四十八釜四十八話蒐 第二話大丸釜 カニの甲羅(コウラ)はなぜ赤い


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[4z02-4848-2-1]この釜について城外神社仏閣古跡霊場名所記略(多分、江戸期作と推定)の「大丸釜」の項に『長久院古キ玉コノ釜ヨリ上ル』とあります。新編武蔵風土記稿の(江戸、文化文政期)の白岩村の長久院の項に『寺宝、玉一顆』とあって『鼠色ノ玉ナリ文安二年大嶽戒ト云モノノ記セシ添状アレド墨色当時ノサマニ非ス近世事ヲ好ム者のモノセルナルヘシ』と細字で注記されています。試みに文安二年は西暦一四四五年で室町時代です。ここの話題は史実の追究ではありませんので素直に受け流しますが話だけです。
その中で本当にあったと思われる不可解の話があります。それは郷土史の先覚的開拓者中里清氏が、昭和四十三年刊のその著『 鉢形城跡と郷土文化』の「數釜・大丸釜」の項にあるのです。その部分だけ借用させてもらいます。
『長久院に瑠璃光の珠一顆があった。その珠がこの大丸釜から出たというのであるが、今この珠の行方は判然としていない。従ってこの珠がはたして長久院の秘宝であったか否かは古記録にも記されていないので、単なる伝説として後人に伝える外に方法は無いのかも知れない。―――ところがここに面白いことが起こったのである。
それは昭和三十四年九月のある日、私は見知らぬ一人の僧侶の訪問を受けた。見るからに筋骨たくましく、墨そめの衣をまとった朴直な人柄に見えた。来意の要旨は次のようである。
自分は元児玉郡に境を接した大里郡某村の出生、十七歳の時北海道移民として十勝に渡り、馬六十余頭まで持つ農民となり、現在も子孫が後を継いで農業を営んでいる。自分は十数年前、日蓮宗の僧となり一寺を建立して朝夕の勤めをなし、移民で故人となった人達の菩提を弔っている。たまたま故郷へ帰ったついでではあるが、生地に霊験あらたかな薬師如来の秘宝とされている
瑠璃光の珠が 鉢形落城と同時に渡ってきたのだが真相はどうか――、そしてなお続けて申すには○○講まで出来ていて、その珠の由来縁起が書かれてあり、近郷近在の信仰を集めているやしいことが判った。筆者はこの突然の質問にその返答に困ってしまったのである。・・というのも、こうした話を郷土の誰からも一度も聞いたこともなければ、古記録によって見たこともないからである。信じようとすれば出来ないことはなさそうでもある。或いはこの大丸釜から出たと言う長久院の秘宝であった瑠璃光の珠が、落城の際落人の誰かによって城外に密かに持ち去られ、それが今日まで連綿として伝えられているのかも知れない。・・・要領を得ぬ筆者の返答にさぞ不満であったろうが、謝辞を述べた旅僧は残暑の町角へと歩いて行った』とあります。
ここで筆者という中里氏は「史実の冒瀆」を強く嫌悪される歴史研究者として人柄を信じていますので、ここにあげた来訪者のあったことをドラマとしたとはとても思えません。さりとて史実とも思えません。
この文集の筆者としての私もこの文で史実追究はする気はありません。私は荒唐無稽の話題の中にその話を作った・移入した人の気持ちをこのプロローグにしたいとここに蛇足しました。

[4z02-4848-2-2]思うとおかしい表現ですが、「一の釜」が「釜尻」で、上流にある次を「二の釜」と言わず「大丸釜」と固有名詞です。その玉のことは前に書きましたがそれは番外で、これからが本筋です。
釜尻には澤蟹(この後はカニと書きます)がたくさんいました。今も少しはいますがこの話は室町時代です。源平の戦い、南北朝の争いも治まり、世の中もいくらか落ちついてきました。こんな時、數釜庄に一軒の農家がありました。年寄りはもう亡くなり、継いだ夫婦で田畑を耕していました。夫婦の仲は睦まじく、生活も苦しくはなかったのですが、家の中が何か物足りない空気です。そうです。子供が生まれなかったのです。夫婦はこの寂しさを三十三に変身してどんな願いも聞き届けてくれるといって、この頃盛んになっていた観音様に「どうか、子供がさずかりますように」と祈りました。この祈りが通じたのか、やがて女の子が生まれたのでした。
この子は観音様にお願いして生まれたせいか、たいそう利口でした。両親の喜びもまたひとしおで、観音様にどうお礼しようかと考えて、とりあえずその子に観音経を教えることにしました。七つの年から習わせはじめ、十二の年には一通り観音経を覚えました。
この子が娘になった或る日「大丸釜」に洗濯にきました。そこには先に近所の子供たちが来ていて、多くのカニを捕って帰ろうとしているところでした。娘は「そんなにたくさんのカニ、どうするの」とききました。「食うのさ」ブッキラボウな返事でした。娘は「帰ったら、お米を一升あげるから、そのカニ私にくださいな」というと「ほんとだね」と念を押してカニを置いて小踊りして帰っていきました。娘はカニをソッと澤の隠れやすい岩の隙間に放してやりました。
その日、父親は畠を耕していました。お父さんが打ちおろした鍬の先に慌ただしく蛙が跳んできて足元にとまりました。「オヤ」と思って蛙の跳んできた方をみたら、なんと蛇が追いかけてきて忽ち蛙をくわえてしまいました。「アッ」蛙が呑まれてしまう、お父さんは思わず言いました。「蛇よ。蛙を許してやりなさい。もし許してくれたなら、うちの娘の婿にしてやるものを」と。蛇はそれがわかったのか、蛙を吐きだして、一瞬お父さんの顔を見上げる格好をしたかと思うと、向きを変えてもと来た方へ這って行きました。蛙も今度は跳ばずにゆっくり歩いて草の蔭に見えなくなりました。
ヤレヤレとお父さんはホッとしたのですが、すぐにハッと心に走るものがありました。それは蛇に言った言葉です。「わしは、どうしてそんなことを言ってしまったのだろうか。」後悔先にたたずとはこんなことかと心配でなりません。家に帰ってからの夕食も食べたくありません。顔色も悪かったのでしょう。奥さんと娘はさっそくこの様子に気づいて「何があったんですか、ご飯も食べず、それに顔色も悪いし・・」と尋ねました。お父さんは昼間の畑での蛇と蛙のことを話しました。(以下次頁に続けます)
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(前頁からの続き)娘は言いました。「そうだったの。でもご飯たべなさいよ、私にも考えがありますからそんなに心配しないで・・」とかえってお父さんをいたわるのでした。お父さんはこの言葉に元気づけられて食事しました。
その晩、家族が寝ようとした時、戸を叩く音がしました。父は「蛇が来た」と直感して震えだしました。娘はしっかりしていて『三日たったらまた来なさい。その時は約束を守ります』と言ってやんなさい」と言いました。恐る恐る父が戸をあけると、身なりも整った青年が立っていて「昼間のお話によって参上しました」というのです。父は娘の言ったように「生憎、まだ準備できていません。あと三日たってお出で下さい」と言いました。青年は「そうですか」と言っただけで帰っていきました。
さあ、その翌日からです。娘の言うのに従って三人して厚い板を集めて一人入れる頑丈な箱を作りました。それを家の奥の部屋に入れて三日目の夕方には娘をその箱の中」に入れて丈夫な縄で二重・三重に結え絶対に開けられないようにして、襖を閉め両親がそこに見張っていました。
三日目、果たせるかな青年が現れました。今度は「お約束によって参りました」その声は大きく恐ろしく響きました。そして有無なく両親の前に立ちました。しかしそこには父母だけで娘の姿はありません。「かくしたな」青年の顔色が変わってきたと思うやいなや大蛇の姿となって父母がたじろぐ前をゆうゆうと這って、舌の先でちょっと襖を開けたとみるやスルスルと奥の間に入り、娘の入っている箱にグルグルと卷き着きました。そして尾で箱の板を叩き始めました。その力の強い事、絶対大丈夫と作った箱ですが板が折れるのではないかと思えました。そうなると父母も見るどころではありません。ただ目を閉じて恐れ戦いているだけでした。
その時間がどの位続いたのでしょうか。長い、長い時間に思えたのですが、突然箱を叩く音が止みました。「アッ、箱が破られた。娘は?」両親は息をのみました。と、今度は人の声とは違うけれども泣き声のような声が聞こえました。両親が不思議に思ううちにそれも止みました。後は不気味な静寂です。夜が明けてきました。両親は恐る恐る娘の部屋に近づきました。でも入れませんでした。部屋にはそれこそ足の踏み場もない千とも万とも知れぬ無数のカニがいて蛇を刺し殺して出て行くところでした。その中に一匹ひときわ大きいカニがいました。
箱を開けてみると娘の顔色は白かったですが無事でした。出てきた娘は父母に言いました「私は箱の中で夜通し観音経を称えていました。そうしたら一尺ばかりの観音様が現れて観音力(註)を信じなさい。私がその力によってこの難を避けますから」と言ってくれました」と話したのでした。これを聞き、益々観音様を尊敬しました
早速、蛇の死骸を集めて埋葬しました。そしてこれも日頃の心ない言葉から出た災いと反省しました。この時の蛇の血でカニの甲羅は今でも赤いのです。(註 その読み方の例をフッターに、その文字をヘッダーに載せてみました)これでこの項は終です。
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