論文「藤田流の研究」の補注

序論
①248ページ
②100ページ
③43ページ
④第20巻寺史・宗史
⑤530ページ上段
⑥昭和61年
⑦1500余ページ
⑧補注、序の1 一、前出『寄居町史』作成のための『寄居町史編さん調査報告書』の寺院・神社・各地区所蔵文書目録など4分冊。『寄居町史』別冊資料篇 寄居町文化財保護審議委員会編集、教育委員会昭和56年発行『郷土の歩み』 『 鉢形城跡と郷土文化』中里清著、昭和43年刊
⑨埼玉県編さん「町村合併史」
⑩補注、序の2 二、『新編武蔵風土記稿』(江戸末期のもの)からみるに「藤田」を説明して「コノ名ハ和名抄ニ載タル榛澤郡ノ郷名ニシテ・・」とあり、又「寄居」は当時まだ「村」で、「今ニ村名ハ 鉢形城落去(一五九〇)の後甲州ノ侍小田原の浪士ナトヨリ集リテ居住セシ故ノ名ナリト云」とある。
⑪補注 三、宝亀二年(七七一)10月27日武蔵国を東山道より東海道に編入するということが『続日本紀』にあるという。これは埼玉新聞社刊『埼玉大百科』の年表より採ったが、角川の地名辞典も同じである。
⑫補注 四「佐去多万能津爾乎流布禰乃可是乎伊多美都奈波多由登毛許登奈多延曾禰」サキタマノツニヲルフネノカゼヲイタミツナハタユトモコトナタエソネ」これは昭和四年刊旧版『埼玉県史』奈良時代から採った。
⑬補注 五、群馬県甘楽郡興巌寺蔵『藤田系図』に「政行の女江戸太郎妻」と出ている。因みに兄は行保で、元暦元年二月六日、一谷で討死の経緯も載せられている。
⑭この項は新編埼玉県史の『中世古文書』から採った。例えばその『吾妻鏡』の部で建久六年(一一九五)の条に「五日庚申、畠山二郎重忠為謁明恵上人云々」とあり、その八月十日には熊谷直実が、頼朝と厭離穢土欣求浄土の旨趣を談じたという。又その『中世古文書』は『法然上人絵傳』から「巻二十五」に那河(現児玉郡)の弥次郎入道。「巻二十六」に甘糟忠綱夫妻。並びに宇都宮頼綱主従。「巻二十七」には熊谷直実と法然上人との邂逅・出家のこと「巻二十八」には津戸為守。「巻三十七」にも「武蔵国の御家人桑原入道なる人が法然の弟子になったという。
⑯典拠は前に同じ、正治二年」(一二〇〇)五月十二日、源頼家の命で比企時員が念仏僧の袈裟を剝ぎ焼いたという。しかし「其火自消不焼、則取之如元著逐電」したと、その記事は結ばれている。(序の部 終り)4108記之







私説  鉢形城史論

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第一論名「氏邦の「 鉢形入城論」副題  鉢形城史の根幹たる複数の氏邦の 鉢形入城時期論はいずれも無用である」との思考への批判を待つ 
論題「氏邦は初め天神山城(現長瀞町)にいたが、後に 鉢形城を改修して居城とした。
(平成元年寄居町教育委員会編集発行寄居町史普及版『寄居町の歴史』から)

論題は本書の「中世」にあってその部分は「福島正義」氏の執筆のようである。因みに同氏の著書『武蔵武士』の「原論題」に文言は異なるが『寄居町史 通史編』を執筆されたとあり、当該部分とその前後は同一と言って過言と思われず氏と町の理解が合致したものと私も理解し、それを前提として論を進めたい。
ここで論題も「北條氏邦の 鉢形城入城をめぐって」という梅沢太久夫氏の著作をお借りして氏の蒐集された諸論を伺ったがそれらは時期の差はあるけれどすべて小田原から当地に縁附いてきて秩父横瀬なり、この天神山なりに一旦は入って、改めて 鉢形城へ入城するという過程を執っているように思える。私もその線で何時の入城説が妥当なのかと想像して見ていた。
しかし、二、三年前から当地への北條進出がスムースに進行しなかった説に邂逅した。関心を抱くと地元との軋轢の所在を否定する資料は見出せず不可解ばかり増した。特に氏邦が天神山城にいたとすると、 鉢形城に移るや天神山城と戦うというような理不尽から疑念を募らせたが、既成の牙城には私論は蟷螂の斧でしかなかった。
このとき出会ったのが加茂下仁氏の論であった。それは②「所載の『中世末期の秩父』だった。当初書名からは私の求める所との齟齬を危惧したが幸いにそれは外れた。
当面、肝銘の部分を抄出すると
「はじめ、天神山城に入り、間もなく 鉢形城に移ったといわれてきた。実際はどうだったろうか。永禄四年に起きた謙信の関東進軍に伴う『郡内一乱』において天神山や高松城にたてこもり北條氏に反抗する勢力が存在していたことから考えてもおかしなことになる。氏康のねらいから考えてもおかしい。おそらく氏邦は初めから道灌が『上・武の両国をあい兼ねた地形肝要』と評価した 鉢形城に入城したとみるのが妥当と思われる。これ以後、秩父地域支配に着手してくることになる。その時期ははっきりしないが、永禄三年には謙信の進軍に備えていたと想像されるので、この頃と思われる。この頃、氏邦は名を乙千代といい十八歳前後の若年であった」とあった。
高松城開城要求の古文書もあればこの一連の事項は否定されまいし、それ以上に私の持論のまたとない補強資料と認識したのである。これを足場にして以後私論を展開してみたいと思っている。
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最終更新:2012年01月21日 15:41
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