第二章第一節分

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第二章第一節分 38 一、埼玉史談25-4昭和53年版 しの中で「主なのは『上州藤田系図』『武蔵藤田系図』『武蔵七党系図』であるという。始めの二つはともに『藤田安勝』なる藤田氏の子孫が上州に生存されていて、まず自家の「家譜を繕写して国峰興巌寺に寄納し」たもので、その時が「享保二年八月朔日」とされている。二つめのは、最初のもののうちから、本家にあたる武蔵藤田家関係を「抄出」し、その出身地の菩提寺である寄居の『正龍寺』に納めるべく「今復當寺に納めるために武蔵藤田の世系を抄録し」たもので興巌寺のものが『藤田家譜』、正龍寺のものが『藤田氏譜略』で當然前者が詳しい。三番目は大里村冑山の旧家根岸家に伝わった『七党系図』で『埼玉叢書』に収められている。これらからして「藤田」は「猪股党」からの分派で初代を『五郎政行』といい、系図には「別領武州藤田城邑因土為藤田氏、保元元年源義朝與平清盛於京城、政行従義朝與平氏戦有功」としている。そして以後三代源氏の忠臣として活躍したことになっている。 39 浄土宗全書十九巻 40 右同書15頁 41 右同書16頁 42 概説浄土宗史100頁 43 二十巻529頁下より531頁 第二節 44 浄土宗全書十九巻16頁 45 埼玉県寄居町 46 「郷土のゆみ」614~5頁 47 二「郷土のゆみ」寄居町教育委員会昭和五十六年発行の、614~5頁にある。 一は『
第二章第一節分 38 一、埼玉史談25-4昭和53年版 しの中で「主なのは『上州藤田系図』『武蔵藤田系図』『武蔵七党系図』であるという。始めの二つはともに『藤田安勝』なる藤田氏の子孫が上州に生存されていて、まず自家の「家譜を繕写して国峰興巌寺に寄納し」たもので、その時が「享保二年八月朔日」とされている。二つめのは、最初のもののうちから、本家にあたる武蔵藤田家関係を「抄出」し、その出身地の菩提寺である寄居の『正龍寺』に納めるべく「今復當寺に納めるために武蔵藤田の世系を抄録し」たもので興巌寺のものが『藤田家譜』、正龍寺のものが『藤田氏譜略』で當然前者が詳しい。三番目は大里村冑山の旧家根岸家に伝わった『七党系図』で『埼玉叢書』に収められている。これらからして「藤田」は「猪股党」からの分派で初代を『五郎政行』といい、系図には「別領武州藤田城邑因土為藤田氏、保元元年源義朝與平清盛於京城、政行従義朝與平氏戦有功」としている。そして以後三代源氏の忠臣として活躍したことになっている。 39 浄土宗全書十九巻 40 右同書15頁 41 右同書16頁 42 概説浄土宗史100頁 43 二十巻529頁下より531頁 第二節 44 浄土宗全書十九巻16頁 45 埼玉県寄居町 46 「郷土のゆみ」614~5頁 47 二「郷土のゆみ」寄居町教育委員会昭和五十六年発行の、614~5頁にある。 一は『授手印決答鈔並相承手次状』『授手印決答鈔藤田五重血脈(高声寺所蔵)』『藤田秘伝書、同血脈譜、注記見聞第一』『檀林飯沼弘経寺志、法水分流記』『浄統略讃、蓮門類聚経籍録』 二は『檀林鴻巣勝願寺志』 三は『傳通記授決抄序下(浄土宗大年表(藤本顕泰著)』 四は『埼玉史談』第二十三巻第一号に「沙禰性阿□永二年二月七日」なる川越市的場氏家氏所蔵板碑によるとのこと 48 「郷土のあゆみ」609頁 49 浄土傳燈総系譜15頁 50 三、この項「歴史地理」昭和三六、『良忠の東国教化と教団形成の過程』大橋俊雄師による 51 四、これも前記三による。それによるとまず建長6-7年『観経疏』を講義した。傍ら同六年八月鏑木胤定在阿の要請で『撰擇傳弘決疑鈔』を撰述した。その十二月には椎名八郎の特請で匝瑳郡に移住、翌年にかけ『観経疏定善義』から『玄義分』を講じた。

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