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「遥場 ~Through the Tulgey wood~」(2011/08/23 (火) 01:09:24) の最新版変更点
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**遥場 ~Through the Tulgey wood~ ◆vorpaLEJrs
開かない部屋に光が差した。
汗にぬるむ金属の臭いと、蜘蛛の巣に似た陥没の跡が、外界にさらされた。
それが彼と、彼の敗北のはじまりであった。
◇◆◇
山中へと続く歩道に、斜面の縁から土がこぼれた。
ささやかに崩れた泥砂を受けることなど、これまで幾度もあったのだろう。年季の入ったアスファルトのくすみは、蒸れた土の乾いた色と近似している。
そこに跳び下りたキース、グリーンのカラーネームを戴く少年は、足許に広がる諸々を顧みることなく歩みを再開していた。纏った体躯を大きく見せるダブル・スーツにボタンダウンのドレスシャツ、背伸びをしていることを隠そうとした跡がみられる出で立ちに上下動の余韻はない。視界に影を落とした髪のひと房を撫で付ける仕草につれて、光を透かしたロー・アンバーが金色に遷移する。
――鬱蒼たる森。そよそよと木々を鳴らす風。ささらに流れる川の水。じきに昇りはじめる朝日。
それらを背にして進む彼は、ゆっくりと息を吐き、吐いて吸う。
吐いて、吸う。吸って、吐く。
吐いて、吸い、
吸い込んで、
「ふ――」
すぼめた口唇から細くするどく、息をついた。
もはや、相手どる者の強弱など選ばない。それなら、身を隠しがたい平地にあえて進めば市街で真価を発揮するだろうレーダーの電源を節約出来ると考えていた。
その選択に応ずるように、平地には刈取るべき者がたたずんでいたのだから上出来といえよう。
――しかしながらこの構図は、めぐり合わせは一体なんの冗談だ?
閑寂な森で物想いにふけり、するどい剣を振るうと決めたキースシリーズの末弟。
両の眼を願いに燃やし、空間の断裂でアンジェリーナの首を刈り取ったキース・グリーン。
彼はARMSの名の由来となった物語の一節を想起し、これではどちらが魔獣か分かったものではないと感じて、感じたがゆえに浮かびかけた苦い笑みを袖口でぬぐう。
「……傑作だよ。森を抜けた、その先に遥場(はるば)があるとはね」
歩みを止めぬままにひと呼吸。そうして彼は、再度口角を吊り上げた。
剥き出しの前歯が表すものは侮蔑と嘲り。顔に刻んだ獰猛は威圧のための露悪か、諧謔まじりのそれとはいえ、赤木カツミのいない世界で笑みを浮かべかけた少年自身への戒めか――。
脳を遊ばせ内閉に至る夢想を、グリーンは次の一歩を踏み出す動作でもってねじ伏せる。
おおよそ数十歩の距離があろうとも、相手が人間を超えた身体能力をもつ以上、間合いにさしたる意味はない。エグリゴリ収容施設<アサイラム>において危険度Aとされた実験体を相手に五十歩と百歩の違いをはかることは、6と半ダースを比べることと同義だ。
空間を操るアドバンストARMS、チェシャキャットの使い手はそれを知っている。
半ダースの基準となる1ダースが、ときに『パン屋の1ダース』となりうることも。
「戦いの場に不似合いなモンが飛び出してきたかと思えば……」
空間移動に際する消耗もかんがみて間合いを詰めるグリーンの耳朶を、野太い声が叩いた。
表情もはっきりしない距離を渡るに相応な怒(ど)めきが、彼の左手をふさぐものの洞毛を逆立てる。
「こいつは貴様の連れか? キザ野郎――キース・グリーン」
「ずいぶんな呼び方をしてくれるじゃないか、牙<ファング>――コウ・カルナギ!」
片腕で猫をつかみ上げている男の名を、少年の側も明瞭につむいだ。
コウ・カルナギ。付近で一戦したのか、水をかぶり泥砂に汚れ、ハリネズミのような蓬髪をしおれるに任せた男の風体はけして良いものとはいえず、言動も野卑との形容が至当である。
だが、膂力も気力も横溢している様は、そうした印象を吹き飛ばすに過分なものだった。
北。コウ・カルナギが真面には、乾いて開けた平地だけが広がっている。
南。コウ・カルナギが後背にも、冬枯れを越えた草だけが植わっている。
川べりの草原は測量上の広さを超えて、カルナギとグリーンの領域に遥々と横たわっていた。
遥場と称した地の極軸にあって、澄んだ表情を浮かべた男は小揺るぎもしない。乱暴、粗暴と横暴をそなえた指に襟首を捕らえられている猫は、つままれていると言い換えた方がしっくりとくる有り様だ。
「ま、腹の足しにもならんのだから、なんでも構わんがよ」
転瞬、直立するカルナギの手から離れた猫が、凍て空に放物線を描いた。
弱(よわ)ぼらしい体躯の生き物は身をひねって着地。夜気をかきまぜた勢いで、再び走りだす。
遊びの最たるものから五指を開放したカルナギは、しかし、動かなかった。
前に進まず後ろに引き下がらず、彼は、凝然とキース・グリーンを見据えている。
「忘れたか、カルナギ」
挑むように踏み込む少年は、ゆえにこそ、渦巻く思いを喉奥にうずめかせる。
対するカルナギの顔には冷や汗の一滴もなく、きまり悪げに視線を逸らそうともしない。
「忘れたのか――あのとき、たしかに僕から退いたことを!?」
この男が自身に対して余裕を抱いていると感じ取ったがゆえに、少年は声を荒らげた。
燻り狂ったように足を伸ばす、グリーンと相手の間合いは、すでに二十歩を切っている。
この距離ならば、ヴォーパルの《魔剣》アンサラーはもとより、空間の断裂も必ず届く。ホワンの得意としていた衝撃波との連携で空間移動の札を切るにしても、疲労は許容の範囲に収まるだろう。
それでも彼は、チェシャキャットのキース・グリーンは歩みを止めない。
カツミを取り戻すためには、ここで断裂を放てば良いものを、歩みを止めることが出来ない。
出来ないはずで、あったのに。
「ああ、もちろん……思い出してるぜ」
残り十歩強というところで、その足が止まる。
伸ばそうとした腕が動かない。振るおうとした力が、振るえない。
カルナギの声音。そこに篭った、彼の印象すべてを裏切る静けさが少年を戦慄せしめる。
◇◆◇
開かない部屋に光が差した。
汗にぬるむ金属の臭いと、蜘蛛の巣に似た陥没の跡が、外界にさらされた。
すべてが金属で構成された、アサイラムの隔離部屋――。
そこから「出ろ」と言われたときに、コウ・カルナギは、所長の前に立つ《化物》を粉砕した。部屋と我が身に染み付いた食滓や垢、排泄物といったものどもの臭気は初撃の拳で臓物の、二度目の蹴りでオイルのそれに塗り替えられた。ここで抵抗したところで、世界を裏から牛耳るエグリゴリに束縛される有りようは変わらないだろうが、少なくとも、暴力は気分を入れ替える役を果たしてくれる。
果たしてくれる、はずだった。
滑り出しの良さとは対象的に、コウ・カルナギは最後の最後で、飛び退いた。
後退が警戒からきたものであろうと、退いて相手を見極める前に、その牙を折ってしまった。
彼を化物と呼わばる《化物》どもを飛沫とスクラップに変えたカルナギと、プリミティブな力に怯えていたガーンズバック所長。その間に伏線も予兆もなく割り入ったのは、青二才の優男。気負いなく腰に手をやり、満足げな微笑をたたえた《サー・グリーン》。
不敵な表情を崩さない彼を眼前に、後退するということは隔離部屋に近付くことと同義であった。あのとき少年がさらに踏み込んでいたなら、カルナギは退いて退き、生に望んだものどもすべてから隔絶される場所に戻ることさえあったかもしれない。
もう、誰にも変えようのない過去に刻まれている、それが『世界最強』の事実であった。
――それ以上突っ込んだら、君は死んでたよ。
彼の発した言葉ににじんでいた、優越が胸を衝いていたのに。
当然のごとくに発散していた余裕が、胃を押し上げていたのに。
微笑に染みた怜悧が、傲慢が酷薄が冷や汗を流せしめていたのに。
息をするたび、体の裡を不快感がひたひたと打っていたというのに。
それでも彼は、サー・グリーンの笑みからきまり悪げに視線を逸らして押し黙った。
再度飛び出すこともかなわず、ややあってつむいだ声からは、闘志も、虚勢も失せていた。
ならば、コウ・カルナギの最初に負けを喫した敵手は、彼が『火』を最初に消せしめた者は、新宮隼人ではない。
牙と闘うことなど端から望まず、指示を与えて動かすためだけにアサイラムを訪れたキザ野郎――《キース・グリーン》と名乗った少年に、彼は、闘う前からその意気をくじかれていた。
自由と金と敵。望むものを与えるとの言に、しいて噛み付こうとも思わなかった。
それが。それこそが彼と、彼の敗北のはじまりであった。
◇◆◇
「だからこそ、オレは気に入らねえ」
敗北感を味わわされた者と出くわすまで気付けないほどに、記憶の色は褪せていた。
さほど長くもない時間のうちに、思い出となるまで押しやってしまっていた過去。
その顕現を前にしてなお、コウ・カルナギは獣的な笑みを刻んで揺らがない。
自分がいつ、誰に、何に負けたか、どこで、どう、勝っていたのか――。
「キース・グリーン! 世界最強のオレに目を逸らさせた、このオレを飛び退かせた、貴様の“強さ”は今どこにある!?」
『世界最強』の土台をなすものを一顧だにせず、グリーンが背にする崖上で最強を謳っていた男は、怒めきを空にとどろかせる。
最強を名乗る男に膝をつかせた少年が、その声を聴かないはずもない。
「僕は――」
かつて自身のARMSを最強と称したキース・グリーンが、その声を聴けないはずはない。
彼我の間合いは、十歩強――近接戦の距離から変わっていない。そして、空間を操るグリーンのチェシャキャットは、近接戦においてはミドルレンジの維持やクロスレンジへの移行等を積極的に選択し、相手に即時の対応を迫れる力を有している。
「僕の、ARMSは」
人間ならば。『闘争』の意志を組み込まれ、それを真実と貫き通したキース・シルバー。敵意に満ちた世界に果てた兄の遺した言葉が遠ざかっていった背中が、押さえた左の胸に痛い。
彼のように選択を、意志を貫いて、最後まで貫き通すこと。あるいはもう一人の兄、キース・ブラックのように相手に選択を強いることが強さだというのなら――限定的なものとはいえ、そうした行いを可能とするチェシャキャットの能力は、『自分だけの』力は。いや、ああ――ああ、それでも。そうであっても。
「……チェシャキャットは、最強ではあり得ないんだっ!」
喉をふるわせたグリーンの、声は割れてざらついていた。
血を吐いたかと思われるほどに誰かを、なにかを思っていればこそ、その思いは言葉にならない。
苦味を含んだ表情、鼻の付け根に寄った皺だけが、彼の顔を十年ほど老いたものと錯覚させる。
――しかしてその顔をすら、もう負けられない少年は、他の誰にも見せはしない。
カルナギに向かって飛び込み、間合いを詰めると同時にグリーンが切った札は、チェシャキャットの空間転移。このプログラム全体の最強ではないが、彼自身が持つ力のうちで最も信頼のおけるカードだった。
遥場の空に溶けこんだ少年は、脳から血の引く脱力感を打ち払って敵手の背後へ回儀(まわりふるま)い、カルナギの周囲にある空間を揺さぶる。そうして生まれた衝撃波でもって、超人であろうと鍛えようのない脳幹を圧し、切り、穿ち――胸から外した右手で命を刈り取りにいく。
「――くっ!」
「ふ……ふふ、ははは、ははははは!!」
次の瞬間、たやすく穫れるはずであったカルナギの呵々大笑と、少年の舌打ちが交錯する。
突っ込んできた相手を迎撃するとみた刹那、彼は、横方向へ跳躍したのだ。
「ははは――はっ、やっぱな。消耗を抑えるなら、狙うのは鼻先か首筋だろ?
だったら横軸をずらせばいい。小細工を使うにしては、一撃で終わらせるやり口が透けて見えたぜえ」
死角に回って、奇襲をかける。
ジェームズ・ホワンの放った正論どおりの攻撃は、カルナギの右肩をかすめるにとどまった。
脇腹にでも決まっていれば、笑みを浮かべることすら難しかっただろうが――口の端に余韻が残ったところをみると、おそらく、腕を伸ばして放った衝撃波の範囲も見抜かれている。
「だが、だからそんなもんは――通じねえ」
岩を切り出したような男の顔から笑いが消え、燻るような怒りが灯った。
「バカにするな。戦いながら次の一戦を考えるヤツに、コウ・カルナギが負けると思うか!」
暴(ぼう)なる声が調子を変えて、びりびりと大気をふるわせる。
そこに念じて空間の断裂を呼び込めば終わるのだろうに、グリーンにはそれが、振るえない。
チェシャキャットの第二形態をあらわせばヴォーパルの――致命の魔剣がすべてを断ち切るのではないかとも感じているのに、グリーンには、そちらの道も選べない。
「それとも出し惜しみをしなければ、勝ち抜けないとでも思ったのか?」
怒りの底に哀れみを流したカルナギの瞳を前にして、少年には男を殺せない。
コウ・カルナギ。この男の瞳ににじんだ色を変えずして相手の命を穫ったところで、自分は、彼には永遠に勝てない。局地的な勝利をもぎ取った瞬間に、心のどこかが負けて歪んで、濁ってしまう。
根拠のない思いが、確信となって奥歯を軋ませる。
「カツミ……」
赤木カツミ。少年が心から欲した、心から守りたいと思えた少女。
その名を鞭と振るっても、グリーンの胸では嵐が止まない。意気も同じに、あがらない。
「なるほど。貴様もあのお嬢ちゃんか」
鞭を入れるほどに、鮮やかになるのが兄の、キース・ブラックの姿である。強さはどこに行った。先刻、そうと問われて少年の脳裡をよぎったのが、断裂をかわすまでもないと浴びた者。たった四人の家族である、キースシリーズの長兄であったのだ。
あのときにこそ、少年は、キース・グリーンだけの力に対する疑いを深めるに至った。
ジェームズ・ホワンから、キース・ブラックから、カツミを守れなかった力――。
その『武器』を振るい、挫折の記憶を抱えて進むしかないと気負うなら、彼は最強など名乗れない。
コウ・カルナギのように、恥も自分への疑いも知らぬ顔で自分を信じきることなど、もう、かなわない。
「だったら、そもそもオレと戦おうとしなくても良かったんじゃねーか。
とにかく全員倒すなんて作戦じゃなかろうと、たとえばオレが何人か減らしたっていいわけだろ。
――勝ち抜くために効率を考えたなら、そっちの方でも貪欲になってみせたらどうだ?」
息を詰まらせるグリーンの鼓膜を叩いたのは、まったくの正論だった。
その正論を、少なくとも表面上は疑っていないカルナギは、グリーンの半眼に色を消した瞳で対する。
「それが出来ねえなら……騎士でも気取って、死んどけや」
遠ざかる背中が最後に残した声は、ひどく投げやりに放られた。
◇◆◇
南。キース・グリーンが真面には黄変を免れた芝が、ただただ敷き詰められている。
北。キース・グリーンが後背にも、うるおいに乏しい草地がただただ広がっている。
あるじを変えてしまった遥場に、凪を越えた風が、吹き過ぎた。
服の繊維をすり抜けた冷気が運動の熱を冷まし、脱力と倦怠を深くする。
しかしてグリーンの呼吸は、いまもって浅くみじかい。
「僕は。僕の、チェシャキャットは……」
最強ではないとつむいだ声の残響を、彼は胸を押さえる手で圧し殺した。
現実を直視したはずであるのに、それがために勝ちを逃した今、その一節がひどく苦い。
戦いに遊びをまじえることなく、慢心を捨てて、反撃もかなわない者をただの一撃で葬る。
好き嫌いを捨てて見出した道。そこに自分を導いたのが理性か、あるいは敗北を――あらかじめ喪われてしまった『希望』がなくなることを恐れたがゆえの妥協なのか、グリーンには断ぜられない。
何度目かの風に、遠くの木々が鳴ったそのとき。郷遠(さととお)し少年は強くつよく、我が身を抱いた。
【E-2 平原/一日目 黎明】
【キース・グリーン】
[時間軸]:コミックス17巻NO.11『死王~バロール~』にて共振を感じ取って以降、コミックス18巻NO.3『聖餐~サクラメント~』にてキース・ブラックの前に立つ前。
[状態]:やや疲労
[装備]:いつものスーツ、参加者レーダー@オリジナル
[道具]:基本支給品一式+水と食料一人分、カツミの髪@ARMS(スーツの左胸裏ポケット)
[基本方針]:なんとしても最後の一人となる。
そのためなら兄さんや姉さんだって殺すし、慢心を捨てて気に入らない能力の使い方だってする。
※空間移動をするとかなり体力を消耗するようです。
【コウ・カルナギ】
[時間軸]:第五部開始時
[状態]:軽い疲労、両掌に軽い怪我、満腹
[装備]:なし
[道具]:なし
[基本方針]:サーチアンドデストロイ。ARMS、鬼丸を特に優先。刃も見つけ次第ブン殴る
※E-2/平原から、死んだはずのネコ@ARMSが逃げ出しました。
行き先などは後の書き手さんにお任せします。
*投下順で読む
前へ:[[エクストリーム自殺 アシュ様編]] [[戻る>第一放送までの本編SS(投下順)]] 次へ:[[ヘルダイバー]]
*時系列順で読む
前へ:[[銀の意志/銀の遺志]] [[戻る>第一放送までの本編SS(時系列順)]] 次へ:[[ヘルダイバー]]
*キャラを追って読む
|004:[[現在位置~You are here~]]|キース・グリーン| :[[ ]]|
|024:[[魔王 ~セイタン~]]|コウ・カルナギ|050:[[歯車が噛み合わない]]|
#right(){&link_up(▲)}
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**遥場 ~Through the Tulgey wood~ ◆vorpaLEJrs
開かない部屋に光が差した。
汗にぬるむ金属の臭いと、蜘蛛の巣に似た陥没の跡が、外界にさらされた。
それが彼と、彼の敗北のはじまりであった。
◇◆◇
山中へと続く歩道に、斜面の縁から土がこぼれた。
ささやかに崩れた泥砂を受けることなど、これまで幾度もあったのだろう。年季の入ったアスファルトのくすみは、蒸れた土の乾いた色と近似している。
そこに跳び下りたキース、グリーンのカラーネームを戴く少年は、足許に広がる諸々を顧みることなく歩みを再開していた。纏った体躯を大きく見せるダブル・スーツにボタンダウンのドレスシャツ、背伸びをしていることを隠そうとした跡がみられる出で立ちに上下動の余韻はない。視界に影を落とした髪のひと房を撫で付ける仕草につれて、光を透かしたロー・アンバーが金色に遷移する。
――鬱蒼たる森。そよそよと木々を鳴らす風。ささらに流れる川の水。じきに昇りはじめる朝日。
それらを背にして進む彼は、ゆっくりと息を吐き、吐いて吸う。
吐いて、吸う。吸って、吐く。
吐いて、吸い、
吸い込んで、
「ふ――」
すぼめた口唇から細くするどく、息をついた。
もはや、相手どる者の強弱など選ばない。それなら、身を隠しがたい平地にあえて進めば市街で真価を発揮するだろうレーダーの電源を節約出来ると考えていた。
その選択に応ずるように、平地には刈取るべき者がたたずんでいたのだから上出来といえよう。
――しかしながらこの構図は、めぐり合わせは一体なんの冗談だ?
閑寂な森で物想いにふけり、するどい剣を振るうと決めたキースシリーズの末弟。
両の眼を願いに燃やし、空間の断裂でアンジェリーナの首を刈り取ったキース・グリーン。
彼はARMSの名の由来となった物語の一節を想起し、これではどちらが魔獣か分かったものではないと感じて、感じたがゆえに浮かびかけた苦い笑みを袖口でぬぐう。
「……傑作だよ。森を抜けた、その先に遥場(はるば)があるとはね」
歩みを止めぬままにひと呼吸。そうして彼は、再度口角を吊り上げた。
剥き出しの前歯が表すものは侮蔑と嘲り。顔に刻んだ獰猛は威圧のための露悪か、諧謔まじりのそれとはいえ、赤木カツミのいない世界で笑みを浮かべかけた少年自身への戒めか――。
脳を遊ばせ内閉に至る夢想を、グリーンは次の一歩を踏み出す動作でもってねじ伏せる。
おおよそ数十歩の距離があろうとも、相手が人間を超えた身体能力をもつ以上、間合いにさしたる意味はない。エグリゴリ収容施設<アサイラム>において危険度Aとされた実験体を相手に五十歩と百歩の違いをはかることは、6と半ダースを比べることと同義だ。
空間を操るアドバンストARMS、チェシャキャットの使い手はそれを知っている。
半ダースの基準となる1ダースが、ときに『パン屋の1ダース』となりうることも。
「戦いの場に不似合いなモンが飛び出してきたかと思えば……」
空間移動に際する消耗もかんがみて間合いを詰めるグリーンの耳朶を、野太い声が叩いた。
表情もはっきりしない距離を渡るに相応な怒(ど)めきが、彼の左手をふさぐものの洞毛を逆立てる。
「こいつは貴様の連れか? キザ野郎――キース・グリーン」
「ずいぶんな呼び方をしてくれるじゃないか、牙<ファング>――コウ・カルナギ!」
片腕で猫をつかみ上げている男の名を、少年の側も明瞭につむいだ。
コウ・カルナギ。付近で一戦したのか、水をかぶり泥砂に汚れ、ハリネズミのような蓬髪をしおれるに任せた男の風体はけして良いものとはいえず、言動も野卑との形容が至当である。
だが、膂力も気力も横溢している様は、そうした印象を吹き飛ばすに過分なものだった。
北。コウ・カルナギが真面には、乾いて開けた平地だけが広がっている。
南。コウ・カルナギが後背にも、冬枯れを越えた草だけが植わっている。
川べりの草原は測量上の広さを超えて、カルナギとグリーンの領域に遥々と横たわっていた。
遥場と称した地の極軸にあって、澄んだ表情を浮かべた男は小揺るぎもしない。乱暴、粗暴と横暴をそなえた指に襟首を捕らえられている猫は、つままれていると言い換えた方がしっくりとくる有り様だ。
「ま、腹の足しにもならんのだから、なんでも構わんがよ」
転瞬、直立するカルナギの手から離れた猫が、凍て空に放物線を描いた。
弱(よわ)ぼらしい体躯の生き物は身をひねって着地。夜気をかきまぜた勢いで、再び走りだす。
遊びの最たるものから五指を開放したカルナギは、しかし、動かなかった。
前に進まず後ろに引き下がらず、彼は、凝然とキース・グリーンを見据えている。
「忘れたか、カルナギ」
挑むように踏み込む少年は、ゆえにこそ、渦巻く思いを喉奥にうずめかせる。
対するカルナギの顔には冷や汗の一滴もなく、きまり悪げに視線を逸らそうともしない。
「忘れたのか――あのとき、たしかに僕から退いたことを!?」
この男が自身に対して余裕を抱いていると感じ取ったがゆえに、少年は声を荒らげた。
燻り狂ったように足を伸ばす、グリーンと相手の間合いは、すでに二十歩を切っている。
この距離ならば、ヴォーパルの《魔剣》アンサラーはもとより、空間の断裂も必ず届く。ホワンの得意としていた衝撃波との連携で空間移動の札を切るにしても、疲労は許容の範囲に収まるだろう。
それでも彼は、チェシャキャットのキース・グリーンは歩みを止めない。
カツミを取り戻すためには、ここで断裂を放てば良いものを、歩みを止めることが出来ない。
出来ないはずで、あったのに。
「ああ、もちろん……思い出してるぜ」
残り十歩強というところで、その足が止まる。
伸ばそうとした腕が動かない。振るおうとした力が、振るえない。
カルナギの声音。そこに篭った、彼の印象すべてを裏切る静けさが少年を戦慄せしめる。
◇◆◇
開かない部屋に光が差した。
汗にぬるむ金属の臭いと、蜘蛛の巣に似た陥没の跡が、外界にさらされた。
すべてが金属で構成された、アサイラムの隔離部屋――。
そこから「出ろ」と言われたときに、コウ・カルナギは、所長の前に立つ《化物》を粉砕した。部屋と我が身に染み付いた食滓や垢、排泄物といったものどもの臭気は初撃の拳で臓物の、二度目の蹴りでオイルのそれに塗り替えられた。ここで抵抗したところで、世界を裏から牛耳るエグリゴリに束縛される有りようは変わらないだろうが、少なくとも、暴力は気分を入れ替える役を果たしてくれる。
果たしてくれる、はずだった。
滑り出しの良さとは対象的に、コウ・カルナギは最後の最後で、飛び退いた。
後退が警戒からきたものであろうと、退いて相手を見極める前に、その牙を折ってしまった。
彼を化物と呼わばる《化物》どもを飛沫とスクラップに変えたカルナギと、プリミティブな力に怯えていたガーンズバック所長。その間に伏線も予兆もなく割り入ったのは、青二才の優男。気負いなく腰に手をやり、満足げな微笑をたたえた《サー・グリーン》。
不敵な表情を崩さない彼を眼前に、後退するということは隔離部屋に近付くことと同義であった。あのとき少年がさらに踏み込んでいたなら、カルナギは退いて退き、生に望んだものどもすべてから隔絶される場所に戻ることさえあったかもしれない。
もう、誰にも変えようのない過去に刻まれている、それが『世界最強』の事実であった。
――それ以上突っ込んだら、君は死んでたよ。
彼の発した言葉ににじんでいた、優越が胸を衝いていたのに。
当然のごとくに発散していた余裕が、胃を押し上げていたのに。
微笑に染みた怜悧が、傲慢が酷薄が冷や汗を流せしめていたのに。
息をするたび、体の裡を不快感がひたひたと打っていたというのに。
それでも彼は、サー・グリーンの笑みからきまり悪げに視線を逸らして押し黙った。
再度飛び出すこともかなわず、ややあってつむいだ声からは、闘志も、虚勢も失せていた。
ならば、コウ・カルナギの最初に負けを喫した敵手は、彼が『火』を最初に消せしめた者は、新宮隼人ではない。
牙と闘うことなど端から望まず、指示を与えて動かすためだけにアサイラムを訪れたキザ野郎――《キース・グリーン》と名乗った少年に、彼は、闘う前からその意気をくじかれていた。
自由と金と敵。望むものを与えるとの言に、しいて噛み付こうとも思わなかった。
それが。それこそが彼と、彼の敗北のはじまりであった。
◇◆◇
「だからこそ、オレは気に入らねえ」
敗北感を味わわされた者と出くわすまで気付けないほどに、記憶の色は褪せていた。
さほど長くもない時間のうちに、思い出となるまで押しやってしまっていた過去。
その顕現を前にしてなお、コウ・カルナギは獣的な笑みを刻んで揺らがない。
自分がいつ、誰に、何に負けたか、どこで、どう、勝っていたのか――。
「キース・グリーン! 世界最強のオレに目を逸らさせた、このオレを飛び退かせた、貴様の“強さ”は今どこにある!?」
『世界最強』の土台をなすものを一顧だにせず、グリーンが背にする崖上で最強を謳っていた男は、怒めきを空にとどろかせる。
最強を名乗る男に膝をつかせた少年が、その声を聴かないはずもない。
「僕は――」
かつて自身のARMSを最強と称したキース・グリーンが、その声を聴けないはずはない。
彼我の間合いは、十歩強――近接戦の距離から変わっていない。そして、空間を操るグリーンのチェシャキャットは、近接戦においてはミドルレンジの維持やクロスレンジへの移行等を積極的に選択し、相手に即時の対応を迫れる力を有している。
「僕の、ARMSは」
人間ならば。『闘争』の意志を組み込まれ、それを真実と貫き通したキース・シルバー。敵意に満ちた世界に果てた兄の遺した言葉が遠ざかっていった背中が、押さえた左の胸に痛い。
彼のように選択を、意志を貫いて、最後まで貫き通すこと。あるいはもう一人の兄、キース・ブラックのように相手に選択を強いることが強さだというのなら――限定的なものとはいえ、そうした行いを可能とするチェシャキャットの能力は、『自分だけの』力は。いや、ああ――ああ、それでも。そうであっても。
「……チェシャキャットは、最強ではあり得ないんだっ!」
喉をふるわせたグリーンの、声は割れてざらついていた。
血を吐いたかと思われるほどに誰かを、なにかを思っていればこそ、その思いは言葉にならない。
苦味を含んだ表情、鼻の付け根に寄った皺だけが、彼の顔を十年ほど老いたものと錯覚させる。
――しかしてその顔をすら、もう負けられない少年は、他の誰にも見せはしない。
カルナギに向かって飛び込み、間合いを詰めると同時にグリーンが切った札は、チェシャキャットの空間転移。このプログラム全体の最強ではないが、彼自身が持つ力のうちで最も信頼のおけるカードだった。
遥場の空に溶けこんだ少年は、脳から血の引く脱力感を打ち払って敵手の背後へ回儀(まわりふるま)い、カルナギの周囲にある空間を揺さぶる。そうして生まれた衝撃波でもって、超人であろうと鍛えようのない脳幹を圧し、切り、穿ち――胸から外した右手で命を刈り取りにいく。
「――くっ!」
「ふ……ふふ、ははは、ははははは!!」
次の瞬間、たやすく穫れるはずであったカルナギの呵々大笑と、少年の舌打ちが交錯する。
突っ込んできた相手を迎撃するとみた刹那、彼は、横方向へ跳躍したのだ。
「ははは――はっ、やっぱな。消耗を抑えるなら、狙うのは鼻先か首筋だろ?
だったら横軸をずらせばいい。小細工を使うにしては、一撃で終わらせるやり口が透けて見えたぜえ」
死角に回って、奇襲をかける。
ジェームズ・ホワンの放った正論どおりの攻撃は、カルナギの右肩をかすめるにとどまった。
脇腹にでも決まっていれば、笑みを浮かべることすら難しかっただろうが――口の端に余韻が残ったところをみると、おそらく、腕を伸ばして放った衝撃波の範囲も見抜かれている。
「だが、だからそんなもんは――通じねえ」
岩を切り出したような男の顔から笑いが消え、燻るような怒りが灯った。
「バカにするな。戦いながら次の一戦を考えるヤツに、コウ・カルナギが負けると思うか!」
暴(ぼう)なる声が調子を変えて、びりびりと大気をふるわせる。
そこに念じて空間の断裂を呼び込めば終わるのだろうに、グリーンにはそれが、振るえない。
チェシャキャットの第二形態をあらわせばヴォーパルの――致命の魔剣がすべてを断ち切るのではないかとも感じているのに、グリーンには、そちらの道も選べない。
「それとも出し惜しみをしなければ、勝ち抜けないとでも思ったのか?」
怒りの底に哀れみを流したカルナギの瞳を前にして、少年には男を殺せない。
コウ・カルナギ。この男の瞳ににじんだ色を変えずして相手の命を穫ったところで、自分は、彼には永遠に勝てない。局地的な勝利をもぎ取った瞬間に、心のどこかが負けて歪んで、濁ってしまう。
根拠のない思いが、確信となって奥歯を軋ませる。
「カツミ……」
赤木カツミ。少年が心から欲した、心から守りたいと思えた少女。
その名を鞭と振るっても、グリーンの胸では嵐が止まない。意気も同じに、あがらない。
「なるほど。貴様もあのお嬢ちゃんか」
鞭を入れるほどに、鮮やかになるのが兄の、キース・ブラックの姿である。強さはどこに行った。先刻、そうと問われて少年の脳裡をよぎったのが、断裂をかわすまでもないと浴びた者。たった四人の家族である、キースシリーズの長兄であったのだ。
あのときにこそ、少年は、キース・グリーンだけの力に対する疑いを深めるに至った。
ジェームズ・ホワンから、キース・ブラックから、カツミを守れなかった力――。
その『武器』を振るい、挫折の記憶を抱えて進むしかないと気負うなら、彼は最強など名乗れない。
コウ・カルナギのように、恥も自分への疑いも知らぬ顔で自分を信じきることなど、もう、かなわない。
「だったら、そもそもオレと戦おうとしなくても良かったんじゃねーか。
とにかく全員倒すなんて作戦じゃなかろうと、たとえばオレが何人か減らしたっていいわけだろ。
――勝ち抜くために効率を考えたなら、そっちの方でも貪欲になってみせたらどうだ?」
息を詰まらせるグリーンの鼓膜を叩いたのは、まったくの正論だった。
その正論を、少なくとも表面上は疑っていないカルナギは、グリーンの半眼に色を消した瞳で対する。
「それが出来ねえなら……騎士でも気取って、死んどけや」
遠ざかる背中が最後に残した声は、ひどく投げやりに放られた。
◇◆◇
南。キース・グリーンが真面には黄変を免れた芝が、ただただ敷き詰められている。
北。キース・グリーンが後背にも、うるおいに乏しい草地がただただ広がっている。
あるじを変えてしまった遥場に、凪を越えた風が、吹き過ぎた。
服の繊維をすり抜けた冷気が運動の熱を冷まし、脱力と倦怠を深くする。
しかしてグリーンの呼吸は、いまもって浅くみじかい。
「僕は。僕の、チェシャキャットは……」
最強ではないとつむいだ声の残響を、彼は胸を押さえる手で圧し殺した。
現実を直視したはずであるのに、それがために勝ちを逃した今、その一節がひどく苦い。
戦いに遊びをまじえることなく、慢心を捨てて、反撃もかなわない者をただの一撃で葬る。
好き嫌いを捨てて見出した道。そこに自分を導いたのが理性か、あるいは敗北を――あらかじめ喪われてしまった『希望』がなくなることを恐れたがゆえの妥協なのか、グリーンには断ぜられない。
何度目かの風に、遠くの木々が鳴ったそのとき。郷遠(さととお)し少年は強くつよく、我が身を抱いた。
【E-2 平原/一日目 黎明】
【キース・グリーン】
[時間軸]:コミックス17巻NO.11『死王~バロール~』にて共振を感じ取って以降、コミックス18巻NO.3『聖餐~サクラメント~』にてキース・ブラックの前に立つ前。
[状態]:やや疲労
[装備]:いつものスーツ、参加者レーダー@オリジナル
[道具]:基本支給品一式+水と食料一人分、カツミの髪@ARMS(スーツの左胸裏ポケット)
[基本方針]:なんとしても最後の一人となる。
そのためなら兄さんや姉さんだって殺すし、慢心を捨てて気に入らない能力の使い方だってする。
※空間移動をするとかなり体力を消耗するようです。
【コウ・カルナギ】
[時間軸]:第五部開始時
[状態]:軽い疲労、両掌に軽い怪我、満腹
[装備]:なし
[道具]:なし
[基本方針]:サーチアンドデストロイ。ARMS、鬼丸を特に優先。刃も見つけ次第ブン殴る
※E-2/平原から、死んだはずのネコ@ARMSが逃げ出しました。
行き先などは後の書き手さんにお任せします。
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*キャラを追って読む
|004:[[現在位置~You are here~]]|キース・グリーン|057:[[現在位置~Fly! You can be Free Bird~]]|
|024:[[魔王 ~セイタン~]]|コウ・カルナギ|050:[[歯車が噛み合わない]]|
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