668 名前:【SS】もうひとつの明日[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 22:34:01 ID:yKo9zobf0 [3/4]

もうひとつの明日


最初に兄貴の異変に気が付いたのは、いつだっただろうか。
衝撃的なことが重なり過ぎて、発端がいつだったかなんてこと、暫く考えもしなかった。
記憶に微かに残る夏の匂い。ああ、そうだ。あれは――夏だった。

その日あたしは新作のエロゲーをたっぷりと堪能し、満足感のカタマリと化した状態でベッドに横になっていた。
特に事前に注目していたわけではなかった作品だったが、いつもの面子で秋葉原に遊びに行った時に沙織から猛烈に薦められたのだ。
きりりん氏、これは是非に京介氏とご一緒にプレイして欲しいのでござるよ――と。

フルコンプしてみて、沙織のその台詞の意味がよく判った。
このゲームのヒロインの「雫ちゃん」は、その、性格が、非常に、あたしに似ているのだ。
それどころか、主人公の性格、主人公の周囲の人間までもが、まるで現実をトレースしたかのような設定になっていた。
兄貴があたしに内緒でエロゲーのゴーストライターにでもなったかと真剣に疑ったほどだ。
(後に沙織がコネのある同人ゲームサークルに作らせたと知ったのだが、それはまた別の話ね)

兄貴がこのゲームをプレイしたら、まず最初に誰を落とすだろう。
地味子にそっくりなキャラも、黒いのにそっくりなキャラも、
なんと加奈子やブリジットそっくりのロリキャラですら当然のように存在する。
兄貴がこのゲームをやっているのを、あたしはドキドキしながら隣で見るんだ。
それはきっと、とても幸せな時間。あのシスコン兄貴のことだから、気まずいだの何だのと文句を垂れながら
ちゃっかり雫ちゃんを落としにかかるに決まってる。うん、きっとそうだ。

そんな楽しい時間を想像しながら、あたしはふわふわした気分のまま廊下へ向かい、兄貴の部屋の前に立った。
時間はまだ夜の11時を回ったところ。トロい兄貴でも、今からなら太陽が昇るまでには1ルートくらいは終わらせられるかもしれない。
にやける顔を必死に抑えながら、いつものように、コンコン、とノックをしてみた。
こんな時間に兄貴の部屋をノックするのはあたしくらいだ。あのシスコンもそれを分かっているから、
声色に若干の嬉しさを含みつつ、返事をしてくれる。はずだった。

コンコン。返事が無い。
コンコンコン。こんなにかわいい妹のノックを無視するなんて。
コンコンコンコン。……寝てるのかな?

焦れったくなってドアノブに手を掛けた途端、向こう側から乱暴にドアを開けられた。
その瞬間の空気は……思い出したくはなかった。
あのシスコン兄貴の、冷たい目があたしを捉えていた。
その目はあまりにも強烈に拒絶を現していて、どんな言葉よりもあたしの身に突き刺さった。
心なしか、周囲の気温が何度か下がったような気がした。
「…………んだよ」
小さな、怖い声だった。こんな反応をされたのは初めてだったので、急に言葉がしどろもどろになってしまう。
「あ……あのね! 新しいエロゲー買ったんだけど……」
「…………」
「その、あんたと一緒にやればって沙織から勧められて。でね、その、えっと――」
喋っている間も兄貴の冷たい目はあたしをずっと捉えていて、とても怖かった。
最後の方はもう自分でも何を言っているのか分からなくて、言葉尻はもごもごと口の中を彷徨った後、消えていった。

「…………」

兄貴は一言も発することなく、表情すら変えることなく、乱暴にドアを閉めた。
引き攣った顔のまま、呼吸をすることすら忘れたあたしを薄暗い廊下に残して。

翌日から、兄妹の会話は無くなった。
兄貴があたしに話し掛けることもないし、あたしもまたあの時と同じ反応をされるのが怖かったから。

兄貴が家に帰ってくるのを、あたしはリビングのソファーに座って迎える。
兄貴はあたしを一瞥だにせず、冷蔵庫から麦茶を取り出し、一息で飲み干す。
あたしはそんな兄貴をファッション誌を読むフリをしながら横目で見続ける。
そのままリビングを出て行く兄貴を黙って見送る。

廊下で兄貴とすれ違う。
兄貴はまるであたしのことが見えていないかのように、こちらを見ることもなければ道を譲ることもない。
あたしはびくりと壁際に寄り、兄貴を黙って見送る。

メルルのDVDケースを兄貴に拾われる以前よりも、更にあたしたちの関係は悪化していた。
あの頃はろくな会話は無かったけど、兄貴はあたしに対して「ただいま」とか「おかえり」とか、
形式的なものだったにせよ、言葉を掛けてくれてはいた。
それを、あたしは無視し続けていた。
だから今のこの状況は、そんな態度を取り続けたあたしへの、罰なのか。

「なんか最近、あんたたち仲悪くない?」
夕飯を食べている時、空気を読まないお母さんが唐突にこんなことを聞いてきた。
あまりにもストレートな指摘過ぎて、飲んでいた味噌汁が気管に入りかけ、むせた。
「……そうなのか? 兄妹なのだから、あまり仲が悪いのは関心せんな」
「あ、あ、あたしはいつも通りなんですケド!」
動揺を悟られないように、あたしは努めて“いつも通り”に振舞う。
横目でちらっと兄貴を見ると、関心無さそうに焼き魚をつついていた。
「ふーん。ちょっと前までは妙にイチャイチャしてると思ったけど。私の気のせいだったのかしらね」
更に地雷原を突っ走るお母さん。Sir, no, sir――気のせいではありません。
「それより。相談したいことがあるんだけど」
「ん? なに、京介?」
「門限、伸ばしてほしいんだ」
――――え。
「もう受験本番まで半年切ってるし。図書館閉館ギリギリまで勉強したいんだよ。家より集中出来るしさ」
「そうね……お父さん、どう?」
「いい心掛けだ。そちらの方が集中出来るのなら、そうすればいい」
「サンキュー、親父、お袋!」
満足そうにご飯を頬張る兄貴の横で、あたしは震えだす身体を必死に抑えていた。
会話は無くなってしまったけれど、まだ同じ家に住んでいる、ということをどこかで心の拠り所にしていた。
その時間が減ってしまう。いやそれどころか、このまま兄貴がどこか遠いところへ行ってしまう予感さえした。
「あたしは……」
ぽつりと、誰にも聞こえないように呟く。
兄貴は門限が撤廃されたのがそんなに嬉しいのか、お母さんとお父さんと何やら盛り上がっていた。
その光景を、あたしは直視出来ない。
あたしは、そんなの嫌だ。兄貴ともっと仲良くなりたい。もっと遊びたい。もっと一緒にいたい。
なのに兄貴は、あたしの手の届かない場所へどんどん進んでいってしまう。
そんなの、そんなの……絶対嫌だ……!

夕飯をそこそこに切り上げ、あたしは部屋でケータイ片手に悶々としていた。
兄貴が突然変わってしまった理由。それを知るためには、なりふり構ってなんていられない。
兄貴が毎日一緒にいて、何でも話せるくらい信頼している相手。
だけれども、あの女からそれを聞き出すためには想像を絶する勇気が必要に違いない。
数十回の逡巡の後、あたしは震える指でケータイのボタンを押した。
数回のコール音の後、あの忌々しい女が出た。
「はい。田村ですけど」
「…………」
あぁ、もう。何て言えばいいんだろう。
「……もしもし?」
「……兄貴のことで、話があるんだけど」
「あ、え、桐乃ちゃん!?」
予想だにしない相手からの電話に地味子は驚いているようだったが、そんなことは関係なかった。
兄貴の心があたしから離れているとすれば、原因は恐らくこの女なのだ。遠慮する必要なんてさらさら無かった。
「そう。番号はあやせから教えてもらった。悪い?」
「ん、ううん、そんなことないよ。桐乃ちゃんと話せて、わたし、嬉しいな」
この地味眼鏡。あたしの気持ちも知らないで、よくも、そんなこと……。
「で、兄貴のことなんだけど」
「きょーちゃんが、どうかした?」
「最近、その、……えっと……」
「…………うん?」
おかしい。あれだけ勇気を振り絞って電話を掛けたのに。
この女に“兄貴があたしに構ってくれない”なんて相談をするということ自体があたしのプライドが許さない行為ではあったが、
今はそれよりも、その原因を知ってしまう恐怖の方が勝っていた。
「……ん、えっと……」
この女に、こんな弱いところを見せるつもりじゃなかった。
「桐乃ちゃん?」
もう切ってしまおう。この女に相談したあたしが間違っていた。一番相談してはいけない人だった。
「……あの、もしかしたらだけど……きょーちゃんが、最近変わったとか、そういうこと、かな?」
ほら、もう察せられてしまっている。この女はムカつくけど、頭はかなり回る方だ。早く切ろう、早く早く早く。
「そっか、桐乃ちゃんには言ってなかったんだ、きょーちゃん……」
やだ。聞きたくない。聞きたくない聞きたくない聞きたくない。
「あのね、落ち着いて聞いてほしいんだ」
身体が動かない。電話を切らなくちゃいけないのに、腕も、指も、動かすことが出来ない。
「きょーちゃん、受験が終わるまで、桐乃ちゃんと喋らないことに決めたんだって」
「え…………」

頭が真っ白になる。
兄貴が、あたしと、喋らない?

「きょーちゃん、この間の全国模試の成績、悪かったみたいなの。あんなに頑張ったのにって、すごくショック受けてた。
それで、このままじゃダメだって言って、好きだったCDも、漫画も、その……えっちな本も、全部捨てたんだって」
…………。
「でね、もしこのまま桐乃ちゃんとかと今まで通り付き合っていて、結果ダメだったら、あいつは自分のことをすごく責めるだろうって。
だから、そうならないように、受験が終わるまでは、桐乃ちゃんや、わたしとは、喋らないって……」
いつの間にか地味子の声は、涙声になっていた。
「だからね、桐乃ちゃん、きょーちゃんを、嫌いにならないであげて、ね?」
涙声のまま、言葉が紡がれる。
「きょーちゃん、桐乃ちゃんのこと大好きだから……だから、こんなに頑張ってるんだよ」
「………………」
「わたし、学校でも、もう全然話せてないし……一緒にも帰ってないし……一緒に勉強も……」
地味子は、泣いていた。
「だけど、きょーちゃんがそうするって決めたから。わたし、応援することにしたんだ」
改めて思う。この女は、とても兄貴のことを想ってくれている。
「だから、桐乃ちゃんにも、きょーちゃんのその気持ち、分かってあげてほしいな……」
そして、とても、優しい。
「辛くなったら、いつでもわたしが相談に乗るから。……ね?」
この期に及んで、あたしの心配まで。
「……うう……うっ……えっく……」
「大丈夫だよ、桐乃ちゃん……」

そうだ。兄貴は、超が付くほどの頑固者で、一度こうだと決めたら絶対に曲げない人なのだ。
あたしのために、お父さんやあやせに真正面から立ち向かってくれた。それをあたしはよく知っている。
電話の向こうで泣いている地味子も、きっと知っている。だから兄貴のこんなバカげた行為を止めなかった。

「ほら、桐乃ちゃんが泣いてたら、きょーちゃんが心配しちゃうよ?」
「……う、うっさい! 泣いてない!」
「……そっか。桐乃ちゃんは、強いなぁ~」
ああ。あの頃と同じ、優しい声だ。この女は、何年経っても変わらない。
変わってしまったのは、あたしの方だ。いつまでも子供みたいに意地張って、意地悪して――。
「もう切るよ。あんたの声聞いてたら、調子狂うし」
「ええ、そうかなぁ~」
やっぱり、この女に相談したのは正解だった。
兄貴のことをとても想っていて、それと同じくらいあたしのことを心配してくれて。
だから、最後にこれだけは伝えておかなければならない。

「ありがとね、まなちゃん」
「……へっ!?」

数年振りに、その渾名を口に出す。
口に出してしまってから、あまりの恥ずかしさに顔が熱くなる。多分、今のあたしの顔はゆでだこみたいになっているに違いない。
これが電話で良かった。電話口からは地味子の「へっ? きりのちゃ……えっ?」という混乱した声が聞こえているが、
悟られないようにさっさと通話を終わらせてしまおう。ゴメンね、地味子。

携帯を布団の上に投げ出し、涙を拭う。
そう。兄貴も地味子も本当は辛いんだ。なのにあたしだけがいつまでも泣いて、二人を困らせてはだめだ。
兄貴の決意を全部受け入れて、全部終わってから笑い話にしてしまおう。
ったく、一回の模試の結果くらいでクヨクヨしちゃってさ。普段から勉強してないからそうなるんだっつーの――って、憎まれ口を叩いてやろう。

翌日から、あたしは兄貴への態度を変えた。
兄貴の好きな麦茶(スーパーで売ってる安いやつだ。お金がかからない男め)は少なくなってきたら買い足しておいてやる。
兄貴の帰りが遅い時は、ご飯の余りでおにぎりを作ってテーブルに置いておく(お母さんには自分が夜中に食べる用だ、と言ってある)。
兄貴が部屋にいる時は、勉強の邪魔にならないよう、極力あたしも静かにしている。
とても辛い期間だったけれど、麦茶が減っていたり、朝にテーブルのおにぎりが無くなっていたりすると、それだけで報われる気がした。
日々上達していくあたしのおにぎりスキルと一緒に兄貴の成績も上がればいいな――そう思った。

そうして、兄貴の受験が終わった。

受験シーズンを迎える直前、最中、そして終わった後と、兄貴の顔は見ていられないほどやつれていた。
思うように成績が伸びていないのは秋から冬にかけての両親の会話からも窺い知れていたが、どうやら奇跡は起きず、
第四志望の地方の私立大学にギリギリ引っかかる、という結果に終わったらしい。
勿論、地味子の進学する大学とは別の大学だ。
これだけ好きなものを絶って、頑張って、そしてこの結果。
もしも受験の神様が目の前にいたら、あたしは全力でぶっ飛ばしているだろうと思った。
兄貴は、本当に頑張っていた。夜遅くまで勉強して、珍しく家にいる休日も常に単語帳を持ち歩いていて。
もう少し息抜きすればいいんじゃないかとも思ったけれど、兄貴の決意を聞いてしまったあたしは、それを兄貴に伝えることすら出来なかった。

地味子から伝え聞いた内容では、兄貴の決意は「受験が終わるまで」ということだった。
だが、兄貴の受験が終わったかどうかなんて、あたしには判らなかった。
文字通り、ただ受験が終わればいいのか。それとも、地味子と同じ大学に入れることがゴールだったのか。
地味子も沙織も黒猫も兄貴とは連絡を取れていないようで、でも兄貴はあっさりと地方の私大への入学を決めたりして、もうわけが判らなかった。
未だに家で兄貴とすれ違う時の緊張は継続している。
兄貴の目は、あの時と同じく、冷たいままだ。

三月になった。
兄貴は明日、この家を出て、遠く離れた滋賀県で一人暮らしを始めるらしい。
縁も所縁もない土地だ。親戚も知り合いも一人もいない。兄貴のことだから、どうせ家と大学を往復するだけの毎日になるのだろう。
いや、ああ見えて兄貴は案外モテる。もしかしたら、さっさと女の子と知り合って、ちゃっかり付き合ってしまうのかも知れない。
勿論、あたしたちの関係は何一つ変わっていなかった。またあの時と同じ目で見られるのが怖くて、今日まであたしは何も出来ずにいたのだ。
何度か声を掛けようとしたことはある。でも、兄貴のあの目を見ると、口がからからに乾いて、声が出なくなる。
でも、確実に、明日の朝には兄貴はこの家を出て行ってしまう。
このまま何もせず兄貴を送り出してしまったら、もう何もかもが終わってしまう。そんな気がした。

あたしは、兄貴の部屋の前に立った。
お父さんもお母さんも既に寝てしまっているようで、家の中は暗く、静まり返っていた。
物音こそしていないが、兄貴の部屋の電気はまだ付いている。CDも漫画もエロ本も無い部屋で、兄貴は何をしているのだろう。
あたしは、あの日一緒に出来なかったエロゲーのパッケージをぎゅっと抱きしめて、涙をそっと拭って、
そして震える手で、兄貴の部屋のドアをノックした。

680 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 23:41:23 ID:MHbiLhHA0 [7/7]
.>>688
「――という小説を書いたのだけど如何かしら?」
「…なんで俺、こんなに受験失敗してんの?どうして悲惨なの?」
「なんであたしがこ、こいつとエロゲーすんのにニヤケなきゃなんないワケ!?
おまけに地味子を『まなちゃん』だなんてふざけんなっつーの!」
「あら、喜んでもらえなかったかしら」
「誰が喜ぶか!大体さあ、シスコンのこいつがあたしと話さなくなるなんて
有り得る訳ないじゃん。『お前がいないと寂しくて死んじゃうかも』とか言ったんだよ?」
「くっ…、まだそれを言うのか…!」
「へー、それじゃああなたと一緒なのね。ほんと似たもの兄妹だこと」
「なっ!?ちょ、あんた!?」

720 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 01:08:26 ID:X0aiqb5I0 [1/6]




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最終更新:2011年05月01日 22:32