ストーリー

登場人物

ヴァネッサ・ド・ヴェルデ伯爵
とある領国を治める伯爵家に生まれ、壮年期に先代が没すると爵位を継承した。
ほどなく領内に銀鉱山が発見され、採掘権を巡る争いが長く続き領国は荒廃していた。
しかしある時信じがたい異能「赤の力」を発揮し、自ら戦って紛争を終結させる。
平和が訪れた領国を繁栄に導き、その後しばらくの間は領民を思いやる名君として慕われていた。

彼の顔立ちはDJ YOSHITAKAがモデルとなっている。(後のJOMANDA/VALLIS-NERIA/Lisa-RICCIAの魁とも言える)

また、ヴァネッサ伯爵というキャラの初出は、beatmaniaIIDX 14 GOLDのVANESSAのムービーによる。http://www.konami.jp/bemani/bm2dx/bm2dx14/song/vanessa.html
(ただし特殊なレイヤー処理を使用していたためか、IIDX tricoroの時点でムービーそのものが削除されてしまっている)
リフレクでもお馴染みのAnisakis -somatic mutation type"Forza"-の初出である
beatmaniaIIDX 15 DJ TROOPERSにおける曲紹介(http://www.konami.jp/bemani/bm2dx/bm2dx15/song/anisakis.html)で触れられていた彼の晩年は、この物語で明確に提示されることになった。

ラインハルト子爵
ヴェルデ伯爵と共に戦い、領国平定に貢献した伯爵の親戚。
爵位が低いので自分の領国は持っておらず、紛争が終わった後もヴァネッサ伯爵のもとで執政の補佐を勤めていた。
ところが、あまりにも美しいクラウディアに道ならぬ恋幕を抱いてしまう。彼の想いが行き着く先は……?

こちらはL.E.D.がモデルであると言われている。

ヴェルデ夫人:クラウディア
正確な時期は不明だが、紛争終結の前後に突如として伯爵領に現れた若く美しい女性。
没落貴族の生き残りとも王族の隠し子とも噂されるがいずれも定かではない。
独身だったヴェルデ伯爵と恋に落ち結婚、伯爵夫人となる。
結婚後はほとんど城から出ず、領民はその様子を知る由もない。

マクイヤ
"最後のアサシン"と呼ばれている、凄腕の暗殺者。
無自覚のうちに「白の力」なる異能を秘めており、
数々の危険な依頼を生き延びてきた。
一度は暗殺の仕事から足を洗ったのだが、「懴悔の灰」による理不尽な病に侵された
妹を治すために大金を必要とするようになり、再び暗殺依頼を請け負うことになる。

挿絵では覆面であり、ジャケットでの描写も詳細な肖像画であるわけではない。
彼にまつわる楽曲の曲調も不確定だが、最も有力な説として、モデルはTAGではないかと言われている。

+ 伝説の神獣 最終章クリア後の閲覧を推奨する
朱雀
伝説の神獣。契約により”時代を動かす力”を人間に与える。
その真意は単に人間の本性を観察するために他ならず、
そのために正体を欺いており、真の姿を見ることは人間には不可能であった。

キャラの初出はbeatmania IIDX 13 DistorteDのCONTRACT。(http://www.konami.jp/am/bm2dx/bm2dx13/song/contract.html
登場当時は少女としての印象が大きかったように思えるのだが、
伯爵が「男にも見えるし女にも見える」と証言していることもあり、やや中性的な印象を感じることも可能ではある。

この「朱雀」が登場したイベント・CARDINAL GATEは、以降のbeatmania IIDXにおけるEXTRA STAGEでのボスフォルダイベントの先駆けとなった。
REFLEC BEATに収録されたwaxing and wandingと、そのアーティスト名義「青龍」も、元は同イベントにおけるボス四天王:四神の一角を担っていたのである。

赤い力
感情の起伏やその心の振れ幅で「炎を操る」。
ヴァネッサ伯爵が朱雀との契約により得た。
白の力
マクイヤが無自覚に持っていた「真実を照らす」力。
赤い力に焼かれる間際に覚醒し、朱雀の化身もろともそれを払いのけてみせたが、
それ以外にも彼の命を数々の危機から密かに救ってきたと思われる。
懺悔の灰
赤い力に焼かれた物の灰は総じて異常に黒く、それを吸い込むと不治の重病を患う。
マクイヤの妹がこの病を患わっており、それがマクイヤが行動を起こす一因となった。



序章

+ 序章
ここにあった町は土くれに帰し、ここに生きた人々はもういない。
ただ朽ちた城だけが、深く暗い森の中、静かに在る。

かつてここには銀の鉱山があった。
銀を巡って争いは絶えず、数多の命がこの地で露と化した。
「赤の力」を持つ伯爵が現れるまでは――

彼の地に立つ城を訪れるものは見るだろう。
この地を総べ、刹那の繁栄をもたらした伯爵の肖像を。

物言わぬ肖像はしかし、時として見る者の心を動かす旋律を響かせるという。
肖像に塗り込められた伯爵の妄執が人の聴覚を惑わすのか。
あるいは己の内奥に潜む深層心理が反響しているだけなのか。

旋律は甘美にして激しく、草木を揺らし天に届くと伝えられている。
しかしそれを聴くことが叶うのは、いにしえの寓話を読み解いた者のみ――
かつてこの古城に住まいし伯爵の物語。伯爵と関わる人々の物語。
そこにあるのは悲劇か喜劇か、あるいはその両方か。
城の中に遺された寓話の断片をつなぎ合わせることができれば、封じられた旋律は蘇る。

今、目の前に城門がそびえ立つ。

いにしえの旋律を求めし者よ。暗き城に入りあかりを灯せ。
あかりは、長き時の流れに埋もれ掠れた寓話の行く末を照らす。
そして寓話の真実を知った者は――旋律を得る。

幻の旋律を。
禁じられた旋律を。

第Ⅰ章

+ 第Ⅰ章

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 分厚く重い木製の扉がノックされる音に気づき、ヴェルデ伯爵は入室を許した。
「紅茶をお持ちしました。ほんの少し、冷めているかも知れませんが」
「うむ、いただこうか」
 執事のクリスがティーカップに紅茶を注ぐ。伯爵はひと口飲むとこう言った。
「いつも通り上手く紅茶を入れてくれるものだ」
 これは7年続いているクリスの日課で、
特にオーダーを受けずとも決まった時間になれば紅茶を淹れることになっている。
そこには1分1秒の狂いもない。
「それはよかったです。5回もノックしましたのに、伯爵がお気づきにならなかったので、その分冷めてしまうかと恐れていたのですが」
 クリスはうやうやしく辞儀をし、伯爵の書斎から退出した。
残された伯爵は眉間にしわを刻みながら煩悶している。4回目までノックに気づかなかったのもそのせいだ。

「どうすればよいのか……」
 つい最近、ヴェルデ伯爵の領国に豊富な埋蔵量を誇る銀鉱山が発見された。
採掘権を巡り、銀商人どもが私兵団を編成し、兵士の命を手駒にした陣取り合戦を繰り返している。
伯爵家にも騎士団はいたが代々平穏に過ごしていたので数も少なく、名ばかりのものであった。
 どうすれば再び領国を安寧させられるのか。
ヴェルデ伯爵の悩みはこれに尽き、そして解決策を見つけることができずにいる。

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その時、伯爵の脳裏に声が響いた。
「力を制する力が欲しくば、城の地下に来い」
 幻聴か。しかし憔悴していた伯爵は、まるで憑かれたように居城の地下室へと降りてゆく。
するとそこには――
人としてはあまりに均整が取れすぎた容貌の何者かが、微笑を浮かべつつ立っていた。

 伯爵はこのような者を見たことがない。どうやってこの城に入ったのか見当も付かない。
男にも見えるし女にも見える。若者にも見えるが若者には持ち得ない落ち着きも感じる。
「我と契約せよ。力を与えてやる。」
 得体の知れない存在である。代償も不要という。信ずるに値する点などひとつもない、怪しげな契約である。

 しかし――伯爵は即座に了承した。
眼前に立つ者の言葉と立ち居振る舞いに吸い込まれたのか、
あるいは領国に安寧をもたらしたい一心で、藁にもすがる思いで契約を受け入れたのか、その両方なのか。
「契約は成った。この力、汝の思うままに使うがよい」

 そう言い残し、どこの誰ともわからぬ人物は煙のように消えた。
それと入れ替わるように、伯爵の左手の薬指に、まるで指輪のようなアザが浮かび上がった。
アザを見た伯爵は意識を失い、次に目覚めるとそこには翌朝の寝室だった。

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妙に頭が冴えている。

 戦いで荒れた領国をどう処するのか、
答えの出ない問いに幾日幾月も悩み続けていたというのに、今はなぜかすべてが解決できるような……
いや、すでに解決したかのような確信が、伯爵の意識を満たしている。
全く理屈の通らぬ自覚だが、伯爵はそれを疑問に感じることはなく、むしろ己が全身からあふれ出るような
“力”を感じていた。そして、昨夜の契約を鮮明に想起した。左手の薬指を見ると、指輪のようなアザがある。
やはり――夢では無かったのか。

「伯爵! 大変です!」
寝室に飛び込んできた若者は伯爵の従兄弟、ラインハルト子爵であった。
「銀商人の争いが拡大し、城下町まで戦場になっています。このままでは領民が!」
 ヴェルデ伯爵の政務を常々補佐しているラインハルトは、事態を急とみて寝室まで駆け込んだのであろう。
しかし伯爵は落ち着き払った様子で、こう言った。
「騎士団を集めよ。それらを伴い暴虐の者どもを平定する」
 ラインハルトは絶句した。自分と伯爵を合わせても10人に満たない手勢である。
私兵団を相手に出来るとは思えない。しかし伯爵に迷いはなく、その目に吞まれたラインハルトは戦支度を整えた。
 城門は開かれ、ヴェルデ伯爵を先頭に10人足らずの者たちがゆっくりと馬を進める。
伯爵家に仕える5人の楽士が高らかに金管楽器を吹き鳴らし、戦場に赴く伯爵たちを送る。
それは出陣の旋律だが、葬送の旋律にも似て。

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 奇跡が起きた。争い合う2つの私兵団、その両方を、すべてを、伯爵が消し去った。

 伯爵はただ、多くの死闘と混乱に包まれた戦場に踏み入っただけである。
たったそれだけで、周囲にいる傭兵どもが紅蓮の炎に包まれ、瞬時に燃え尽き黒い灰と化した。
伯爵は城下町を平定したその足で森の奥にある鉱山に向かい、そのまますべての私兵団を焼き尽くした。
大地は黒い灰で覆われ、戦を恐れ逃げ隠れていたリスや小鳥などの小動物が、森に還ってきた。

 これが契約で得た力――「赤の力」であった。

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 鉱山から城下町に戻ったヴェルテ伯爵とラインハルトを、町の人々は喝采で迎えた。
不毛な争いをわずか一日で終結させたふたりは、まさに英雄であった。
 凱旋の喧噪。そこに一際目を引く美しき女性がいた。
女性はじっと伯爵を見つめていた。伯爵も、足を止めてその女性を見ていた。

 その女性の名はクラウディア。ほどなくして、伯爵夫人となる女性。

第Ⅱ章

+ 第Ⅱ章

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領国に穏やかな日々が戻った。
紛争を指揮してきた商人どもは、ヴェルデ伯爵の「赤の力」がすべての傭兵を灰と化したことを知った。
逆らう気すら起きぬ超常の力――彼らは二度とこの地に近寄らないであろう。

争いの火種であった銀鉱山は、伯爵家が直轄することとなった。
 これによりおのずと領国は豊かになった。代々領民をいたわる伯爵家である。
例に漏れずヴェルデ伯爵も銀鉱山が生み出す富を私欲には利用しない。
領国の繁栄と貧者の救済に充て続け、3年の歳月が過ぎていく。
その結果、領民のみならず隣国の衆にまで
ヴェルデ伯爵は名君であるとの誉れは響き渡り、確たる名声が築き上げられた。

 誰もが、ヴェルデ伯爵領は永劫に安寧を保つであろうと信じていた。伯爵自身も、自信を深めている。
しかしただひとり、不安を訴える者がいた。
「近頃、悪い夢をよく見ます。我が国の豊富な銀を狙い、隣国の諸侯がこの地に攻め込んでくるのです。
私は、恐ろしい……これがもし、現実になったら……」
 伯爵夫人クラウディアは言い募る。怯えたような衰弱したような顔つきだが、
それがもし彼女の美しさを損なうことは無く、むしろ儚げな魅力が増し、伯爵の心を打つのである。

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「では、どうすればいいのだ?」
 ヴェルデ伯爵はクラウディアを愛している。
商人どもの私兵団を殲滅したあの日、偶然町中で目が合った女性に過ぎないのだが、
伯爵は一瞬にしてその深い瞳に吸い込まれていた。
5日後には婚姻を申し込み、クラウディアもその申し出を謹みつつも受け入れた。

 クラウディアの素性は、いくら調べても判然としない。
町人たちの噂では「没落貴族の落とし子」とも「王族の隠し子」とも言われているらしいが、所詮噂である。
本来であれば出自のわからぬ女性を娶ることなど、貴族にはあり得ない。
しかしクラウディアが纏う高貴なる者特有の気配と美しさは、
伯爵にしきたりを破らせるには十分過ぎるほどであったという。

「私はお前が不安に怯える顔など見たくは無い、望みがあるなら申せ」
 クラウディアを愛するが故、伯爵はこのように答えた。
しかしそれに対するクラウディアの要望は穏便なものではなかった。
「隣国が無ければ、攻め込まれる不安も無くなると思うのです」

 剣呑な提案である。元来穏健な伯爵は、現に3年前のあの日以来「赤の力」を用いたことは無い。
その伯爵は、いまだ攻め込まれてもいない状況で先制攻撃をするとは思えぬ。
「……わかった。隣国を滅ぼせよいのだな」
 しかしなぜか、伯爵は一片の逡巡もなくクラウディアの願いを受けて入れていた。
 まるでなにかに、魅入られたように――

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 かくしてヴェルデ伯爵は出征し、領国を取り囲む5つの隣国のうち2つを、わずか3週間で滅ぼした。
わずかな従者のみを引き連れての出征である。
しかし3年間使われることの無かった「赤の力」が存分に振るわれ、隣国の騎士たちはことごとく黒い灰と化した。
 なお出征にあたり伯爵不在の間、領国の守りは手薄になる、
それを案じたヴェルデ伯爵はラインハルトに、民兵を強制徴用し守備隊を編成せよと命じた。
「伯爵、なぜ今、隣国を攻め滅ぼす必要があるのですか?」
 しかも、領民に無理を強いる施策である。ラインハルトの疑問は尤もであった。
「貴公が理由を考える必要は無い。ただ余の言に従えばよいのだ」

 何がきっかけでヴェルデ伯爵がこのように豹変したのか、ラインハルトには理解できない。
しかしラインハルトもまた「赤の力」を目の当たりにし伯爵を畏れていたので、それ以上強く反駁することはできなかった。
「残るは3カ国……5つの隣国すべてを平定するまで、失敗は許されぬ
 ラインハルトの具申はこの時――3度目の出征直前が最後であった。
あれほど穏和であったはずの伯爵の表情が、この時邪悪な笑みに歪んでいたという。
そして、ラインハルトがそれ以上の具申をしなかった理由は、実に次のような経緯であった。

「伯爵様は、変わってしまわれました。あのお方の暴走を止められるのは、ラインハルト様だけです」

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 ヴェルデ伯爵が出征で城を留守にしている間に、悲しげな目でラインハルトに言い募るクラウディアである。
もとよりラインハルトは、クラウディアのことを好いていた。いや、好いていたどころでは無い。
この3年間、クラウディアのことを想わず眠りについたことは一度も無い。
ラインハルトの心は、美しきクラウディアの虜であり続けた。だがクラウディアは伯爵夫人である。
それゆえ、想いが表に溢れぬよう自制していたに過ぎない。

「ラインハルト様、お優しい貴方様こそがこの地を治めるにふさわしいお方です…
…どうか伯爵を打ち破り、真の安寧を私にお与え下さい」
 クラウディアによるわずか二言三言の願いであったが、ラインハルトの心を揺さぶるには余りある。
無論この時ラインハルトは、クラウディアこそが伯爵に隣国制圧を願った張本人であるとは知る由も無い。
こうして、謀反の決意は固まった。

 ただし手段が問題である。伯爵の「赤い力」と渡り合うなど、到底考えられぬ。
正面からでは誰一人かなわないのだ。ならば暗殺を専業とする者、それも超一流の手練れにやらせるしかない。
そう考えたラインハルトは市井のつてを頼り、裏社会で名を馳せた暗殺者を推薦され、接触に成功した。
裏社会の人々はその暗殺者を「最後のアサシン」と呼んでいる、という――

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 最後のアサシン、その名はマクイヤ。
 既に若くして暗殺の生業からは足を洗っていた。
人の命をひとつ消し去るたびに、自分のなかのなにかがひとつずつ失われるような感覚が常にあった。
およそ5年前それに耐えきれなくなり、報酬は少ないが真っ当な仕事に身を置くことにしたのだった。
 ところが今彼は、大金を必要としている。

 マクイヤには妹がいた。しかしその妹は3年前から今日に至るまで、床から起き上がったことは一度も無い。
原因不明の肺病に、冒されているのだ。
 医師は高価な薬を処方し、その薬のおかげでかろうじて妹の命は保たれているのだが、快癒できるほどの効能はない。
暗殺を生業としていた頃の蓄えを切り崩し薬を買い続けていたマクイヤだったが、もはやそれも尽きかけている。
それゆえ、ラインハルトの依頼を聞いたとき、彼の選択肢はひとつしかなかった。
「お前は、絶対に死なせない」
 強い覚悟が、マクイヤの精神を研ぎ澄ませる。

ただし――この時のマクイヤは知らない。
妹が病んだのは、伯爵の「赤の力」で燃やされた後に残る「懺悔の灰」を吸い込んでいたことが原因であると。
そして妹が死なずに済んでいるのは薬の効能ではなく、マクイヤ自身が持つ「白の力」のおかげであることを。

最終章

+ 最終章

1ページ目

 マクイヤは機会をうかがっていた。
 ヴェルデ伯爵が5つの隣国すべてを平定し凱旋したのが2週間前。
その前日からマクイヤは、使用人として伯爵の居城で働いている。手引きをしたのはラインハルトである。

 日々、マクイヤは伯爵の日常を観察し続けていた。
何時に眠り、何時に起き、何時に食事を取り、何時に執務を行うのか……
暗殺を成功させるために、対象のすべてを知るべし。これはマクイヤが己自身に定めた鉄則であった。
暗殺者としての日々を遠く過ぎ去っていたが、いまだ刻まれた業は消えぬ。
しかしこういった用心深さ、周到な準備のおかげで、他の同業者がことごとく仕損じた困難な対象をも、マクイヤは仕留めてきた。
目的を果たせなかった依頼人が最後に訪れる先はマクイヤ――“最後のアサシン”と呼ばれる由縁であった。

 そのマクイヤが、決行の時を迎えようとしていた。灯りを消した寝室で伯爵が眠りに就いている。
最も眠りの深い夜明け前に、短剣で心臓を貫く。音も無く静かに、事は成されるであろう。
長い観察の末、マクイヤが選んだ最適の時間と場所であった。

 今マクイヤは、ゆっくりと寝室の扉を開く。足音を消して進む技能は暗殺者にとって必須であり、
その技能は錆付いてはいなかった。数歩進み、腕の届く距離に、深く眠っている伯爵を捉える。
右手に握った短剣を振り下ろせば、すべてが終わる――

 ところがその刹那、マクイヤは紅蓮の炎に包まれた。
 寝室の床には、黒い灰の山が残った。

2ページ目

夜が開け、広間でヴェルデ伯爵とクラウディア、そしてラインハルトがテーブルに着き、朝食を摂っている。
 ラインハルトは激しく動揺していた。彼は、暗殺決行が今日の未明であることを聞いていた。
にも関わらず目の前の伯爵は何事も無かったかのように落ち着き払い食事をしている。
そして使用人たちの中に、マクイヤの姿が無かった。

「ラインハルトよ、なにを怯えている?」
 ヴェルデ伯爵は淡々と問う。ラインハルトは絶句している。
「今日までよく働いてくれたな」
 伯爵はゆっくりと立ち上がり、ラインハルトに向け、右手をかざした。

「……さらばだ」
 言うやいなや伯爵は、テーブルもろともラインハルトを轟炎で覆い尽くす。
「貴公は余に暗殺者を差し向け、余に取って代わろうと企んでいた」
 何らの感情も表に出さず、伯爵は言う。
「すべてはクラウディアが教えてくれたのだ」
 その一言を聞き、死の間際にいるラインハルトは衝撃を受けた。
そして伯爵の傍らに立つクラウディアを見た。
「クラウディア……なぜだ……」
 絞り出すような声で問いかけるが、クラウディアは答えない。
ラインハルトが絶命の時最後に見たものは、冷淡にして女神のように美しいクラウディアであった。

3ページ目

「これでこの国も、周りの国々も……そう、天に輝く々さえも、あなたのものですわ」
 微笑みつつ伯爵に寄り添うクラウディアである。
「そうだな。では改めて朝食にしよう」
 伯爵は使用人を呼んだ。しかしそれに応える声は無い。使用人は、ことごとく逃げ散っていた。

当然であろう。
伯爵の「赤の力」は血縁者にまで向けられた。どのような経緯があったのか、使用人には理解できぬ。
ただ畏れ、遠ざかることしかできない。
「毎夜紅茶を淹れてくれた執事の……名はなんと言ったか……彼も、既におらぬか」
 当の伯爵は、なぜ使用人が皆逃げたのか理解できずにいる。忠誠を尽くしていた執事の名すら、思い出せなく
なっている。
「まあよい。クラウディアよ、お前さえ側にいてくれれば」
 暗殺者を返り討ちにし、次いで従兄弟をも消し去った。異常な事態である。
しかし伯爵は虚ろに笑い、その瞳は爛々とぎらついていた。抑えきれぬ野心を映すように。

 その時――大広間に、突如として人影が飛び込んできた。

4ページ目

「貴様は……!?」

 伯爵は驚愕した。なぜならば夜明け前に寝室で灰と化したはずの暗殺者が今、眼前に立っている。
服装は使用人のそれではなく、まるで貴族のような着衣であった。
伯爵が「赤の力」で燃やしたのは、マクイヤが着衣の上に重ねていた使用人の服のみであったのかも知れない。
不思議な力が、マクイヤを護ったとしか解釈できぬ。

「……俺にもわからない。なぜ俺が生きているのか。ただ、これだけはわかる」
死の淵から蘇ったマクイヤは、伯爵の傍らに立つクラウディアに対峙し、叫ぶ。

「ヴェルデ伯爵とラインハルト子爵を操り、争いを導いたのは、お前だ!」

5ページ目

「聞くに値しない戯言はやめよ」
 ヴェルデ伯爵は再び「赤の力」を発現し、マクイヤに炎を浴びせる。
しかしその時マクイヤの全身は白い光に包まれ、紅蓮の業火を跳ね返した――!
「……どういうことだ?」
 今や伯爵の顔色は驚きのみではなく、微かな不安が包まれている。
そしてマクイヤを包む白い光はさらに大きく拡がり、
伯爵とクラウディアをも呑み込み、大広間を輝きで満たした後、ようやく収まった。

「フフフ……君、生死を彷徨ったおかげで、白の力に目覚めたんだね」
 声の主は伯爵でもクラウディアでもなかった。
「そ、そなたは……あの時の!?」
 伯爵には見覚えがあった。男にも見えるし女にも見える。若者に見えるが若者には持ち得ぬ落ち着きがある。
3年前、ヴェルデ伯爵に「赤の力」を与えた、得体の知れぬ者――
「私の名は朱雀、白の力を受けたせいで、化身が解けてしまったよ
 伯爵夫人クラウディアの真の姿は――伝説の神獣、朱雀だった。
「白の力?俺にはわからない。ただわかるのは、お前がいなければこんなことにはなっていなかった!」
 怒りを込めた目で朱雀を睨み叫ぶマクイヤ。
その身体はマクイヤの激昂に呼応するかのごとく、再びうっすらと白い光を帯びつつある。
「白の力は真実を照らす……だが君の解釈は違うな。間違っている」
 薄笑いを浮かべながら朱雀はこう答えた。
「私は力を与えただけだよ。力の使い方を決めたのはその男さ」

 クラウディアという美女に化身し、隣国への侵功を提案したのは朱雀である。
しかしそれは強制でも無く、催眠でも無い。あくまで伯爵の意志であった。
 同様に、ラインハルトに謀反を唆したのも朱雀である。
しかし伯爵に対する説得を諦め暗殺者を招き入れたのは、やはりラインハルトの意志であった。

6ページ目

「人間というものは実に面白い。過ぎた力を与えればそれに呑まれ、本章を露わにする。
あるいは欲しいものを手に入れるためなら、何年も手を取り合ってきた人間すら葬り去ろうとする」
 前者はヴェルデ伯爵を、後者はラインハルトを示唆しているのであろう。
朱雀は愉悦に浸るかのごとく、含み笑いを漏らす。
「……そうか、余は力に溺れ、大切なものを見失っていたというのか」

 伯爵は寂しげに、しかし力強く構え、「赤の力」を――己の全身に纏った。
「償わねばならぬな。犯した過ちを」

 一際激しく燃えさかる炎とともに、伯爵は朱雀をかき抱いた。
自らの身を燃やしながら、朱雀をも燃やすつもりであったのだろう。ところが――
「いい退屈しのぎだった。君らと会うことはもうないだろうが、またいつか人間の本性を見に来るよ。ハハハハッ……」

 高笑いとともに朱雀はその場から消えてゆく。伯爵は自らが生み出した炎の中で息絶えた。

 大広間にはマクイヤだけが残った。“最後のアサシン”は、今回も最後まで生き延びた。
 そのマクイヤが、灰と化した伯爵をじっと見る。灰の奥には壁があり、そこには皮肉にも、
名君と呼ばれていた頃の、正義と威厳に溢れる伯爵の肖像画が飾られていた。

 その後マクイヤが我が家に帰ると、そこには肺病から快癒した妹がいた。
「赤の力」の持ち主がこの世界から消えたおかげで、
同時に「懺悔の灰」が引き起こす疫病も消え去ったのである。

 マクイヤが暗殺に失敗したのはこれが最初にして最後である。
 しかし、彼の目的は達せられた。

最終更新:2013年12月20日 22:11