【史話と伝説 静岡中部 (飯塚伝太郎) 松尾書店 1970年5月 抜粋】



P175~


安倍七騎 安倍山中の村々に安倍七騎の後裔だと称する家々がある。何村の誰れ彼れと数えるのに、人によってまちまちである。七人の住所姓名を記した古い記録は見ないが、足久保の石谷(いしがや)氏の宅で次のような文書を見た。

  駿河国安倍七騎姓名覚

御神君御紋付頂戴       落合村 狩野 九郎兵衛
柿島村の内、上落合に塚あり      大村五郎左衛門
腰越村の内、菅沼と云所に塚有     長島甚太右衛門
平野村の向村、岡村に塚有       季(末)高石見守
               俵峰村 杉山 仁左衛門
               郷島村 海野 惣右衛門
              足久保村 石谷重郎左衛門

右安倍七騎の儀は、永禄天正の頃、武田信玄公の幕下(はたもと)となり、遠州小山籠城其外甲斐は勿論、信州川中島高遠、所々に於て数度の軍功によって武田家より御朱印頂戴、其名隠れなきものなり、然りといえども年暦相たち巨細相わかりかね、各々その先祖の武功知れがたきにつき、古文書より写し取り今般石谷氏迄進上
  嘉永七寅年十月 狩野九郎兵衛嫡男
 当時駿府宮中に仮住居
  駿府浅間流鏑馬役
    兼高厚七源和章 花押


それから「駿河国風土記」には「此郡の俗説に安倍七騎の称あり。いづれの時よりいいしことにや詳かならず。また、其姓氏も一定ならず」として、続いて
 「俵峯 杉山小太郎右衛門、望月四郎右衛門。足久保 石谷弥兵衛。落合 狩野弥八郎朝久。村岡村 末高某。柿島 朝倉六兵衛在重。中野村 海野弥兵衛本定等の七人なりと云う。此海野、朝倉は七騎より大家にて、家格七騎の上にありて、上落合の大石、牛妻村の森谷沢に一人(姓名不詳)この七人なりしとも云う。今川、武田の頃の諺の残れるなり。この七騎と云える者の内、石谷、末高はお旗本の士となり、狩野は紀州(徳川)の御家人となり、朝倉、海野は郷士にて今に存す。杉山のみは百姓にて此村に住す」と記してある。
 「徳川実記」に「元和元年十一月六日、朝倉六兵衛在重死して、その子宣正家をつぐ」と見え、「寛政諸家譜」に「宣正郷士となる」とある。落合の狩野氏について、外の書に「里長(村長)富右衛門、先祖安倍七騎の内なり。家蔵の古文書武田氏の判形あり(永禄十三年二月、土屋右衛門尉、狩野弥次郎殿)又、同書に「俵峰、村長杉山氏は安倍七騎の一人なり。今川、武田両家の判形を家蔵す」とあり。
 むかし、これら安倍七騎の連中が、駿府に出てくる時には、七、八人の従者を連れて歩き、村に帰るときには、途に多少の金銭を撒きながら歩いたものだといわれている。



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最終更新:2015年07月09日 20:10