸留守居、寄合([[新訂寛政重修諸家譜]])
【属性】紀州藩士([[新訂寛政重修諸家譜]])、御家人、旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】岡本作之丞(紀州藩士)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】
【義父】桑原長清([[新訂寛政重修諸家譜]])
【妻室】桑原長清の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】海野治部右衛門(紀州藩士)の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【兄弟】
【子息】石谷清昌、高井兵部少輔信房の妻、亀井清永(桃之助、内記、平三郎。亀井平三郎忠亮の養子となる)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】
【法名】日豊([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
紀州藩士桑原長清(石谷政清後裔)の娘婿として、その養子になった。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保元年(1716年)、紀州藩士時代は徳川吉宗に使えていたが、徳川家重が二ノ丸に入った際にこれに従い御家人となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保元年10月6日(1716年)、小納戸となり下野国都賀郡に領地500石を賜った。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保元年12月18日(1717年)、布衣を許された。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保10年7月28日(1725年)、先手銕炮頭となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保13年4月(1728年)、徳川吉宗の日光社参に従う。([[新訂寛政重修諸家譜]])
元文4年1月11日(1739年)、西ノ丸留守居となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
元文4年12月16日(1740年)、従五位下豊前守に叙任された。([[新訂寛政重修諸家譜]])
元文4年12月16日(1740年)、姓を石谷氏へ改めた。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛保3年12月20日(1744年)、職を辞し寄合に入った。([[新訂寛政重修諸家譜]])
延享元年11月20日(1744年)、致仕。この際養老料廩米300俵を賜った。([[新訂寛政重修諸家譜]])
死後は、丸山浄心寺に葬られた。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
石谷清全の子孫は丸山浄心寺を菩提寺とした。([[新訂寛政重修諸家譜]])
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*石谷清昌(いしがや きよまさ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】左内([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】正徳5年(1715年)(逆算)
【没年】天明2年11月10日(1782年)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【寿命】68歳([[新訂寛政重修諸家譜]])
【知行】800石(下野国都賀郡)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【官位】布衣、従五位下備前守、豊前守、淡路守([[新訂寛政重修諸家譜]])
【役職】小納戸、小姓、西ノ丸小姓?、寄合、西ノ丸小十人頭、西ノ丸目付、佐渡奉行、勘定奉行、長崎奉行、田安徳川家家老、留守居、寄合([[新訂寛政重修諸家譜]])
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷清全([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】海野治部右衛門(紀州藩士)の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【義父】
【妻室】新見但馬守正言の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】大奥の侍女 森野の養女([[新訂寛政重修諸家譜]])
【兄弟】石谷清昌、高井兵部少輔信房の妻、亀井清永(桃之助、内記、平三郎。亀井平三郎忠亮の養子となる)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】多門、磯野播磨守政典の妻、石谷清定、石谷因清の妻([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】菅沼主膳正虎の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【法名】日壽([[新訂寛政重修諸家譜]])
【略歴】
享保16年11月23日(1731年)、将軍徳川吉宗に御目見。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保18年12月16日(1734年)、小納戸となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
享保18年12月18日(1734年)、布衣の着用を許された。([[新訂寛政重修諸家譜]])
徳川吉宗の鷹狩りに従い、鳥を射落として褒美を賜った。([[新訂寛政重修諸家譜]])
元文5年8月18日(1740年)、小姓となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
元文5年12月21日(1741年)、従五位下備後守に叙任された。([[新訂寛政重修諸家譜]])
延享元年11月20日(1744年)、家督相続。([[新訂寛政重修諸家譜]])
延享2年9月1日(1745年)、西ノ丸に勤仕した。([[新訂寛政重修諸家譜]])
宝暦元年7月12日(1751年)、徳川吉宗薨去に伴い、役目を解かれ寄合に列した。([[新訂寛政重修諸家譜]])
宝暦2年5月26日(1752年)、西ノ丸小十人頭となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
宝暦3年3月15日(1753年)、西ノ丸目付となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
宝暦6年1月11日(1756年)、佐渡奉行となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
宝暦9年10月4日(1759年)、勘定奉行となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
宝暦12年6月6日(1762年)、長崎奉行を兼務した。([[新訂寛政重修諸家譜]])
明和4年12月26日(1768年)、長崎より江戸に戻る際、摂津国、河内国の水害地域を巡検し、畿内の収納の事を沙汰をしたことで、褒美として時服3領を賜った。([[新訂寛政重修諸家譜]])
明和7年6月17日(1770年)、長崎奉行の兼務を解かれ、下野国都賀郡の内に300石の加増を賜った。([[新訂寛政重修諸家譜]])
安永4年9月20日(1775年)、徳川家治の日光社参に関連し、宿場道の監視するために同地に赴いた。([[新訂寛政重修諸家譜]])
安永4年11月4日(1775年)、田安徳川家の家老を兼務した。([[新訂寛政重修諸家譜]])
安永5年4月(1776年)、徳川家治の日光社参の際、街道の監視を請け賜って先導を勤めた。([[新訂寛政重修諸家譜]])
安永5年6月27日(1776年)、日光社参先導の褒美として、時服3領と黄金5枚を賜った。([[新訂寛政重修諸家譜]])
安永8年4月15日(1779年)、留守居となった。([[新訂寛政重修諸家譜]])
天明2年10月27日(1782年)、職を辞して寄合に入った。([[新訂寛政重修諸家譜]])
【備考】
父の石谷清全は紀州藩士岡本作之丞の息子であり、母は紀州藩士海野治部右衛門の娘であるため、石谷氏との血縁関係は不明。(著者図書助論考)
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*石谷清定(豊前守)(いしがや きよさだ)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】左門、次郎左衛門、左衛門、清貞([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】延享3年(1746年)(逆算)
【没年】
【寿命】
【知行】800石([[新訂寛政重修諸家譜]])
【官位】布衣、従五位下豊前守([[新訂寛政重修諸家譜]])
【役職】小姓組、西ノ丸小姓組?、小納戸、西ノ丸小納戸?、寄合、小納戸、西ノ丸小納戸?、本丸小納戸?、徳川家治の養女種姫の用人、西ノ丸小納戸([[新訂寛政重修諸家譜]])、小納戸頭取格、小納戸頭取([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】石谷清昌([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】新見但馬守正言の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【義父】
【妻室】新見豊前守正則([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】高井兵部少輔綽房の養女([[新訂寛政重修諸家譜]])
【兄弟】多門、磯野播磨守政典の妻、石谷清定、石谷因清の妻、菅沼主膳正虎の娘(義妹)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】石谷清豊の妻、阿部駿河守正簡の妻、十作清常、女子([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】石谷清豊(田沼意誠の5男)、亀井鍬五郎清絹の妻(亀井平三郎清亮の娘)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【法名】
【略歴】
宝暦10年4月28日(1760年)、15歳の時、徳川家重に御目見。([[新訂寛政重修諸家譜]])
宝暦12年9月28日(1762年)、小姓組に入る。([[新訂寛政重修諸家譜]])
宝暦12年12月15日(1763年)、西ノ丸に勤仕する。([[新訂寛政重修諸家譜]])
明和3年2月27日(1766年)、小納戸となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
明和3年3月27日(1766年)、西ノ丸に入る。([[新訂寛政重修諸家譜]])
明和3年12月19日(1767年)、布衣を許される。([[新訂寛政重修諸家譜]])
安永8年4月18日(1779年)、徳川家基の薨去に伴い寄合に入る。([[新訂寛政重修諸家譜]])
天明元年4月21日(1781年)、小納戸に復帰する。([[新訂寛政重修諸家譜]])
天明元年5月28日(1781年)、西ノ丸に仕える。([[新訂寛政重修諸家譜]])
天明2年12月24日(1783年)、家督相続(800石)。([[新訂寛政重修諸家譜]])
天明6年閏10月7日(1786年)、本丸に入る。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛政4年12月24日(1793年)、徳川家治の養女種姫の用人となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛政6年3月31日(1794年)、種姫逝去により勤めを解かれた。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛政7年6月8日(1795年)、西ノ丸小納戸となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛政9年1月31日(1797年)、小納戸頭取格となる。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
寛政9年11月18日(1798年)、従五位下豊前守に叙任された。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛政10年2月27日(1798年)、小納戸頭取となる。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
享和元年9月6日(1801年)、職を辞去する。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【備考】
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*石谷清豊(いしがや きよよし)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】直三郎、式部([[新訂寛政重修諸家譜]])
【生年】明和8年(1771年)(逆算)
【没年】天保3年6月24日(1832年)([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【寿命】62歳(逆算)
【知行】800石([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【官位】布衣、従五位下周防守([[新訂寛政重修諸家譜]])、備後守([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【役職】小納戸、小姓、小納戸、小姓、使番([[新訂寛政重修諸家譜]])、駿府目付代、火事場見廻、西ノ丸目付、本丸目付、田安徳川家家老、大目付分限帳改([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【属性】旗本([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実父】田沼意誠([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】新見但馬守正言の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【義父】石谷清定(豊前守)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【妻室】石谷清定(豊前守)の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【後妻】堀八郎右衛門直安の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【兄弟】石谷清豊(田沼意誠の5男)、石谷清豊の妻、阿部駿河守正簡の妻(義妹)、亀井鍬五郎清絹の妻(亀井平三郎清亮の娘。義妹)、十作清常(義弟)、女子(義妹)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】女子、石谷清香、直三郎、直五郎([[新訂寛政重修諸家譜]])
【養子】
【法名】
【略歴】
天明4年11月18日(1784年)、14歳の時、小納戸となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
天明4年12月16日(1785年)、布衣を許される。([[新訂寛政重修諸家譜]])
天明5年9月21日(1785年)、小姓となった。([[新訂寛政重修諸家譜]])
天明6年閏10月7日(1786年)、徳川家治薨去に伴い小納戸に復帰した。([[新訂寛政重修諸家譜]])
天明8年4月1日(1788年)、小姓となる。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛政3年12月16日(1792年)、従五位下周防守に叙任された。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛政6年2月25日(1794年)、使番となった。([[新訂寛政重修諸家譜]])
寛政9年7月13日(1797年)、駿府目付代となる。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
享和2年1月21日(1802年)、火事場見廻を兼務した。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
享和2年10月8日(1802年)、西ノ丸目付となった。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
享和3年12月23日(1804年)、本丸目付となった。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
文化6年4月29日(1809年)、田安徳川家家老となった。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
文化14年1月11日(1817年)、大目付分限帳改となった。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【備考】
実父は田沼意次の弟である田沼意誠ではあるが、記録上は田沼意次失脚(1786年)に伴う石谷清豊への処置は見当たらない。(著者図書助論考)
石谷清豊の家督は、石谷備後守の惣領息子である石谷左内が相続した。『[[寛政譜以降旗本家百科事典]]』に拠ると、石谷清豊も備後守を称していたようである。(著者図書助論考)
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*石谷清香(いしがや きよか)([[新訂寛政重修諸家譜]])
【呼称】直吉([[新訂寛政重修諸家譜]])、淡路守([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【生年】寛政2年(1790年)(逆算)
【没年】
【寿命】
【知行】300俵([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【官位】
【役職】御伽、小姓、本丸小姓([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【属性】旗本([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【実父】石谷清豊([[新訂寛政重修諸家譜]])
【実母】石谷清定(豊前守)の娘([[新訂寛政重修諸家譜]])
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】女子、石谷清香、直三郎、直五郎([[新訂寛政重修諸家譜]])
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
寛政10年8月26日(1798年)、9歳の時、徳川家慶の御伽となる。 ([[新訂寛政重修諸家譜]])
享和4年1月26日(1804年)、徳川家慶の小姓となる。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
文化2年5月(1805年)、本丸小姓となる。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
家督を相続しないまま没した。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【備考】
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*石谷左内(いしがや さない)([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【呼称】市正、讃岐守([[寛政譜以降旗本家百科事典]])、清足(石田家資料)
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】800石([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【官位】
【役職】小納戸、小姓、西ノ丸小姓、西ノ丸小納戸([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【属性】旗本([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【実父】石谷清豊([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】女子、石谷清香、直三郎、直五郎([[新訂寛政重修諸家譜]])、?石谷左内([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【子息】石谷金之丞([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【養子】
【法名】
【略歴】
文政8年12月7日(1826年)、新規召出にて小納戸となる。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
文政10年12月14日(1828年)、小姓となる。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
天保8年4月2日(1837年)、西ノ丸小姓となる。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
天保12年3月23日(1841年)、西ノ丸小納戸となる。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
天保12年5月12日(1841年)、御役御免となる。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【備考】
『[[新訂寛政重修諸家譜]]』には石谷清豊の子として、女子、石谷清香、直三郎、直五郎の、4名の記載があるが、『[[寛政譜以降旗本家百科事典]]』の別称の中に当該の名前は無いため、左内が直三郎・直五郎・もしくはそれ以外、のいずれかは不明である。(図書助論考)
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*石谷金之丞(いしがや きんのじょう)([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【呼称】
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】800石(下野国)([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【官位】
【役職】小普請、小姓組([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【属性】旗本([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【実父】石谷左内([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷金之丞([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
弘化3年10月6日(1846)、家督相続。小普請となる。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
安政5年5月29日(1858)、小姓組に入る。([[寛政譜以降旗本家百科事典]])
【備考】
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*[[戻る>http://www44.atwiki.jp/eos-gin/pages/18.html]]
2022-11-08T01:46:05+09:00
1667839565
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自作和歌集
https://w.atwiki.jp/eos-gin/pages/74.html
Facebookのノート機能がいつのまにか消えていたので、仕方がないからこちらに移管。
【辞世 但し辞世的な意味ではないが】------
真澄む夜の 静寂(しじま)に袖は 濡れずとも 数限りなく 星屑の降る
心憂き 夢も希望も 断ち切れば 桜も吹雪く 狂気なりけり
【歌】------
真澄む夜の 静寂(しじま)に袖は 濡れずとも 数限りなく 星屑の降る
心置く 真澄む夜風は 吹き抜けて 今も昔も 羽衣を松
こころ松 風はちとせに 吹き留(と)めて 真澄まぬ空に 降れる夜の雨
霞吹く 春の淡風 そよぎつつ 真澄む心の 空ぞ色めく
忘れ草 勿忘草の 生い茂り 真澄む野の風の なぐ(凪ぐ.薙ぐ)ばかりなる
真澄たる 月の鏡は 昇るとも 影も映さぬ 昼の空かな
いく人も 歯牙にも掛けぬ 矢嵐も 真澄うき夜に 星射れぬほど
霞吹く 春の淡風 そよぎつつ 真澄む心の 空ぞ色めく
歳月(としつき)に 重ねて守る 三十一(みそひと)の 文字の曲輪(くるわ)に 秘める城影
春霞む 心に影を 描くとも 朧に滲む 筆ぞ物憂き
くち枯れて 八千夜に千夜を 重ねても 言葉も出来ぬ 松のうらはら
こい深き 青葉に影を 隠すとも 照れば透け見ゆ 言葉なるべき
歳を経ても 降り敷き止まぬ 白雪に 我が通い路の 関も見ゆまじ
春陽増す 見渡す野辺の 桜木は 散ると散らぬと 心占めおく
まつ風や ま澄む凪間の 浦波に かい無き舟を おきに留めつつ
心占む ま澄む夜の闇 深ければ 道行く人の 影も残さじ
寄せ来ては 思いも果てぬ 浦波は ただ松風の 心もの憂き
あい深き 青葉の影に 隠すとも 照れば透け見ゆ 言葉なるべき
【雑歌】------
心憂き 夢も希望も 断ち切れば 桜も吹雪く 狂気なりけり
歳月(としつき)に 繁る青葉を 切り掃けば 久遠に誇る 鄙の山城
百歳(ももとせ)を 染めにし闇に 星屑の 儚なかるとも 絶えぬ影かな
徒(いたずら)に 人をも寄せぬ 古城(ふるしろ)の 独り占め得(う)る 山桜花
かねてより 春告鳥は 死に絶えて あたら散りゆく 梅の花かな
二重三重(ふたえみえ) 波は幾重に 重ね掛け 寄せては返す 松のうらはら
よに騒ぐ 夢希望なる 星芥 掃きて棄てれば やみぞ静けき
雪つまる 我が身の末を 書き染める 筆に浸すが 血では虚しき
知恵深き 堀に心の 壁高き 城も守れる 寂寥(せきりょう)の風
心ならず 頭(かしら)に雪は 降り積もり 歩くゆき路の 啼くや悲しき
【鎮魂歌】------
浦波は 心僅かに 騒ぐとも 代は連なる 羽衣の松
散らば散れ 雨にぞ花は 散れるとも 若葉彩る 敷島の春
【用済みだが、歌の出来は良いので】------
想へども 手には届かぬ 彼(か)の空の 闇世を照らす 淡い夜の月
きれぎれの くも間に輝る この月を どこに眺める の辺のかれ松
光差し 露地にぞ覘く 水面月(みなもづき) 澄みてまどけき 今日のこの夜
散る花は 降らる涙か 過ぐ日々か 河面を隠し 春風や尽く
**戻る
&link_toppage()
2021-06-03T00:18:03+09:00
1622647083
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大昔に作った小説
https://w.atwiki.jp/eos-gin/pages/17.html
**黒歴史(過去の小説)
なんでPDFかって・・・?
だって自分で見るときネットでページめくるんめんどくさかったんだもの。。。
オリジナルキャラばっかりしか出てきません。悪しからず。
一年戦争編
[[一年戦争編>http://www44.atwiki.jp/eos-gin/?cmd=upload&act=open&page=%E5%A4%A7%E6%98%94%E3%81%AB%E4%BD%9C%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%B0%8F%E8%AA%AC&file=%E4%B8%80%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89%E7%B7%A8.pdf]]
グリプス戦役編
[[グリプス戦役編前>http://www44.atwiki.jp/eos-gin/?cmd=upload&act=open&page=%E5%A4%A7%E6%98%94%E3%81%AB%E4%BD%9C%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%B0%8F%E8%AA%AC&file=%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%97%E3%82%B9%E6%88%A6%E5%BD%B9%E7%B7%A8%E5%89%8D.pdf]]
[[グリプス戦役編後>http://www44.atwiki.jp/eos-gin/?cmd=upload&act=open&page=%E5%A4%A7%E6%98%94%E3%81%AB%E4%BD%9C%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%B0%8F%E8%AA%AC&file=%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%97%E3%82%B9%E6%88%A6%E5%BD%B9%E7%B7%A8%E5%BE%8C.pdf]]
小説家になろう 投稿
[[星光記 ~スターライトメモリー~>https://ncode.syosetu.com/n6062gm/]]
自作和歌集
[[自作和歌集]]
**戻る
&link_toppage()
2021-06-03T00:17:45+09:00
1622647065
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安倍七騎
https://w.atwiki.jp/eos-gin/pages/73.html
現在資料調査中&HP工事中
since 2017.2.4~逐次加筆訂正
*&bold(){著書名:安倍七騎に関する資料調査}
**著者名:松浦図書助
&u(){※出典・参照の記載が必要な場合は、上記を引用文書及び著者名としてください。必要なければ不要です。本ホームページの題名が変なのは、デスクトップマスコット"伺か"その他を置いたのが先だった為です。}
----
**&bold(){目次}
**&bold(){&link_anchor(題1){1.本稿について}}
**&bold(){&link_anchor(題2){2.狩野氏}}
**&bold(){&link_anchor(題3){3.末高氏}}
**&bold(){&link_anchor(題4){4.石谷氏}}
**&bold(){&link_anchor(題5){5.朝倉氏}}
**&bold(){&link_anchor(題6){6.海野氏}}
**&bold(){&link_anchor(題7){7.杉山氏}}
**&bold(){&link_anchor(題10){10.資料置場}}
サイト内検索
#search()
[[データバックアップ>http://atwiki.jp/download.php]]※筆者専用
----
**&bold(){&aname(題1,option=nolink){1.本稿について}}
駿河国安倍郡の伝承には、安倍七騎と言われる武士の集団がある。この武士団については幕府編纂の『寛永伝』『寛政譜』などには記述が見当たらず、また伝承において人名などに異同が多いため、地域に居たと伝わる英雄の物語を、土地の古老などが言い伝えてきたようなものであったのだろう。そして、これらの言い伝えの残渣を『駿河記』などが記録し、今に伝わったと考えられる。筆者は遠江石谷氏の履歴をあたる上で遭遇した、この『安倍七騎』という集団について、石谷氏の周辺事情を考慮するために本稿を記録するものである。従って、その視点には大きな偏りがある事を注意点としてあげつつ、かくの如く後述するものである。
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**&bold(){&aname(題2,option=nolink){2.狩野氏}}(狩野九郎兵衛、狩野弥八郎朝久)
狩野氏は藤原南家工藤氏を祖とし、八介に数えられた狩野介を称する伊豆の大族である。駿河国安倍郡には狩野貞長という人物が居たと見られ、その子孫の活動が幾つか見られる。
引用できる資料を現時点では見つけられていないため、下記のリンクを記載し、後日資料を発見した場合にはそれを使用する。
[[安倍の狩野氏探訪レポート へのリンク>http://amayulc.net/kano/tanbou03.html]]
>貞長の曾祖父にあたる「時光」の時代に駿河安倍郡に移り住んだ狩野氏の一族があり、勢力を拡げ、貞長の代に安倍城を築いたと言われます。
>安倍の狩野氏と徳川家康のかかわりは、特筆すべきものがあります。徳川家康は、小山城の戦いで、狩野軍の活躍に目をつけていました。家康は、天下統一後、31代狩野景信の家にやってきて、自分の家臣にならないか、と勧めました。しかし、狩野家は、代々武田に仕えてきたので、今更徳川家に仕えるわけにはまいりませんと、せっかくの機会を断りました。家康は、その心構えがたいそう気に入り、自分の着ていた裃(かみしも)をその場で脱いで景信に与えました。その後、狩野景信は、家康から百石を与えられ、家臣になります。
***狩野九郎兵衛(史話と伝説 静岡中部)
落合村。御神君御紋付頂戴 。嘉永7年(1854年)10月 駿府浅間流鏑馬役の狩野九郎兵衛嫡男が石谷氏へ進上した『駿河国安倍七騎姓名覚』に記載される人物。永禄・天正年間に武田信玄の家臣となり、遠州小山籠城戦、甲斐、信州川中島の戦い、高遠城の戦いなどに従軍し、数度の軍功によって武田家より御朱印を頂戴したという。
(補記)前述の記載と組み合わせると、狩野景信の事と考えられる。
***狩野弥八郎朝久(史話と伝説 静岡中部)
落合 。今川・武田の頃に活躍したという。後に紀州徳川家に仕えた。
***狩野弥次郎(史話と伝説 静岡中部)
落合村村長、富右衛門の先祖に狩野弥次郎という安倍七騎の人物がおり、家蔵の古文書武田氏の判形に(永禄十三年二月、土屋右衛門尉、狩野弥次郎殿)と記載があるという。
(補記)前述の狩野弥八郎朝久の事か?
***狩野修理佐(寛政譜)
妻 :末高正長の娘
今川家臣。
***雑記(駿河記)
永禄13年2月3日、土屋右衛門尉より狩野孫次郎へ、計5貫700文・1石2斗・1人の知行を与えられた。
永禄13年2月20日、土屋右衛門尉より狩野弥次郎へ26貫・1人を与えられた。
天正2年12月18日、市川宮内助より狩野修理亮へ軍役の支度が命じられた。
天正3年9月21日、武田勝頼所用の晴信朱印にて狩野次郎兵衛へ小山籠城の事で感状が与えられた。
内牧の狩野氏城跡はかつて狩野介貞長という宗良親王配下の人物の拠点であった。応仁以前、今川義忠の頃、駿河狩野氏は心ならずも従っていた今川氏に謀反しているという噂がたったが、甲斐国に続く安倍奥に拠点があったために討伐されなかった。しかし、遠江国の狩野宮内少輔というものが、遠江国の軍勢を率いてこれを討伐し、駿河狩野氏は滅亡したという。今川義忠は、遠江国の河井・堀越・湊の領を支配し京都の台命を待っていたが、遠江の狩野氏がこれを掠めとるなどの問題を起こした。また、狩野宮内少輔が巨海氏と伴に義忠の掛川入部を邪魔するなどの問題が重なり、寛正6年、今川義忠は背いた狩野宮内少輔の拠点江ある遠江府中の城を攻め落とし、狩野氏は自害した。その後、今川義忠は、朝比奈泰煕を掛川に配置し遠江国の監察を命じた。
----
**&bold(){&aname(題3,option=nolink){3.末高氏}}(季(末)高石見守、末高某)
末高氏は『寛永伝』『寛政譜』等では藤原氏支流として記載されているが、徳川家康に仕えたという末高正長以前についてはなんら記載がなく不明である。今川氏真の時代には500貫の領地を有していたというから、1村支配クラスの中核領主層と言えるだろうか。
***末高石見正長(寛永伝、寛政譜)
別名:末高石見守政本
法名:源光
子:末高新蔵正頭、朝倉六兵衛在重の妻、狩野修理佐の妻、末高正久の妻
初めは今川氏真に仕えて駿河国安倍郡の内に500貫文の地を領有した。今川氏真が没落した後は武田信玄、武田勝頼に仕える。武田勝頼が滅亡した後は郷里に帰って閑居した。後に、徳川家康に同地を割って宅地として安堵されたと言う。
(補記)末高石見守の呼称を残す事から、断定はできないものの同人物と推察される。
***末高新蔵政頭(寛政譜)
実父:末高正長
武田家に仕える。信濃国諏訪原において戦死した。
(補記)天正3年(1575年)8月頃の諏訪原城の戦いで戦死したものか。
***末高正久(寛永伝、寛政譜)
生没:天文23年(1554年)~寛永16年(1639年)4月13日
別名:小次郎、末高隼人政行
法名:源領
実父:久野伊賀守(武田家家臣)
養父:末高正長
妻 :末高正長の娘
子 :末高正宣
備考:久野伊賀守(武田家家臣)の次男
末高正長の長男である末高正頭が戦死したため、末高正長の娘を妻としてその跡を継ぐ。徳川家康より仕官の話があった際に元来の所領の安堵を願い出たが許されなかったので、仕官を断ったと言う。徳川忠長の時代にも仕官の話があったが断ったと言う。生涯郷里にて蟄居した。
(補記)久野伊賀守は5代遠江久野城主久野伊賀守宗憲の事?
***末高正宣(寛永伝、寛政譜)
別名:忠右衛門 末高政信
実父:末高正久
妻 :朝倉六兵衛在重の娘
徳川家康に仕え300石を賜る。後に命令を受けて徳川頼宣に付属されるが、後年病を得て駿河国安倍郡平野に閑居した。
***雑記(駿河記)
安倍郡村岡 山の央の段に古墳あり、天安是春居士、機雲玄了居士、霊高院殿月慶珠栄大姉、心岫貞安大姉、雲室妙泉信女などの記載がある。正保年間頃まで末高氏の子孫権兵衛が居住していたが、その頃、弟が武蔵国に居住していたためここを引き払って江戸に出て裏四番町に居住したという。その後は今小平野の源兵衛が支配したという。
続次編系譜の末高氏の項には、
半左衛門正路 半左衛門正勝 半左衛門正矩 正徳6年御留守居知行671石とある。
末高氏は古くから安倍の住人で、今川家の家臣となり軍役を務め、状今川軍記残編の中に記載があるという。
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**&bold(){&aname(題4,option=nolink){4.石谷氏}}(石谷重郎左衛門、石谷弥兵衛)
安倍七騎の石谷氏は、遠江国を本貫とする石谷氏の事と推定される。これは足久保の石谷氏が旗本となったという記載から考えると、石谷氏はこの遠江石谷氏の一族しか該当者が見当たらない事に加えて、遠江石谷氏の一族が安倍郡足久保村の在住の浪人となっていた事が尾張藩の史料から確認されるためである。但し、いつの頃から足久保に拠点を持ったのかは定かではない。石谷氏一族の詳細については筆者のHPの別ベージ参照の事。
***石谷十郎右衛門政清(寛永伝、寛政譜、干城録、袖師町誌、武蔵国風土記稿、他)
生没:文亀3年(1503年)~天正2年(1574年)4月15日
別名:十郎右衛門尉、石ヶ谷十郎左衛門政清、十郎左衛門、重郎左衛門、西郷政清
法名:龍月道隆(寛永諸家系図伝)、和光院殿盛山道隆居士(掛川市誌)
実父:二階堂清長
子 :入澤行重、呑説、石谷政信、石谷清定、桑原與三右衛門の妻、石谷清重、乗松彌次右衛門の妻、井伊掃部頭家臣小野田小一郎の妻、桑原政重(新訂寛政重修諸家譜)、(高天神城城主小笠原与八郎の妻(石ヶ谷家家系図) )
藤原南家二階堂氏。遠江国佐野郡西郷に生まれ西郷氏を称するが、石谷村に移住し石谷氏を名乗る。西郷十八士の長として今川義元・氏真に仕え、永禄12年1月26日(1569年)、徳川家康より遠江国飛鳥内一色名の采地を安堵する御黒印を与えられた。元亀2年3月10日(1571年)に徳川家康に仕える。
(補記)石谷重郎左衛門の呼称も残り、また一子の子孫が安倍郡足久保村に居住している事から、断定は出来ないものの同人物と推察される。
***入澤五右衛門行重(寛政譜、石ヶ谷家家系図)
別名:入沢五右ェ門清宗
実父:石谷政清
石谷政清の長男。武田家に仕える。入澤氏を称する。
(補記)武田氏の研究(柴辻俊六)に拠れば、『甲陽軍鑑』中の武田水軍岡部忠兵衛配下の駿河先鋒衆に、入沢五右衛門という人物がいる。同一人物かは不明。
***石谷清重(寛政譜、士林泝洄、袖師町誌、石ヶ谷家家系図)
生没:生年不明~元和9年(1623年)1月11
別名:又太夫、又大夫、海野又太夫
実父:石谷政清
子 :石谷清春、女子
石谷政清の5男。士林泝洄に拠れば、徳川秀忠の家臣として関ヶ原の戦いに従軍したとされる。史料としての正確性が疑問な袖師町誌などに拠れば、海野又太夫を称して書院番500石を得るが、病を得て駿河国足久保に退去したとある。
***石谷弥兵衛清春(士林泝洄、袖師町誌、石ヶ谷家家系図)
生没:生年不明~万冶3年(1660年)1月29日
別名:海野又十郎
法名:寒松院殿功安善忠居士
実父:石谷清重
子 :石谷弥兵衛清勝、石谷清宣、清時、清村
士林泝洄に拠れば、駿河国安倍郡足久保村の浪人であったという。
(補記)正確性が不明ながら石ヶ谷家家系図の情報も上記に記載する。
***雑記(本川根町史)
天正4年 徳川家康の支援を受けた安倍元真が川根の大橋伏にいた小長井長門守と談合し、安部地域に侵攻。津渡野を城を攻め落とし、水見色城を陥落させた後、城代を務めていた朝比奈弥太郎が大洞山へ撤退する所を、家臣の池口弥蔵がその首を討ち取った。続けて足久保の石谷氏を討とうとした所、池口弥蔵は脇差が鞘走り太ももをを負傷したため撤退した。
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**&bold(){&aname(題5,option=nolink){5.朝倉氏}}(朝倉六兵衛在重)
越前朝倉氏朝倉景高の子孫と伝えられるが、遠縁という説もある。安倍七騎の筆頭とも伝えられ、武田家臣の土屋右衛門尉から、海野氏や狩野氏などのともに朝倉在重宛ての書面がいくつか残っている。後年の流れからいっても、実際の所領規模については不明瞭な点はあるが、地域の取り纏め役を担っていた事は確定的であると考えられる。
※文化年間、沓谷源院に住む僧侶が言うには、安倍には朝倉を名乗る2家がある。1つは柿島の越前より来た朝倉数馬家、1つは昔から安倍谷に居る長妻田の朝倉又兵衛家。白髪神社棟札にある朝倉孫六郎は又兵衛の先祖である。
***朝倉孫三郎(駿河記)
実父:朝倉右衛門大夫景高(越前朝倉氏)?
兄弟:朝倉六兵衛在重?
柿島の白鳥氏が言うには、越前から立ち退き駿河国安倍郡松留村に居住し、後に柿島村に移住した?
(補記)下の朝倉在重の事か?
***朝倉在重(寛永伝、寛政譜)
別名:弥六郎、河内守
実父:朝倉右衛門大夫景高(越前朝倉氏)
子 :朝倉六兵衛尉在重?
日下部氏。越前国から駿河国安倍郡に移住する。
(補記)現在、朝倉六兵衛尉在重と同一人物とみられているが、寛永伝でも寛政譜でも別項になっている。年代的には朝倉景高の後に朝倉河内守在重、朝倉六兵衛在重と続いてもおかしくはないが……
***朝倉在重(寛永伝、寛政譜、駿河記)
生没:天文14年(1545年)~元和元年(1615年)
別名:弥六郎、六兵衛尉、六兵衛、在宣、河内守
法名:全勝
実父:朝倉河内守在重?
妻 :末高石見守の娘
兄弟:権兵衛、朝倉弥刑部
子 :朝倉宣正、朝倉在重、望月与太郎の妻、末高正宣の妻、(朝倉六兵衛、望月十右衛門の妻、長守左衛門の妻、海野弥兵衛の妻、狩野勘兵衛の妻、菅谷十兵衛の妻(駿河記))
朝倉貞景の遺領を孝高・景高兄弟が争った件で、越前より駿河安倍に移住した。天正・文禄の間に徳川家康に仕える。天正12年長久手合戦で騎兵として敵陣に乗り込んだ際、敵に馬を射られ危機に陥った。その際に婿である望月与太郎が馳せてきて、馬から降りて在重を助けて味方の陣に帰った。徳川家康は感心し、この際に駿河国安倍郡に移住したという。関東移封の際、在重は安倍郡を去りたくない理由があり、これに従わなかった。この後、中村式部少輔一氏が駿河国を領有し、駿河の国侍を登用した際に、これに仕えた。徳川家康が駿河国に隠居した際には、在重に対して関東移封に従わなかった事を責められたものの許され、再度徳川家康に仕えた。
(補記)現在、朝倉河内守在重と同一人物とみられているが、寛永伝でも寛政譜でも別項になっている。
***朝倉宣正(寛永伝、寛政譜)
生没:天正元年(1573年)~寛永14年(1637)2月6日
別名:藤十郎
官位:従五位下筑後守
実父:朝倉六兵衛尉在重
実母:末高石見守正長の娘
妻 :土井小左衛門利昌の娘
子 :朝倉宣親、朝倉正世、朝倉宣季、屋代忠興、伊東主膳正祐豊の妻、加藤民部大輔明利の妻、正高
駿河国柿島に生まれる。天正18年小田原陣の時に召出されて徳川秀忠に仕え、200石を賜り大番となる。その後、使番となる。慶長5年の上田城攻めの際には徳川秀忠に従い参戦した。牧野右馬允康成と子の駿河守忠成とともに刈田の奉行となって敵の城に近付いたが、城中より兵が出てきて鉄砲を放ち、刈田に出ていた徳川勢を撃とうとした。この際に朝倉宣正は牧野親子とともに木戸口押し寄せ戦った。この際に城兵は矢倉の上から弓で防戦したが、宣正は塀の下に取り付いて矢倉の上の敵兵を槍で攻撃した。この槍のけら首を矢倉上の敵兵が掴んで奪おうとし、宣正は槍を手放さず抵抗したが、槍のけら首が折れてしまったので撤退した。その後、槍のけら首は敵から宣正に返還された。この上田の合戦において朝倉宣正は、小野次郎右衛門忠明、中山勘解由照守、辻左次右衛門久吉、戸田半平光正、鎮目半次郎惟明、斎藤久右衛門信吉とともに、上田七本槍として称された。しかしながら、刈田奉行ながら合戦して軍法に背いたとして、徳川秀忠の命令により上野吾妻の留守番を命じられたが後に赦され大番に戻った。慶長7年安房国へ唐船が漂着したとき、命令を受けてこれを検視した。後に100石を加増され、慶長9年に組頭となりさらに200石を加増され、慶長10年に使番となり200石を加増され、慶長16年にさらに200石を加増された。この年、徳川家康の上洛に付き従った。慶長18年禁裏造営の際に京に赴き、完成の後1000石の加増を受けた。この後、和泉堺政所職を務め芝山小兵衛正親に代わって帰る。この後徳川家康の命令で徳川秀忠の家臣となった。慶長19年大坂陣の時は江戸の守備を担当し、同年12月6日に徳川秀忠より御書を賜った。この後1,000石を加増され、元和3年12月、従五位下筑後守に叙任された。元和5年に3,000石を加増される。元和7年に4,000石加増される。合計で10,000石を領有し、松平忠長の御付家老となった。これ以前に徳川家康より御書および御家紋付き團扇を賜った。元和8年6,000石を加増され、寛永2年10,000石をさらに加増され、遠江国において合計で26,000石を領有し、掛川城を拠点とした。寛永8年松平忠長閉居に伴い、主君への諫言が不十分だった事を咎められ、酒井阿波守忠行の所へお預けの身となった。松平忠長はこれを嘆き、問題は自分のせいだとして、宣正を赦免するように尾張藩徳川義直、水戸藩徳川頼房、千姫に対して申し入れをしたため、宣正は罪を赦され、駿河国帰って国政を正し、諸氏を指揮せよと徳川秀忠より命じられた。寛永9年松平忠長が改易となり、宣正も松平下総守忠明にお預けの身となって大和国郡山に蟄居となった。
***朝倉在重(寛永伝、寛政譜)
生没:1584年(天正11年)~慶安3年(1650年)11月19日
別名:仁左衛門尉
官位:従五位下石見守
実父:朝倉六兵衛尉在重
実母:末高石見守正長の娘
妻 :牧野右馬允家臣牧野五郎兵衛某の娘
子 :朝倉重宣、朝倉重興、朝倉重利、牧野越中守儀成の妻、兼松又四郎正尾の妻、海野氏の妻、岡田源五郎某の妻、松平庄九郎忠久の妻、朝倉氏の妻、土井大炊頭家臣大野市左衛門定歳の妻、某
元和元年大坂陣の時、朝倉在重は牧野右馬允康成と子の駿河守忠成の軍に属して出陣した。同年5月7日、在重は牧野親子と轡を並べて天王寺に出撃した際、白母衣に半月の指物、もう一人は柄連(ゑづる)の指物を指した武者が2名攻め寄せて来た。在重は柄連の指物を指した方の敵兵と槍を合わせ討ち取り、首を牧野右馬允の陣に持参した。大阪城陥落後に召出され、徳川秀忠の家臣となった。命令により書院番となり、その後御膳番を務めた。寛永2年7月27日、目付となり、領地の朱印を賜り于上総国望陀、下総国葛飾の2郡の内に500石を賜った。後に布衣を許される。この後、徳川家光に仕え、寛永7年4月に使番となり下総国葛飾郡に500石を加増された。寛永9年肥後国熊本城を細川越中守忠利に与えることになったので、同年6月16日命令を受けて同地に赴き、城の引き渡しの任務を務めた。寛永10年、美濃国大垣城を松平越中守定綱に与える際に、同地に赴いて命令を伝えた。同年12月26日、甲斐国八代郡において1,000石を加増され、合計で2,000石を領有した。寛永11年3月28日、目付となって豊後国萩原に赴いた。寛永12年、戸田左門氏銕に美濃国大垣城を与えることになったので、同年7月晦日に同地に到り、城の引き渡しの役を務めた。寛永13年7月13日、池田光伸が幼少であるため目付を命じられ、因幡国に赴いて政務を監督した。寛永16年大和国郡山城を本多内記政勝に与える事になったので、同年3月3日に同地に到って命令を伝えた。同年7月18日に江戸町奉行となり、寛永18年1月2日、従五位下石見守に叙任された。墓所は四谷の全勝寺。
***雑記(駿河記)
上落合には大石某という国人が住んでいたが、柿島の朝倉が夜討ちで切り従え自らの被官にしたという。このため上落合は朝倉の所領となった。
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**&bold(){&aname(題6,option=nolink){6.海野氏}}(海野惣右衛門、海野弥兵衛本定)
駿河海野氏の海野本定は海野幸氏から数えて9代目であり、有名な信濃国海野氏の支族とされる。安倍元真の婿となり井川七ヶ村を継承し、武田家・徳川家に仕え、井川の殿様と称されるようになった。単純に所領規模をみると、安倍七騎に数えられる氏族の内では海野氏の勢力が突出していると考えられるが、他の諸将と比べ、海野本定自身の戦働きの逸話は伝わらない。戦場を得意とするよりも治世を主とする人物であったのだろうか?
***海野本定(駿河記)
生没:生年不明~元和3年(1617年)6月3日
別名:弥兵衛尉
法名:松雲
実父:海野泰頼
妻 :安倍大蔵元真の娘
子 :海野元重、海野兵左衛門、海野縫右衛門
海野弥兵衛(あるいは安倍大蔵)は、津渡野城の高瀧将監を焼き討ちし滅ぼした。海野本定は、はじめ武田家に仕えたという。天正7年1月23日、穴山信君より海野弥兵衛尉へ、江尻へ行くように伝えられる。天正7年10月25日、土屋右衛門尉より海野弥兵衛へ、25貫、また新恩として計12貫400文を配下分を含め与えられる。天正10年以降に安倍大蔵元真の娘を妻として、安部井川の家督を継いだ。徳川家康の家臣となり、駿河国から信濃国への山道案内人などを務める。また、徳川家が駿河国を納めて後、朝倉六兵衛とともに、御茶壺の管理、御巣鷹係、材木管理、金山御用などを務めた。また、徳川家康は天然の要害である井川に有事の備えとして鉄砲弾薬庫を設置し、海野氏に管理を委託した。
***海野七郎太郎(駿河記)
岩崎住人。海野七郎三郎と兄弟。武田家より嫌疑を受け、江尻城から派遣された人物に捕縛される。江尻守衛の土屋右衛門尉の下に引き出され拷問の上梟首された。
(補記)海野弥兵衛の配下と思われる
***海野七郎三郎(駿河記)
田代住人。海野七郎太郎と兄弟。武勇絶倫であったという。武田家より嫌疑をうけ、捕縛命令が出る。田代住人に謀られ落とし穴に落とされて討ち取られ、兄の七郎太郎とともに梟首された。怨霊となったので八幡社に弔われた。
(補記)海野弥兵衛の配下と思われる。
***海野弥兵衛元重(駿河記)
生没:生年不明~寛文5年7月1日
実父:海野本定
子 :海野正成、海野信典
***海野兵左衛門(駿河記)
実父:海野本定
子 :海野兵左衛門、津田治兵衛
紀州藩徳川頼宣に仕える。
***海野縫右衛門(駿河記)
実父:海野本定
紀州藩徳川頼宣に仕える。
***海野五左衛門正成(駿河記)
実父:海野元重
徳川忠長に仕え500石を賜る。忠長没落の後は亀井能登守に預けられて石見国で死没した。
***海野弥兵衛信典(駿河記)
実父:海野元重
巣鷹役、井川七ヶ村支配
【雑記】
郷島村長 海野惣右衛門 永禄13年6月16日武田家市川備後守、原隼人祐からの海野竹千代への書状を所有。
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**&bold(){&aname(題7,option=nolink){7.杉山氏}}(杉山仁左衛門、杉山小太郎右衛門)
今川家臣。俵峰村。
【雑記】
俵峰 杉山氏
明応3年9月20日、今川氏親より杉山太郎衛門へ俵峰半分を与える書状。天文21年10月11日、今川義元より杉山小太郎へ年貢緒役に関する書状。永禄6年4月10日、今川氏真より杉山小太郎と望月次郎右衛門へ三河国急用につき棟別銭許可の書状。永禄10年9月24日、今川氏真より杉山小太郎へ屋敷の竹木に関する書状。天正元年10月7日岡部正綱より杉山小太郎へ合力のためと志田郷三輪分の5貫文を渡すという書状。天正2年12月18日、市川宮内助より杉山小兵衛へ24貫文の宛がい状。元亀2年12月24日、朝比奈駿河守信直、横田康景から俵峰村弓兵5人を定める書状。天正3年9月21日、杉山小兵衛へ小山城篭城戦の戦功を賞する書状。
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**&bold(){&aname(題10,option=nolink){10.資料置場}}
★大村五郎左衛門
⇒大石五郎右衛門(朝倉在重の義弟)の事か?朝倉在重と不仲になり暗殺される。
安倍七騎に数えられる大村氏は俵澤の大村彦六郎の事か。先祖は信濃国国人で安倍に移住した。今川家・武田家からの書状がある。
★長島甚太右衛門
⇒不明 長島某という武人の屋敷が、内匠にあったという(駿河記)
★望月四郎右衛門
⇒望月與太郎?朝倉在重の娘婿。
>『駿河記 上巻』
> 〇里 中西 里人望月氏云昔源賴朝卿治世に、此所に某と云武士あり。幕府に忠節ありて、井河七鄕を賜ひて勢ひ猛なりしと傳。今此屋敷跡に、中西次右衛門と云貧民住す。彼武人の子孫と云。然共彼家舊記亡て未ㇾ詳。
> 雑記曰、壽永二年の秋、木曾義仲反逆の時、木曽が郎從海野・望月・仁科・高科・根津・風間等の者謀て、信濃國より駿河・遠江の國へ山路を越て、間道を經て、軍兵を出さむとて、駿河安倍の地侍仁科彌七と云者、淸水冠者の供したる海野小太郎幸氏が叔父なれば、仁科彼が催促に應じ、賴朝卿に内通し、計略を以て彼徒を討んとて、安倍鄕の地侍柿島の朝倉、落合の狩野、平野の末高、俵峰の杉山、足久保の石貝、千頭の大間等を促し、木曾が軍を猪用に引入悉く討取、其首を鎌倉に送り實檢に入けり。各恩賞を賜ふ。仁科に猪用七鄕を賜ふと云云。
> 此事正史には不見ども、若くは實説にやあらなむ。當村小里中西の古屋敷仁科の居地なるか、尚重て可考。
※寿永二年(1183年)。柿島の朝倉は旗本朝倉氏の家伝では越前朝倉氏の分流なので年代が合わない。朝倉氏は源平合戦時代頃に朝倉を称しているので、安倍地域に分流があるかという疑問。石貝が遠江石谷氏の事なら家伝で石谷を名乗ったのが1500年代。正史ではなく雑記?なので、人名他の信憑性に疑問。
用宗城跡……今川家の時、関口刑部少輔または一宮出羽守随羽斎が守衛するという。天正7年9月、武田勢駿河先方の、三浦兵部少輔(兵部助義鏡)、向井伊賀守正重をはじめとして、400余人で守備した。19日、徳川勢である松平甚太郎家忠・牧野馬之允康成が攻め込んできて、向井・三浦勢は奮戦したが1万余の徳川勢に敵わず、三浦は一色左京に討たれ、向井は尾崎半蔵に討たれて落城した。その後武田勢は朝比奈駿河守信置、長谷川左近、須藤左門、石原五郎作、天野角右衛門、桜井兵庫、朝比奈市兵衛、朝比奈小隼人、矢部弥三郎、庵原伝内、久野角之助、等を配置して籠城した。天正9年5月5日、用宗城の城兵は浜遠目にて三河勢と合戦し多くが討たれた。同年武田氏没落の際には、朝比奈氏が開城し庵原郡草ヶ谷城に引き籠ったと伝わる。
(考察)用宗城は安倍川の河口周辺にあることから、水運を利用し安倍川利用を考えると、安倍郡の勢力が水軍に加わってもおかしくはないか。
今川氏真文書
駿河国中田寺方小笠原分百姓職之事
右。如前々可相計。但前々者脇屋隼人西尾左近衛門。為三人雖抱来。従乱中有在所。隼人令死去。剰左近衛門者遠州小笠原方へ相越云云。然者海野可為壹人百姓。去年正月始。父子一類阿部相退。末高令談合。致一揆奉公由申條。郷中諸事。縦雖為私領。不可有相違。就彼名職。天澤寺殿御判形続印判。雖令所持。乱中失却之由申之條。重申付者成。仍如件。
永禄十三年六月十五日 海野宗意
〇同前
駿河国石田郷龍雲寺並定源寺領百姓職之事。
右。如前々可相計。但前々は為四人雖抱来。孫七郎清兵衛両人者。従乱中関東に欠落。五郎兵衛は今駿府有之云云。弥七郎事は父捨置。海野同然に。自最前阿部へ相退。加一揆之由申條。在所へ罷帰上は。可為一人百姓。縦雖為私領不可相違者也。依如件。
永禄十三年六月十五日 西谷弥七郎
南矢部住民与兵衛望月氏家蔵古文書
南矢部之内。望月右衛門四郎屋敷之竹木山林。共不可伐取之。若自当城見伐之者於相伐者。以此印判可申理者也。仍如件。
天正八年辰七月十九日 江城(朱印) ※江尻城、穴山信君朱印
同家へ弓免許状、慶長20年卯八月一日、松七右衛門家久(花押)、望月角蔵殿と有。又一通、
火夢想之鉄砲一流。雖為天下無双徳。御執心。大筒小筒之儀。令相伝候畢。以来深重懇望之方於有者。堅以起請文可被成御相伝候。雖然至御弟子免状之事者。可為一国拾人者也。依如件。
元和七年七月七日 伯民部少輔政永
保田七右衛門尉守重(花押)
望月長兵衛殿参
益津郡 中村
〇御所松
此里瀬戸川堤の本に、方五六間の際荊棘生繁りたる内に、大なる松樹あり。里人御所松と呼。其由来を詳にせず。産土神に南朝の帝を祭り、あるいは蔵王権現を祭る所以あることなり。按るに、南朝の皇子宗良親王或は興良親王、遠江国より当国へ御座を被遷たることあり、其時御船に召れて此湊に(焼津湊)着せ給う時に、安倍郡の住人狩野介貞長入江蒲原等の人々御迎に出て、親王の御船をむかへ、暫時此處に輿を駐めさせ憩せ給ひしを以て御所の号あるか。仍て後人其處に吉野の御神等を斎祭るものなるべし。委説は安倍郡に載こゝに略す。(但神祖毎度此辺に御遊覧ありし地なれば若くは其遺蹟か)
志太郡
【鵜綱】
里正松浦氏は先祖肥前の松浦渡辺氏の子孫にて、松浦源二郎勝と云者、今川貞世に仕へ遠江に住す。其子源太夫今川泰範に奉仕し、応永十二年酉六月二日没。子孫此處に蟄し、当主に至て二十二代と云伝たり。されども證とすべき子文書なし。其真偽未詳。
【下之郡】
〇小地名 矢先 松井 中田 阿弥陀ヶ谷 横目入道ヶ谷
入道ヶ谷は長慶寺向、花倉谷川の南、横目の内の池名なり。
伝云、鎌倉の時代葉梨入道と云者居住の地なり。按に入道は左大臣武智磨公四男乙磨より十三代、二階堂従五位下駿河守維行と云者、駿河国守護職に補し、こゝに隠居して葉梨入道と称。事蹟不詳。
【仮宿】
里民幸次郎(天野氏)と云者の由緒に云、先祖は天野次郎右衛門尉景氏と云武人なり。永禄年小田原北篠氏に仕へ、船手奉行にて伊豆国韮山城に在住す。景氏駿河国安倍郡井川の住士海野弥兵衛空(名)を妻とし、一子多宮を産、天正十三年乙酉没。同十八年三月関白秀吉公北條家征伐の時に多宮韮山城にありと雖も、幼弱たるによって母とともに主従六人にて当城を落、夜に紛れ密に小舟に乗て遁去て駿河清水湊に上り、安部山中に引、海野氏の家に蟄し、其後岡部郷仮屋所村小柴と云地に在住す。多宮後に助右衛門と改、元和五年没。自爾今に至て十代民間にあり。末年舊記失て口碑に伝のみと云云。藤泰井河に至る時、海野氏の宅に於て其家系を視るに、安倍氏の嫡女天野伝四郎妻と記せり。海野本定は安倍氏の婿にして井川の家督を続たり。其説符号せり。実説と聞ゆ。依てこゝに其伝を記す。
按に天野氏は伊豆国君澤郡天野村の世々住人。天野遠景政景・光家等の古墳ありと云。若は此系統の子孫にやあらむ。
海野兵左衛門(うんの へいざえもん)
生年不詳~寛永十九年(~一六四二)
和歌山藩士。初代藩主徳川頼宣に仕える。名は良次。父弥兵衛本定は、武田信玄、勝頼に仕え、天正年間に徳川家康に仕える。兵左衛門は父本定の勤功により、新規に家康に召し出され、切米二百俵を与えられる。その後駿河で頼宣に付けられ、知行三百石を与えられ、目付となる。頼宣の紀伊転封後、たびたび役替、加増があり、勘定奉行に昇進し、一千百五十石を与えられ、彦坂九兵衛光政と共に藩政に参与する。寛永十九年五月十四日没する。なお、七代兵左衛門勤は、家督六百石より側用人、勘定奉行、加判之列など枢要な役職を歴任し、一千七百石にまでかぞうされている。<小山誉城>
(三百藩家臣人名事典 第五巻 発行者:菅英志 1988.12.20)
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2018-08-15T12:51:37+09:00
1534305097
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本川根町史
https://w.atwiki.jp/eos-gin/pages/66.html
*【本川根町史 資料編1 古代中世 (本川根町史編さん委員会) 平成10年3月20日 抜粋】
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P524~
天正4年 丙子 (1576)
五六七 了無先祖書 望月平巳氏所蔵 ○本川根町大間
一 安部大内蔵様乙名土岐八郎右衛門娘、後之五郎兵衛ニ被下候、
一 藁科之内ミすみ入村ニ朝比奈弥太郎様御座候、安部大内蔵様と川根之内上藤川村小永井長門様談合被成候而、長門様大はしふせニ取手(砦)ニ御座候、
一 大内蔵様ハ安部之内つヽ野城を落し、三すみ入へきり入、同城を落し、朝比奈弥太郎様城をおち大洞山へのき御座候を、大内蔵様乙名地口弥蔵殿首を打被申候、
一 それゟ足窪石かい様を打可申と被参候ニて、地口弥蔵殿脇指さやばしり、ふともヽをつきぬき、それゟ御帰被成候、
一 昼井渡坂をかたはだぬきニて御上り被成候、
一 長門様ハ。あれニ見へ申者、大内蔵殿ニ而、と被申候、大内蔵様者、あと長つつヽ野・ミすみ入をほろぼし申候、後の五郎兵衛御供申候、
※
後の五郎兵衛 了無の祖父
ミすみ入 静岡市水見色
大はしぶせ 大橋伏カ小長井
砦 小長谷城
つヽ野 静岡市津渡野
足窪 静岡市足久保
昼井渡 静岡市昼居渡
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2017-08-15T14:40:57+09:00
1502775657