アマネオ

確信と核心(2019年)

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amaneo

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 かー、かー。

 カモメの声が聞こえるほど海沿いにある名呑高校。
「はいはい授業終わりまーす、来週までにこの宿題やらなかったら――えへ」

 乾より子が職員室へ戻ると、隣の待合室に黒縁眼鏡をかけた男がいた。
「警察の方らしい」

 傍にいた羅椎教員が囁くように言った。より子の頬にミント臭い吐息が当たったが、笑ったような彼女の表情は一切変わらない。
「何かあったんでしょうか」

 より子は六年前、近くの名呑小学校で起きた教員失踪事件を思い出す。教員の一人が、小学生が噂する「アマネオ」に襲われ、食べられてしまったと言われていた。
気がつくと警察は捜査をやめてしまっていて結局どうなったのか、より子は知らない。
「捜査らしい」
「捜査」

 刑事は色白童顔で若く見えるが、くたびれていない程度のスーツからすれば年齢は三十代前半といったところだ。
彼はどことなくふざけた顔でより子を見ていたが、教頭の案内で席を立ちやってきた。
「貴女が、乾より子さんですか。僕は警察やってます、巡査長の岩本洋一です」

 より子は、いかにも忙しいですよ、といわんばかりに用もなく出席簿を開く。
「ちょっと、お聞きしたいんですけどね」
「何も答えられないと思いますけど」

 肩までのショートボブを左手で梳く。岩本は彼女のそっけない態度に面くらいながら続ける。
「聞きたいのは名呑町の――その、ゑびす像や伝説について」

 より子の目が変わった。細い線のようだった目が、猫に取りつかれたように縦長くなる。それからすずいっと身を乗り出した。
「聞きたい? ねえ、ほんとに聞きたいです?」
「は、はい」

 二人の顔が近づく。岩本は背骨を引き抜かれて氷を突っ込まれたようにゾクゾクする。
「警察なのにそんなこと調べてる。もうただのオカルトじゃ済まなくなって、あなた、後戻りできないかもしれませんよ……えへ」
笑顔に纏わりつく不気味な空気。彼女の後ろの羅椎教員はそんな様子を初めて見たのか、身がすくんでいる。

 岩本はゆっくり息を吐く。

 ビンゴだ。大変なドSに会ってしまったかもしれない――じゃない! 糸口が掴めた。
「そいつはけっこうですね。オカルト好きなんで」

 岩本は手にじっとりと浮かぶ汗を隠しつつ、口許が綻ぶのは隠さなかった。

 階段の突き当たりにある扉を開けると、カモメが一斉に飛び去った。屋上のフェンスに背中を預け、岩本は腕を組む。
「失礼ですが、ある名簿を見たんですよ。あなたはリリジョン101に入信してませんよね」

 より子は頷く。岩本の隣に並んでフェンスを掴み、遠く内海を眺める。渡船がほら貝のような音を吹き鳴らして動きはじめた。
「のどかな風景。でもあの内海でよく行方不明者が出てるね。最近はニュースにもならないしあなたたちも捜査しないから、たいていの人は知らない」

 岩本は足先を見る。革靴の先には乾いた泥がついていた。
「私も生徒の噂で聞くだけ。この町は知らない間に人が消えてる。神隠しみたいに。えへ」

「あの、もう警察の人間が来ても、まともには応対しないでくださいね」

 より子は目を細めてニッコリ笑う。
「だから、まともには応対しなかったでしょう?」

 岩本はチラリとより子を見て、また目を逸らす。
「残念ですけど、警察は既にリリジョン101の傘下です。僕は勝手に調べてるだけです、まあ遅すぎたんですけど」
「それで、ゑびす像とリリジョン101に行き着いた。でもわからないんですね」

 まあそうですけど、と小さな声を漏らして岩本は語りはじめた。

 名呑警察署には行方不明者の情報が入ってきません。というか、事件自体が成立しないケースが多いんです。例えば誰々が海で消えたとか林で行方不明になったとかいう連絡は、時々入るんですよ。

 それで捜査に行くと、やっぱり誰もいなくなってなかったと、こう言われる。

 連絡してきたはずの家族に聞いても「旅行に行ってたのを忘れてた」とか、とってつけたような話がつくことさえある。

 連絡した者が出てこないまま、隣人の「知らない」の一点張りで追い返されたこともあります。そんな場合も、上からの圧力で捜査中止です。

 被害者もいない、加害者もいない、目撃者もいない。そうなると事件は事件にならないんです。

 たとえ本当に人が一人――いえ、何人消えていたとしてもね。リリジョン101は多分そういうやり方で、教団に敵対する者を消してきたんです。おっしゃったように「神隠し」の再現です。

 そういうときの捜査法って、結局歩いて子供に聞くしかないんです。大人に正攻法でいっても、たいていは信者ですからシラを切り通されて終わりです。とは いえ子供たちの情報はあやふやで、消えた人間は噂の「あまねお」に食べられたというように信じきってます。そんな化け物はありえない。失礼、オカルト好き のあなたからすれば不快だったかもしれませんが。

 で、確かなものだけ数えても、リリジョン101が宗教法人になった一九九五年以降の行方不明者は六十三人です。六十三人。、六十三人分の肉体と記憶がこ の町に拡散している。行方不明扱いにすらなっていない、記憶と記録から抹消され、はじめから存在していなかったことにされた者を合わせると更に増えるで しょう。この数字は異常ですよ。

 彼らの死体は見つかってないんですが、おおまかな消えた場所はわかったんです。子供たちのあやふやな情報を総合すると、名呑浜、名呑池、首坂の三つに集中してます。

 そこに何故かリリジョン101が信奉する名呑町の名物「ゑびす像」があると。そこから何が導き出せるのかわからないんですよ。
リリジョン101はそんなにまでして、何が目的なんでしょう。しかも教祖とされるマハカメリア宮は公式には既に「死んで」いる。

 教祖が死んでも組織は解体せず、蓮田ヒカリによって恐ろしいほどにまとまっている。一九九〇年には名呑内海に大発生したヒトラシキの公害事件にも関わっていた恐れがある。

 彼らはこの名呑町に何を起こそうとしているのか。行方不明者は何をされたのか。民俗学の観点から、この町の信仰を教えてほしいんです。
どうなんです?


「流された神――こどもが流れる悲しみ。居場所のないこども――親は選べない――えへ。今から名呑神社に行きましょう。次は私の推理の番です」
乾より子はフェンスの金具を撫でて口だけで笑った。

 放課後、乾と岩本は首坂を登っていた。次第に人里を離れ、森の色が濃くなっていく。山の上にある名呑大学と途中まで道が同じせいか、時折自動車が走っていく。

 しかしそれが去った瞬間にあたりは閑寂として、木葉の奥には得体の知れない暗がりが広がっているのに気づかされる。
「昔なら『神隠し』が起こると言われたら信じる者もいただろうな」

 岩本は呟く。声はすぐに静けさに吸い込まれていった。乾に呼び止められ、眼下に広がるダムを見た。夏場の夕方、まだまだ強い陽射しに青緑色の水面が反射する。
「そこのダム、古地図では地蔵堂があったみたいです。そこもおそらく道祖神ではなくゑびす像があったと思しいですね。本来地蔵が置かれる場所でも、あの像 が優先されることがあるんです。今ではダム底に沈んでますけど、人々はあの水を使っている。リリジョン101が崇める像――蝙蝠の羽とタコみたいな触手の 流された神――によって『浄められた』水をあなたも使ってる――えへ」

 岩本は背中にひんやりとしたものが流れるのを感じた。乾には彼の見ているものと別のものが見えている。

 これまで岩本が捜査と推理において持っていた「誰よりも先にわかっているのに動かないスタンス」というひねくれたプライドが、一般人によっていとも簡単に覆される。
「えへへ」

 彼女の真似をしたわけではなかったが、岩本は自然に笑いがこみあげた。彼にはそうしたプライドが傷つけられるのが、快感だった。
「ねえ今、赤ん坊の泣き声が聞こえませんでした? えへ」
「やめてくださいよ、乾さん。僕はオカルトの類は苦手ですし、信じてないですし」

 困ったように彼は言った。この態度は、怖い話をしたくてたまらない人間に調子よく話させるための計算された演技だった。
岩本は相手にもっと踏み込んできてほしい、なんなら怖がりの自分を蹂躙して凌辱してもらってもかまわないと思った。

 一方で、彼女も嬉しそうだ。既に三十歳を越えていたが、疲れを感じるどころかペースアップして首坂を上っていく。目指す場所は神域。彼女もその場所は詳 しく調べていない。しかしこの町に来てから九年、目立たないように調べてきた仮説が正しければ、重要な地点だった。好奇心が彼女を突き動かしていた。

 二人は名呑大学を抜け、更に山に分け入っていく。
「そろそろ、我々が何故名呑神社に向かっているのか、説明してくれませんか」

 草むらの中、辛うじて見える道を進む。
「うーんと。簡単に言えば、その『神隠し』――人間がやっているにしろ、彼らの宗教の要因は大きい――が起きてる地点が問題なんです。名呑浜、名呑池、こ こ首坂。ついでにさっきのダム。全て地図上で繋ぐと、古い参道にぴったり一致してて。だから道の脇にはゑびす像がある。海からやってきた神あるいは『何 か』が、町の中心にある名呑池を通り、首坂を上る。その先には――」

 えへ。

 乾が顔を上げたので、岩本もつられて見上げる。山の中腹には小さな神社があった。

 誰も管理していないのか、荒らされ放題の境内は不気味に佇んでいる。朽木を組み合わせた簡素な鳥居をくぐり、本殿に近づく。賽銭箱も鈴もない。

 本殿を覗いた岩本は、びくりとして短く息を吐いた。人間の頭ほどの大きな目が侵入者を見つめるように、奥の壁に左右一つずつ描かれていた。

 ぽつ。ぽぽつ。

 先程まで陽が射していたのが嘘のように、背後で突然雨が降り出した。

 当然のように本殿に入っていく乾に、岩本は遠慮がちについていく。乾は転がった陶器の瓶などを立て直しつつ、メモをとった。
「雨女って知ってるかしら」

 岩本は一瞬どこから声がしたのかわからなかった。
「知ってますよ。何か催し物の時、その女性がいると雨が降るっていうアレ」

 岩本は目の前の小さな背中に向かって話す。雨が屋根を打つ音が沈黙で空いた時間を埋める。
「その元になった伝承です。雨が降る時というのは、日常とは別の空間――異界になる。雨の日にこどもを神隠しで失くした母親は雨女になるんです」

 振り返った乾の顔は、目元が暗くてよくわからない。肩までの髪が、外からの湿った風で揺れている。

 えへ。

 しかし開いた口が笑っていることだけは、岩本にわかった。
「この神社はそれに近いのよ。ここの本尊は、ゑびす像じゃない。こどもを失くした母神だわ!」

 乾が指差した壁の一部には、漢字がびっしり刻まれていた。

天子怨天子怨海女禰音女海
天子怨天子怨女禰緒音緒禰
天子怨天子怨禰緒音緒海女

「こっちも!」

 本尊にあたる奥の壁には、女の絵と無数の風車、更に葦で作られた小舟が描かれている。

 乾は興奮して持ってきていたカメラで写真を撮りながら、言い続ける。
「流された神が流した母のもとに帰ってくる? 胎内回帰? まさか間引きの風習が? 怨みが」

 ちょっと、と岩本が肩を叩くが気付かない。
「仮説は違った。海から上ってくるんじゃない。この神社から海に生まれていく」
「お、落ち着けッ!」

 えへえへと笑いながら、乾は彼の方を向いた。指摘され、慌ててよだれを拭った。
「で、どういうことなんだい。リリジョン101の目的は。神隠しは」
「それはわからないわ」

 岩本は肩をすくめ、頭を抱えて壁に寄り掛かった。
「でもわかったことはたくさんあるの。まずこの漢字。読み方はわからないけど一つ一つ見るとニュアンスは伝わると思う。天、子ども、怨み、海、女(母親?)、禰は天の意に沿うこと、音、緒は臍の緒。多分これは神の名前だと思う」

 岩本の反応がない。ひとり首を傾げているが、乾は更に絵を見せる。
「ゑびす――つまりヒルコは、伝承では葦の舟に乗せられて流された。流したのはイザナミだったけど、ここでは他の水子供養とかと同一視されてよくわからない母神になってる。こどものおもちゃの風車は、水子でよくお供えされてるものだし」

 岩本は並んだ漢字を指で追い、自分の中で何が引っ掛かったのか確かめようとするが、うまくいかない。
「この神社の意味だけど――間引きや流産で悲しんだり怨んだりした母親や流れたこどもの供養のためだったのか。それともゑびす像に対になるものを後から作ったのか。そんなところだと思う」

 話を聞いているのかいないのか、岩本は漢字を読んでいる。
「てん、あま、こ、し、ね、えん、おん、うみ、いやあま、ね、おん?」

 岩本の脳裏に無愛想な少年とうるさい少女が浮かんだ。彼ら双子は、生体スーツを使っていた。「あまねお」。偶然かもしれないし、そうじゃないかもしれなかった。
「何かわかりました?」

 岩本は首を振った。コカゲに「あまねお」のことは秘密にしてくれと言われていた。彼自身も噂は噂のままに、そうした方がいいと思っていた。
「さて、じゃあどういうことになったかというと。私は元々、海からゑびすが参道を上がってくるという信仰が名呑町にあって、それをリリジョン101が利用 したんじゃないかと思ってた――えへ。でも違う。さんどうはさんどうでも、『参る』道じゃなかった。さて、この神社を女性の頭として、私達が上ってきたの は?」
「首坂」

 岩本は即答した。
「距離的にダムの辺りが心臓とすると、名呑池は下腹部……というかおヘソ。名呑浜周辺は膣になる。この町は全体を一人の女性として、ゑびすを産むために重要な部分にゑびす像を置いてる」

 ゑびすを産む。それは何を意味するのか。
「上ってくる参道ではなく下りていく産道なんですか」
「そう。リリジョン101にとってゑびす――得体の知れない『何か』――を産むことが大事なのはわかるけど、具体的に何をするのかはわからない。刑事さんの仕事かしら、えへ」

 岩本は腕を組んで考える。

 各地点で行方不明者が出るということは、その近くに彼らのアジトの一つがあるかもしれない。何らかの儀式でいけにえに使うのか。必要なら名呑池の中も調べなければならないか。池は濁っているから、うまく調べるには潜れる者がいる。
「あの双子――」

 あまねおについても聞かなければならない。名前の由来。そして意味するもの。
「あの、名呑池を調べるなら私もついていっていい――ですか。リリジョン101が宗教儀式をなぞる理由が知りたいの」

 外は暗くなり、空の端から夜が降りてきていた。既に本殿の中は文字が読み取れないほどだ。しかし乾は嬉しそうに闇の中ではしゃいだ。
「単なる好奇心でね――えへ」

 岩本は外に出て伸びをする。雨で緑の葉がてらてらと光り、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
「いいですよ。それなら紹介したい双子がいます」

 乾が食いつく。
「双子! 昔は男女なら
夫婦子めおとご)とも呼ばれていたの。双子というのは魂が分かれて――」

 雨は上がっていた。岩本は、一瞬だけ乾が雨女ではないかと思ってしまったことは、とりあえず言わないでおくことにした。

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