現代文(小説)

次の文章は、中谷仁の小説「一顆のびわ」である(ただし、途中省略したところがある)。主人公の隆司は高校三年生で、祖父を亡くしたばかりである。これを読んで、後の問い(問1~6)に答えよ。

 法衣の背中には蝿が二匹、止まっていた。隆司はそれをじっと見つめながら、脚が痺れてくるのを感じていた。死臭に誘われる虫が、死を弔う者の背中に止まっている。その奇妙な事実に、隆司はなんとなくおかしみを覚えた。
 さきほどから後列の真樹子と両親の向こうに座った祖母のすすり泣きがやまない。涙ひとつこぼすことのない自分に居心地の悪さを感じ隆司はいっそう背中を丸めた。
 祖父が死んだのは、暑い夏の盛りのことだった。酒も煙草も好まなかった頑健な祖父が癌であると聞かされてから、あっという間のことだった。早朝、慌てたような母に起こされて事を告げられ、やっぱりか、と心中で呟いたのがなぜか鮮明に思い出される。彼を驚かせたのは祖父の死ではなく、それを冷静に受け止めている自分自身であった。見舞いには何度か行ったが、記憶とは随分と違う祖父の姿と、病室に漂う何とも言えぬ臭いのために、隆司はあまりそこを訪れたがらなかった。
 ふと我に返ると、読経はまだ終わる気配もなく続いている。僧の背中にはまだ蝿が二匹、ぴたりと貼りついたように止まっていた。ちらりと隣に座る母を見たが、その顔にはなんの表情も浮かんでいない。時折思い出したように下を向く母の横顔を見つめながら、隆司はまたぼんやりと考えに耽った。
 恵子に頼まれ幼い隆司の世話をした母方の祖父母とは違って、車で四十分の距離に住む父方の祖父母とはあまり会うことはなかった。だがその回数の少なさが距離のためだけではないことを、隆司は早くから知っていたように思う。母の恵子は祖父母を毛嫌いしていることを隠そうともしなかったし、隆一もそれを窘めることはしなかった。両親ともに忙しい人間であったので、母方の祖父母が都合の悪い時には父方の祖父母がやってきて隆司を見たが、その度に隆司は母と祖父母の間に何か目に見えぬ暗いものを感じていた。
 僧の誦む経は波のように隆司を絡めとり、現実という岸辺から攫って思考世界へと押し流す。その朗朗と響く特徴ある声に混じって、やむことのない泣き声が続く。
 この三人の中にじいちゃんの死を本気で悲しんでいる者なんていないじゃないか、と隆司は思った。母はべつとしても喪主をつとめた父は祖父の息子であるし、隆司とてただひとりの内孫である。だがどれほど俯いたところで、涙など出はしない。祖父の死を悲しいと思えるだけの何かが、彼には欠けていた。何も父に喪主をやらせなくてもよかったものを、と出そうになるあくびを噛み殺しながら思う。いまはただ、蝿の止まった法衣の僧の後ろにじっと座っていることが苦痛であった。
 すん、と真樹子の鼻をすする音でまた隆司は現実へ戻った。三つ年上の従姉は、隆司からしてもひどく純朴で気の優しい女である。家の建て替えの際に祖父母の家に住んでいたこともあり、祖父と過ごした時間も内孫である隆司よりもずっと長かったであろう。
隆司にはまるでその泣き声が自分を責めるもののように感じられた。――否、それは隆司の勝手な思い過ごしであることはわかっていた。真樹子はけして、自分がここに座っていることを、心の中でだって責めないであろう。それがかえって、隆司には耐えがたいことに思われるのである。

 経の波は何度か一際大きく揺れると、やがて静かに収まった。
一仕事終えた僧がこちらを振り返る。二匹の蝿はあっという間に飛び上がると、二、三度あたりを旋回して今度はぴたりと向こうの障子にその身の置き場を定めたようだった。ふと隆司の頭を死者の生まれ変わりという言葉が過ぎったが、ふたつの黒黒とした点を見つめそのばかげた考えを振り払った。
 どうにも感傷的になっているようでよくない、そう考えて、あらためてそれが当然のことであると気がつく。
 自分にも、祖父の死を悼む部分があるのだろうか。祖父の死を悼む資格があるのだろうか。隆司は驚きと戸惑いの入り混じった思いで説話を続ける僧に視線を移した。学校で習った、思想家としての仏陀の教えとは随分とかけ離れたことを僧は言っている。
 ――こうやって、どんな想いもやがていつかは朽ち果てるのだ。
 そんなことが隆司の胸に浮かんだ。祖父を失った祖母の嘆きも真樹子の悲しみも、母の中身の見えない憎悪も。己の中の言いようもない蟠りも、自分たちの想いを受け取って、伝える者などいはしない。すぐに風化して消えるのだ。そういうふうに、できているのだ。
 そう考えるのは、好い気持がした。

(中略)

 法事を終えて僧を見送りに出ると、太陽はやや傾きかけていた。まだ暑さの残る日射しに照らされ、恵子が目を細める。真樹子は赤くなった目を眩しさに瞬かせながら僧の白い軽四が走り去るのを見つめていた。背後からはまだ、祖母のすすり泣く声が聞こえる。
「お茶でも飲みましょうか。」
 陽射しを嫌う恵子が車が角を曲がるのを見届けて上り框に上がった。その背中に雅子が続く。法事を終えた後特有の、肩の力が抜けたような空気がそこにはあった。
 隆一と弘は一服しに庭へ消え、幸彦は枯れかけた花を興味深そうに眺めている。
祖父が生きていれば、この名前を教えてくれたかもしれない。あるいは枯れることもなく、いまも咲いていたかもしれない。そんなことをふと隆司は思った。
 視線を感じ振り返ると、泣き腫らした目で真樹子がこちらを見つめている。決まりの悪さを覚え隆司はわずかに視線を逸らした。真樹子が近づいてくる。隆司はとっさに、目の前の樹を見ているふりをした。そこにそのような樹が生えていたことさえ、はっきりと認識したことはなかった。樹は照りつける陽射しを眩しい緑の葉で反射していた。真樹子が口を開いた。
「その樹、たかちゃんが生まれたときにじいちゃんと隆一おじさんが植えた樹なんやって。」
「え?」
 隆司ははじかれたように顔を上げた。事務的なことを除いて祖父と父が話すのを、隆司は見たことがなかった。目の前の樹は太いとは言えないまでもしっかりした幹がすらりと伸び、とてもここに植えられてから二十年も経たぬ若い樹には見えなかった。
 なんの樹だろうか。そっと手を伸ばし、おそるおそる幹に触れてみる。乾いた、固い感触がした。胸の奥から何かがこみあげるのを隆司は感じた。それは悲しみともまた違った、なんとも言葉にしがたい感情だった。
「……これ、なんの樹?」
 真樹子がくすくすと笑った。風に葉が揺れるような声だった。
「それ、びわやよ。」
「びわ?」
 鸚鵡返しに訊ねた隆司に、真樹子は微笑を浮かべて頷いた。隆司の頭に橙色のまるまるとしてよく熟した果実が浮かぶ。あれが、この樹になるのか。
「じいちゃんがびわが好きやから、って理由でびわにしたんやって。でもほんとにたかちゃん、びわ好きになったんやってねえ。昔じいちゃんがたかちゃんにびわ持ってったら、あっという間に全部食べちゃったんやって?」
 赤くなった目を細めてやさしい声で笑う真樹子を、隆司はなんとなく直視することができずふたたび樹に目をやった。
 濃い緑の葉はつやつやとして、触れると日射しに暖められて少し温もっていた。
「それ、もう実がなるんよ。」
「もう?」
 隆司は驚いて真樹子を見つめた。今日はじめて、真樹子の目をはっきりと見た気がした。
「もうっていうか、五年ほど前にきたらちょうどなっとったかな。いまはもっといい実がなると思うよ。」
 隆司は店頭にびわの並ぶ季節を思い起こした。びわの旬は春である。
来年の春には、隆司は大学生になる。進学すれば、この家には年に二度来るか来ないかになるだろう。いままでよりもさらに、足が遠のくだろう。隆司は目の前の樹が実をつけるのを、見てみたいと思った。
 家の中から雅子の声が聞こえる。真樹子を呼んでいる。
「あ、お茶沸いたんかな? 手伝わんと。お兄ちゃんどこ行ったんやろう。」
真樹子は幸彦の姿を探して庭を見渡し、それからあきらめたのかぱたぱたと玄関へ走って行った。煙草を吸い終えた男たちが裏庭から戻ってくる。幸彦はいつの間にか散歩にでも出たのか、その姿が見当たらなかった。真樹子に続いて父と伯父が家に入るのを見届け、隆司は庭を歩き始めた。
 最後の力を振り絞って鳴く蝉の声が響く。名前も知らない植物がそこいらじゅうで気ままに生い茂っている。その緑の鮮やかさが、隆司の胸をついた。
 もう一度びわの樹に触れると、かすかに、けれどしっかりと、何かが脈動しているような気がした。

 家に入る。家の中の薄暗さに、視界を日射しの残像がちらついた。線香のにおいに、つんと鼻の奥が痛んだ。





※常用漢字で無い漢字や難しい読みの漢字にはルビや注釈を付ける必要がある

常用漢字でない物
蝿 窘める 誦む 攫って 上がり框 鸚鵡
他にもあったら追加してください。


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最終更新:2011年02月22日 01:16
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