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マクイヤは機会をうかがっていた。
ヴェルデ伯爵が5つの隣国すべてを平定し凱旋したのが2週間前。
その前日からマクイヤは、使用人として伯爵の居城で働いている。手引きをしたのはラインハルトである。
日々、マクイヤは伯爵の日常を観察し続けていた。
何時に眠り、何時に起き、何時に食事を取り、何時に執務を行うのか……
暗殺を成功させるために、対象のすべてを知るべし。これはマクイヤが己自身に定めた鉄則であった。
暗殺者としての日々を遠く過ぎ去っていたが、いまだ刻まれた業は消えぬ。
しかしこういった用心深さ、周到な準備のおかげで、他の同業者がことごとく仕損じた困難な対象をも、マクイヤは仕留めてきた。
目的を果たせなかった依頼人が最後に訪れる先はマクイヤ――“最後のアサシン”と呼ばれる由縁であった。
そのマクイヤが、決行の時を迎えようとしていた。灯りを消した寝室で伯爵が眠りに就いている。
最も眠りの深い夜明け前に、短剣で心臓を貫く。音も無く静かに、事は成されるであろう。
長い観察の末、マクイヤが選んだ最適の時間と場所であった。
今マクイヤは、ゆっくりと寝室の扉を開く。足音を消して進む技能は暗殺者にとって必須であり、
その技能は錆付いてはいなかった。数歩進み、腕の届く距離に、深く眠っている伯爵を捉える。
右手に握った短剣を振り下ろせば、すべてが終わる――
ところがその刹那、マクイヤは紅蓮の炎に包まれた。
寝室の床には、黒い灰の山が残った。
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夜が開け、広間でヴェルデ伯爵とクラウディア、そしてラインハルトがテーブルに着き、朝食を摂っている。
ラインハルトは激しく動揺していた。彼は、暗殺決行が今日の未明であることを聞いていた。
にも関わらず目の前の伯爵は何事も無かったかのように落ち着き払い食事をしている。
そして使用人たちの中に、マクイヤの姿が無かった。
「ラインハルトよ、なにを怯えている?」
ヴェルデ伯爵は淡々と問う。ラインハルトは絶句している。
「今日までよく働いてくれたな」
伯爵はゆっくりと立ち上がり、ラインハルトに向け、右手をかざした。
「……さらばだ」
言うやいなや伯爵は、テーブルもろともラインハルトを轟炎で覆い尽くす。
「貴公は余に暗殺者を差し向け、余に取って代わろうと企んでいた」
何らの感情も表に出さず、伯爵は言う。
「すべてはクラウディアが教えてくれたのだ」
その一言を聞き、死の間際にいるラインハルトは衝撃を受けた。
そして伯爵の傍らに立つクラウディアを見た。
「クラウディア……なぜだ……」
絞り出すような声で問いかけるが、クラウディアは答えない。
ラインハルトが絶命の時最後に見たものは、冷淡にして女神のように美しいクラウディアであった。
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「これでこの国も、周りの国々も……そう、天に輝く星々さえも、あなたのものですわ」
微笑みつつ伯爵に寄り添うクラウディアである。
「そうだな。では改めて朝食にしよう」
伯爵は使用人を呼んだ。しかしそれに応える声は無い。使用人は、ことごとく逃げ散っていた。
当然であろう。
伯爵の「赤の力」は血縁者にまで向けられた。どのような経緯があったのか、使用人には理解できぬ。
ただ畏れ、遠ざかることしかできない。
「毎夜紅茶を淹れてくれた執事の……名はなんと言ったか……彼も、既におらぬか」
当の伯爵は、なぜ使用人が皆逃げたのか理解できずにいる。忠誠を尽くしていた執事の名すら、思い出せなく
なっている。
「まあよい。クラウディアよ、お前さえ側にいてくれれば」
暗殺者を返り討ちにし、次いで従兄弟をも消し去った。異常な事態である。
しかし伯爵は虚ろに笑い、その瞳は爛々とぎらついていた。抑えきれぬ野心を映すように。
その時――大広間に、突如として人影が飛び込んできた。
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「貴様は……!?」
伯爵は驚愕した。なぜならば夜明け前に寝室で灰と化したはずの暗殺者が今、眼前に立っている。
服装は使用人のそれではなく、まるで貴族のような着衣であった。
伯爵が「赤の力」で燃やしたのは、マクイヤが着衣の上に重ねていた使用人の服のみであったのかも知れない。
不思議な力が、マクイヤを護ったとしか解釈できぬ。
「……俺にもわからない。なぜ俺が生きているのか。ただ、これだけはわかる」
死の淵から蘇ったマクイヤは、伯爵の傍らに立つクラウディアに対峙し、叫ぶ。
「ヴェルデ伯爵とラインハルト子爵を操り、争いを導いたのは、お前だ!」
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「聞くに値しない戯言はやめよ」
ヴェルデ伯爵は再び「赤の力」を発現し、マクイヤに炎を浴びせる。
しかしその時マクイヤの全身は白い光に包まれ、紅蓮の業火を跳ね返した――!
「……どういうことだ?」
今や伯爵の顔色は驚きのみではなく、微かな不安が包まれている。
そしてマクイヤを包む白い光はさらに大きく拡がり、
伯爵とクラウディアをも呑み込み、大広間を輝きで満たした後、ようやく収まった。
「フフフ……君、生死を彷徨ったおかげで、白の力に目覚めたんだね」
声の主は伯爵でもクラウディアでもなかった。
「そ、そなたは……あの時の!?」
伯爵には見覚えがあった。男にも見えるし女にも見える。若者に見えるが若者には持ち得ぬ落ち着きがある。
3年前、ヴェルデ伯爵に「赤の力」を与えた、得体の知れぬ者――
「私の名は朱雀、白の力を受けたせいで、化身が解けてしまったよ」
伯爵夫人クラウディアの真の姿は――伝説の神獣、朱雀だった。
「白の力?俺にはわからない。ただわかるのは、お前がいなければこんなことにはなっていなかった!」
怒りを込めた目で朱雀を睨み叫ぶマクイヤ。
その身体はマクイヤの激昂に呼応するかのごとく、再びうっすらと白い光を帯びつつある。
「白の力は真実を照らす……だが君の解釈は違うな。間違っている」
薄笑いを浮かべながら朱雀はこう答えた。
「私は力を与えただけだよ。力の使い方を決めたのはその男さ」
クラウディアという美女に化身し、隣国への侵功を提案したのは朱雀である。
しかしそれは強制でも無く、催眠でも無い。あくまで伯爵の意志であった。
同様に、ラインハルトに謀反を唆したのも朱雀である。
しかし伯爵に対する説得を諦め暗殺者を招き入れたのは、やはりラインハルトの意志であった。
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「人間というものは実に面白い。過ぎた力を与えればそれに呑まれ、本章を露わにする。
あるいは欲しいものを手に入れるためなら、何年も手を取り合ってきた人間すら葬り去ろうとする」
前者はヴェルデ伯爵を、後者はラインハルトを示唆しているのであろう。
朱雀は愉悦に浸るかのごとく、含み笑いを漏らす。
「……そうか、余は力に溺れ、大切なものを見失っていたというのか」
伯爵は寂しげに、しかし力強く構え、「赤の力」を――己の全身に纏った。
「償わねばならぬな。犯した過ちを」
一際激しく燃えさかる炎とともに、伯爵は朱雀をかき抱いた。
自らの身を燃やしながら、朱雀をも燃やすつもりであったのだろう。ところが――
「いい退屈しのぎだった。君らと会うことはもうないだろうが、またいつか人間の本性を見に来るよ。ハハハハッ……」
高笑いとともに朱雀はその場から消えてゆく。伯爵は自らが生み出した炎の中で息絶えた。
大広間にはマクイヤだけが残った。“最後のアサシン”は、今回も最後まで生き延びた。
そのマクイヤが、灰と化した伯爵をじっと見る。灰の奥には壁があり、そこには皮肉にも、
名君と呼ばれていた頃の、正義と威厳に溢れる伯爵の肖像画が飾られていた。
その後マクイヤが我が家に帰ると、そこには肺病から快癒した妹がいた。
「赤の力」の持ち主がこの世界から消えたおかげで、
同時に「懺悔の灰」が引き起こす疫病も消え去ったのである。
マクイヤが暗殺に失敗したのはこれが最初にして最後である。
しかし、彼の目的は達せられた。
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